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ガラスの向こう側のキミへ

「三分以内にコピーが終わらなかったら帰りなさい」


植物店「フローリッシュ」の店長・高岡さんの言葉に、私は額に汗を浮かべながら小走りで事務所へと急いだ。バイト初日から遅刻するなんて、最悪のスタートだ。


「間に合え、間に合え…」


コピー機のボタンを必死で押しながら、私――榊原陽菜は自分の不運を呪った。そもそも、面接の日に店長が「明日から来てね」なんて急に言うからこんなことになったんだ。しかも今日は大学のレポート締め切りなのに。


プリンターが唸りを上げ、紙が排出される。私は一秒でも早くコピーを済ませるべく、ページを急いでめくった。


「あと一分…」


私は必死に時計を睨んでいた。そこに、事務所のドアが開く音がした。


「遅刻したくせに、悠長にコピーなんてとってるの?」


無表情な男性が入ってきた。黒の制服に身を包み、細い目元に睨むような視線。まるで審査員のように私を見下ろしている。


「え、いや、店長に言われて…」


「言い訳。お客様を待たせているんだぞ」


彼は冷たく言い放つと、私の手からコピー用紙を奪い取った。


「これは何のコピー?」


「あ、あの、お花の管理表です」


「この管理表は昨年のやつだ。意味ないよ」


男性は呆れたように紙を机に置いた。彼のネームプレートには「日向 匠」と書かれている。店長の次に勤続年数が長いスタッフらしい。


「あ…すみません…」


「初日から使えないバイトは要らないって、店長も言ってたよ」


日向さんは冷たい視線を向けてから部屋を出て行った。私は天井を見上げて深いため息をついた。


社交的な性格ではない私にとって、新しい職場での人間関係は常に難関だった。特に日向さんのような厳しい人がいると思うと、これからの出勤日が憂鬱になる。


――――――――――――――――――――――――


「榊原さん、この胡蝶蘭の水やりをお願いします」


他のスタッフの優しい指示に頷きながら、私は慎重に作業を進めていた。フローリッシュは街の中心部にある小さな花屋だが、珍しい植物や洗練された商品構成で人気を集めているらしい。


「あの、水はどのくらい…」


質問しようと振り返った瞬間、私はグラつき、鉢を抱えたまま尻餅をついた。


「きゃっ!」


床に水がこぼれ、土も散らばる。その光景に足音が近づいてきた。


「やっぱり」


嫌な予感がした通り、日向さんだった。彼は眉根を寄せて私を見下ろしている。


「ごめんなさい!今すぐ片付けます!」


私は慌てて立ち上がろうとしたが、濡れた床で足を滑らせ、再び転んでしまった。


「もう、見てられないな」


日向さんは無言でモップを持ってきて、手際よく床を拭き始めた。


「私がやりますから…」


「いい。それより、植物を見てみろ」


そう言われて見ると、胡蝶蘭の茎が折れかけていた。


「これは…」


「この胡蝶蘭は一鉢三万円する高級品だ。折れたら弁償だぞ」


私は青ざめた。バイト代の何倍もする金額だ。


「でも、まだ完全には折れてないな」


日向さんは小さく舌打ちすると、慎重に胡蝶蘭を持ち上げた。


「応急処置はできる。俺についてこい」


植物専用の処置室に案内され、日向さんが器用に茎を固定するのを見ていると、彼の表情が変わっていることに気づいた。さっきまでの冷たさはどこへやら、真剣な眼差しで植物に向き合っている。


「植物は言葉を持たない。だから、小さな変化も見逃さないことが大切なんだ」


彼の声は静かだったが、その言葉には重みがあった。


「日向さん、植物が好きなんですね」


「当たり前だろ。好きじゃなければこんな仕事しない」


彼は言葉とは裏腹に、柔らかい手つきで植物を扱っていた。


「これで大丈夫。でも一週間は様子を見ないといけないな」


「本当にすみませんでした…」


「気をつければいいだけだ。それより」


日向さんは真っ直ぐに私を見た。


「なぜこの仕事を選んだ?植物に興味があるのか?」


その質問は意外だった。私は正直に答えた。


「実は…自分の部屋に緑を増やしたくて。それで、植物の知識を得たいと思って」


「部屋の緑…か」


日向さんは少し考え込むような表情をした後、ふと言った。


「じゃあ、明日は早く来い。開店前に基本的なことを教えてやる」


「え?」


「聞こえなかったのか?明日、7時に来い」


「はい!ありがとうございます!」


日向さんはそれだけ言うと、胡蝶蘭を元の場所に戻しに行った。


彼の背中を見送りながら、私は少し安心した。完全な氷の人間ではないらしい。


――――――――――――――――――――――――


次の日、私は言われた通り7時ぴったりに店に到着した。まだシャッターが閉まっている。


「おはよう」


背後から声がして振り返ると、日向さんが立っていた。いつもの黒い制服ではなく、ジーンズにシンプルなTシャツという私服姿だ。


「おはようございます!」


「まずは市場に行くぞ」


「市場ですか?」


「新しい植物を仕入れるんだ。店長から頼まれていた」


日向さんの車に乗り込み、市場へと向かう。朝の街並みを眺めながら、私は会話を続けようと試みた。


「日向さんは、いつからここで働いているんですか?」


「大学卒業してからだから、5年になる」


「そうなんですね。植物関係の学部だったんですか?」


「園芸学科だった」


会話はぎこちなかったが、少しずつ日向さんについて知ることができた。彼は無口で厳格だが、植物の話になると目が輝き、言葉も増える。


市場に着くと、そこは想像以上に広く、活気に満ちていた。色とりどりの花、珍しい観葉植物、専門的な園芸用品…目移りするほどのものが並んでいる。


「わあ…すごい…」


「初めて?」


「はい。こんな場所があるなんて」


「プロはみんなここで仕入れをする。ついてくるんだ」


日向さんは手際よく植物を選び、交渉し、あっという間に必要なものを揃えていった。その姿は昨日までの厳しい先輩というより、自分の世界に没頭する職人のようだった。


「これも連れて帰ろう」


彼が指さしたのは、小さな多肉植物だった。


「これは仕入れリストにないですよね?」


「お前の部屋用だ」


「え?」


「初心者でも育てやすい。これを育てられたら、次のステップに進める」


私は嬉しさで胸がいっぱいになった。


「ありがとうございます!大切にします!」


日向さんは照れくさそうに視線をそらした。


「別に大したことじゃない」


その瞬間、彼の表情が柔らかいことに気づいた。厳しい先輩の仮面の下には、優しさが隠れていたのかもしれない。


――――――――――――――――――――――――


それから数週間、私は毎朝の市場巡りに同行させてもらうようになった。植物の選び方、水やりのコツ、季節ごとの管理方法…日向さんから学ぶことは尽きなかった。


ある日、私は店の窓ガラスを磨いていた。外は雨で、ガラスに映る自分の姿がぼんやりと見える。そこに日向さんの姿も映り込んだ。


「あら…」


「何をぼーっとしてる」


「いえ、ガラスの向こうに見える景色を見ていたんです」


「景色?雨しか降ってないじゃないか」


「でも、このガラス越しに見る雨って、なんだか絵画みたいで素敵だなって」


日向さんは不思議そうな表情をした後、私の隣に立ってガラス越しの風景を眺めた。


「確かに…悪くないな」


二人で並んで窓の外を見ていると、なぜか心が穏やかになった。雨の街並み、通り過ぎる人々の傘、そして窓ガラスに映る私たちの姿。すべてが一枚の絵のように美しく感じられた。


「ねえ、日向さん」


「何だ?」


「私、このバイト、続けられそうですか?」


正直に尋ねた。初日の失敗から少しずつ成長しているとは思うけれど、まだまだ不安だった。


日向さんは少し考えてから答えた。


「最初は正直、長続きしないと思った」


「やっぱり…」


「だが、お前は意外としぶとい。そして…」


彼は言葉を選ぶように一度止まった。


「植物を見る目が、日に日に変わってきている。それは大事なことだ」


その言葉を聞いて、私は胸が温かくなった。


「ありがとうございます。もっと頑張ります!」


「ああ」


二人で窓を磨き続けていると、雨がやんで、太陽が顔を出し始めた。窓ガラスに反射する光が、店内に虹色の模様を描き出す。


「きれい…」


思わず声に出した瞬間、日向さんと目が合った。彼の表情が、いつもより柔らかいことに気づく。


「そうだな」


彼の瞳に映る私の姿と、窓ガラスに映る彼の姿。どちらも同じように輝いて見えた。


この瞬間、私たちの間に何かが生まれ始めていることを、うっすらと感じた。それは、ガラスの向こう側に見える、新しい景色のようだった。


――――――――――――――――――――――――


「榊原さん、この配達をお願いできる?」


店長から大きなアレンジメントを渡された。配達先は近くのオフィスビルだという。


「はい、わかりました」


重い鉢を抱えて店を出ようとしたとき、日向さんが声をかけてきた。


「ちょっと待て」


「はい?」


「その持ち方じゃ花が傷む。こうやって持つんだ」


彼は私の手の位置を直し、安定するように教えてくれた。その時、彼の手が私の手に触れ、ドキッとした。


「あ、ありがとうございます」


「気をつけて行ってこい」


日向さんの言葉づかいは相変わらず素っ気ないけれど、目には心配の色が見えた。


配達を終えて店に戻ると、日向さんが一人で閉店準備をしていた。店長と他のスタッフはもう帰ったらしい。


「お疲れ様です」


「ああ、お疲れ」


私は日報を書きながら、ふと思いついて尋ねた。


「日向さんは、どんな植物が一番好きですか?」


彼は棚の植物に水をやりながら答えた。


「サボテンかな」


「サボテン?トゲトゲしているのが?」


「ああ。見た目は近寄りがたいが、実は強くて生命力にあふれている。人に頼らず、厳しい環境でも自分の力で生きていく」


その言葉を聞いて、私は思わず笑った。


「何だ?」


「いえ、サボテンって…日向さんみたいだなって」


「は?」


「だって、最初は怖くて近づけなかったけど、実はすごく面白くて、優しくて、強い人だなって思うから」


日向さんは言葉に詰まったようだった。そして、予想外の反応が返ってきた。


「お前こそ、アサガオみたいだ」


「アサガオ?」


「朝は元気いっぱいで、日に日に成長していく。周りを明るくする力がある」


彼のそんな言葉を聞いて、私は胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。


「それって…褒められてますか?」


「さあな」


日向さんは照れくさそうに言うと、水やりを続けた。


店を出て、並んで歩きながら、私たちはそれぞれの植物の話をした。夕暮れの街を歩きながら、なぜか二人の距離が、最初に会った日よりもずっと近づいていることを感じた。


――――――――――――――――――――――――


「皆さん、今日はお疲れ様でした。来週は新しい季節の商品が入荷します」


店長の挨拶で今日の仕事が終わった。バイトを始めて一ヶ月が経ち、私はだんだんと仕事に慣れてきた。


「榊原、少し時間あるか?」


日向さんに声をかけられ、私は頷いた。最近は「榊原さん」ではなく「榊原」と呼ばれるようになった。それだけでも距離が縮まった証拠だと思う。


「どうしました?」


「ついてこい」


彼は私を店の裏にある小さな温室へと案内した。そこには見たことのない花が咲いていた。


「これは…」


「ガラスの花と呼ばれる希少種だ。雨の日の窓ガラスを思い出してな」


透明感のある白い花びらは、確かにあの日の窓ガラスのようだった。雨に濡れたガラスを通して見る世界のように、花びらの向こう側が透けて見える。


「綺麗…」


「明日から店頭に出すけど、これを育てたいと思わないか?」


「え?」


「お前の部屋に、緑を増やすんじゃなかったのか?」


「でも、こんな貴重な花を私に…」


「大丈夫。お前なら育てられる」


日向さんの信頼の言葉に、私は思わず目頭が熱くなった。


「ありがとうございます!必ず大切にします!」


「ああ、期待してる」


彼はそっと花を私に手渡した。その瞬間、私たちの指が触れ合い、静かな温室の中で時間が止まったように感じた。


「日向さん…」


「何だ?」


「私、この花屋で働けて本当に良かったです」


「そうか…」


彼は少し間を置いて、静かに言った。


「俺もだ」


それだけの言葉だったけれど、私の心は大きく揺れ動いた。ガラスの向こう側に見えていた景色が、今、目の前に広がっているような感覚。


「これからも、よろしくお願いします」


「ああ、よろしく」


透明な花びらの向こうに見える日向さんの姿は、初めて会った日とは全く違って見えた。厳しさの中に隠れていた優しさが、今は花のように咲いていた。


窓ガラスの向こうに広がる世界のように、私たちの関係も、これから新しい景色を見せてくれるのかもしれない。


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