傘のしずくに恋の予感
雨音が窓を叩く音が、微かに教室に響いていた。五月の柔らかな雨は、どこか物思いに耽るような気分にさせる。私、葉山陽菜は、窓際の席からぼんやりと外を眺めていた。
「あ、葉山さん、まだ帰らないの?」
振り返ると、クラスメイトの小野寺美月が立っていた。彼女は長い黒髪をポニーテールにまとめ、制服の襟元には小さなリボンのブローチをつけている。
「ううん、もう少ししたら帰るよ。美月ちゃんは?」
「私は委員会があるから、もう少し学校に残るんだ」
美月は微笑みながら答えた。その笑顔には、いつも不思議と心が温かくなる力があった。
「そっか。お疲れ様」
美月が去った後、再び窓の外に目を向ける。雨は少し強くなっていた。そういえば、今朝は急いでいて傘を持ってくるのを忘れていた。
「困ったな…」
ため息をつきながら、バッグの中を確認する。やはり傘はない。携帯を取り出し、天気予報を確認すると、この雨はしばらく続くらしい。
「どうしたの?」
突然、声をかけられて顔を上げると、クラスの端の席に座っている高橋一樹が立っていた。彼は背が高く、サッカー部のエースとして知られている。普段はあまり話さないけれど、優しい性格だという噂を聞いたことがある。
「あ、高橋くん…ちょっと傘を忘れちゃって」
「そうなんだ。大変だね」
一樹は窓の外を見て、雨の強さを確認するような仕草をした。
「実は僕も傘を忘れたんだ。でも友達から借りたから、もう一つあるよ。よかったら使う?」
予想外の申し出に、少し驚いた。
「え、いいの?でも、高橋くんは?」
「僕はこっちを使うから大丈夫」
そう言って、彼は二つ折りの黒い傘を取り出した。よく見ると、彼の手にはもう一つ、青い傘が握られていた。
「ありがとう。助かるよ」
傘を受け取ると、彼は照れたように頭を掻いた。
「いや、別に大したことじゃないよ。それじゃ、俺先に帰るね」
「うん、ありがとう」
一樹は軽く手を振って教室を出て行った。黒い傘を手に取りながら、なぜか心臓の鼓動が少し速くなっているのを感じた。
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翌日の朝、教室に入ると、一樹の席はまだ空いていた。昨日借りた傘をバッグから取り出し、机の上に置く。返しに行くタイミングを考えていると、教室のドアが開いた。
「おはよう」
一樹が入ってきた。髪が少し濡れていて、制服のシャツの袖も湿っている。窓の外を見ると、小雨が降っているようだった。
「おはよう、高橋くん」
彼が席に着くのを待って、傘を持って彼の席に向かう。
「あの、昨日はありがとう。傘、返しに来たよ」
「ああ、葉山さん。いや、こちらこそありがとう」
彼は微笑みながら傘を受け取った。近くで見ると、彼の瞳は思ったより深い茶色で、長いまつげが印象的だった。
「今日も雨なんだね」
何気なく言った言葉に、彼は頷いた。
「うん、でも昨日より弱いみたいだ。あ、そういえば」
一樹は少し考え込むような表情をしてから、口を開いた。
「昨日、駅前の本屋で見かけたんだけど、葉山さんだったよね?」
「え?あ、うん、そうかも。放課後に寄ったよ」
「そうなんだ。声をかけようと思ったんだけど、すごく集中してて、邪魔しちゃいけないかなって」
「そうだったんだ…」
実は昨日、私は小説を探していたんだ。読書が好きで、特に雨の日は家で本を読むのが楽しみだった。
「葉山さんって本が好きなの?」
「うん、結構好きかな。高橋くんは?」
「俺はあんまり読まないかな。でも、最近ちょっと興味があって…」
一樹は少し照れた様子で言葉を濁した。その表情がなぜか可愛らしく見えて、思わず微笑んでしまう。
「もし良かったら、おすすめの本とか教えてくれない?」
突然の申し出に、少し驚いた。サッカー部のエースが本に興味を持つなんて、意外な一面だった。
「いいよ。どんなジャンルが好きなの?」
「うーん、そうだなぁ…」
彼が考え込んでいるところで、チャイムが鳴った。
「あ、授業始まっちゃう。また後で話そう」
慌てて自分の席に戻る。席に着きながら、なぜか胸がドキドキしていることに気づいた。
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放課後、美月と一緒に図書委員会の仕事を終えて、教室に戻ると、一樹がまだ残っていた。彼は窓際の席で、何かノートに書き込んでいる。
「あれ、高橋くん、まだいたんだ」
声をかけると、彼は少し驚いたような表情を見せた。
「あ、葉山さん。うん、ちょっと宿題を片付けてたんだ」
「そっか。私も忘れ物を取りに来ただけだから、もう帰るよ」
バッグを手に取り、教室を出ようとしたとき、彼が声をかけた。
「あの、葉山さん」
「なに?」
「さっきの話なんだけど、おすすめの本とか、今度教えてくれないかな」
一樹の真剣な表情に、少し緊張した。
「いいよ。でも、どんなのが読みたいのか、もう少し具体的に教えてくれると助かるかな」
「そうだね…」
彼は少し考え込み、それから決心したように言った。
「実は、サッカーのことばかりじゃなくて、もっと色々なことに興味を持ちたいなって思ってて。特に文学とか、芸術とか…」
彼の言葉に、少し意外な気持ちを抱いた。いつも明るくて活発な印象だったけど、こんな一面もあるんだ。
「わかった。じゃあ、初めてでも読みやすい小説をいくつか紹介するね」
「ありがとう!」
彼の笑顔は、いつもより柔らかく見えた。
「じゃあ、明日、本のリストを持ってくるね」
「うん、楽しみにしてる」
教室を出る時、なぜか心が軽くなったような気がした。
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次の日、約束通り本のリストを持っていくと、一樹は嬉しそうに受け取った。
「わあ、こんなにたくさん…ありがとう!」
「気に入りそうなのをピックアップしてみたよ。もし読んでみて、感想とか聞かせてくれると嬉しいな」
「もちろん!今度の週末にでも本屋に行ってみるよ」
その後、昼休みにも本の話で盛り上がった。彼の真剣に聞く姿勢や、時折見せる好奇心あふれる表情に、次第に惹かれていくのを感じた。
その週の金曜日、放課後に再び雨が降り始めた。図書委員会の仕事を終え、玄関に向かう途中、一樹がサッカー部の練習から戻ってくるのを見かけた。
「お疲れ様、高橋くん」
「あ、葉山さん。お疲れ様」
彼は少し疲れた表情を浮かべながらも、優しく微笑んだ。
「今日も雨か…」
彼は外を見て、小さなため息をついた。傘を持っていないように見える。
「傘、持ってる?」
「あ、今日も忘れちゃった…」
彼は照れたように頭を掻いた。
「じゃあ、今度は私が貸すよ」
バッグから折りたたみ傘を取り出す。
「え、でも葉山さんは?」
「私は大丈夫。家まで近いし、雨も弱いから」
実際は、そんなことはなかった。でも、彼に傘を貸したい気持ちが強かった。
「そういうわけにはいかないよ。一緒に帰ろう」
一樹の提案に、心臓が跳ねるのを感じた。
「一緒に?」
「うん、この傘で二人で帰ろう。狭いけど、二人なら入れるよ」
彼の言葉に、頬が熱くなるのを感じた。
「…うん、ありがとう」
校門を出ると、雨は少し強くなっていた。一樹が傘を開き、私の方に差し出す。
「ほら、こっちに来て」
緊張しながら彼の隣に立つと、肩がかすかに触れ合った。彼の体温が感じられて、心臓がドキドキと鳴り響く。
「葉山さんの家はどっち?」
「あ、駅の方…」
「じゃあ、駅まで一緒に行こう」
雨の音だけが聞こえる中、二人で歩き始めた。狭い傘の下で、時々肩が触れ合う度に、胸がキュッと締め付けられる感覚。
「そういえば、本のリスト、ありがとう。土曜日に本屋に行ってきたんだ」
「え、もう?何か買ったの?」
「うん、リストの中から二冊選んで買ってみた」
彼の熱心さに、嬉しさが込み上げてきた。
「どれにした?」
「『風の歌を聴け』と『ノルウェイの森』。村上春樹って作家の本なんだけど」
「あ、いいチョイス!村上春樹は私も好きなんだ」
「そうなんだ!実は一冊目をもう読み終わったんだ」
「え、そんなに早く?感想は?」
「うん、最初は戸惑ったけど、不思議と引き込まれた。もっと知りたいって思った」
彼の率直な感想に、思わず笑みがこぼれた。
「そうだよね。村上春樹の作品って、そういう魅力があるよね」
会話が弾む中、いつの間にか駅に着いていた。雨はまだ降り続いている。
「ここまでありがとう」
「いや、こちらこそ。楽しかった」
傘から出ようとすると、彼が急に言った。
「あの、もしよかったら、また本の話をしたいな。今度、一緒に本屋に行かない?」
予想外の誘いに、言葉が出なかった。
「あ、ごめん。突然だったよね」
「ううん、嬉しい。行きたい」
素直な気持ちを伝えると、彼の顔が明るくなった。
「じゃあ、明日の放課後とか…」
「うん、いいよ」
別れ際、彼の笑顔が雨の中でも輝いて見えた。
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翌日の放課後、約束通り一樹と一緒に本屋に行った。彼は真剣に本を選ぶ姿勢が印象的で、私のおすすめに対して素直に耳を傾けてくれた。
「葉山さんって、本当に本が好きなんだね」
書棚の間を歩きながら、彼が言った。
「うん、小さい頃から読むのが好きで。世界が広がる感じがするんだ」
「わかるかも。最近読み始めて、そう思った」
彼の言葉に、心がじんわりと温かくなる。
本を選び終え、外に出ると、空は晴れていた。雨上がりの空気が清々しい。
「今日はありがとう。楽しかった」
駅前で別れる時、彼はそう言った。
「私も楽しかったよ」
「また行こうね」
「うん」
手を振って別れた後も、彼の笑顔が頭から離れなかった。
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それから数週間、私たちは少しずつ距離を縮めていった。本の話から始まり、お互いの趣味や将来の夢まで、様々な会話を交わすようになった。
ある雨の日の放課後、図書室で偶然出会った。私は返却された本を整理しており、彼は静かに本を読んでいた。
「あれ、高橋くん、珍しいね」
「ああ、葉山さん。実は、次の試合までちょっと時間があって…」
彼は少し照れたように微笑んだ。
「そうなんだ。何を読んでるの?」
「これ」
彼が見せてくれたのは、村上春樹の『海辺のカフカ』だった。
「おお、チャレンジングな選択だね」
「うん、難しいけど、なんだか引き込まれるんだ」
彼の熱心な様子に、思わず笑みがこぼれた。私が整理を終えると、彼も本を閉じた。
「もう帰る?」
「うん、仕事終わったから」
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
外に出ると、優しい雨が降っていた。彼は傘を差し出し、「一緒に」と言った。もう何度目かの共傘だけど、いつも心臓がドキドキする。
雨の中を歩きながら、彼が突然立ち止まった。
「葉山さん」
真剣な表情で私の名前を呼ぶ彼に、緊張が走る。
「なに?」
「ずっと言いたかったことがあるんだ」
彼は深呼吸をして、まっすぐに私の目を見つめた。
「葉山さんのことが、好きです」
雨の音だけが耳に届く中、彼の告白の言葉が響いた。
「最初は、ただ本のことを教えてもらいたいだけだった。でも、葉山さんと話すうちに、どんどん惹かれていって…」
彼の真摯な言葉に、胸が熱くなる。
「私も…高橋くんのこと、好きになった」
言葉にするのは恥ずかしかったけど、素直な気持ちを伝えたかった。彼の顔に、驚きと喜びが混ざった表情が広がる。
「本当に?」
「うん」
雨の中の告白は、小説のワンシーンのようだった。傘の下でそっと手を繋ぐと、彼の手は温かく、心強かった。
「これからもっと、葉山さんのことを知りたい」
「私も」
雨のしずくが傘を伝う音が、二人の新しい始まりを祝福しているかのようだった。
それは、雨の季節に芽生えた、私たちだけの小さな恋の物語—傘のしずくに映る、二つの心が寄り添う瞬間だった。