静かな図書委員と気まぐれな転校生
香ばしいパンの匂いが漂う校内の売店前。長蛇の列に並ぶ中で、茅野真琴は今日も一人、文庫本を片手に周囲の喧騒を遮断していた。
「あの、前に進んでもらっていい?」
後ろから声がかかり、真琴は我に返る。前の生徒との間に空いた距離に気づき、慌てて一歩前に詰める。
「ごめん、読書に夢中で…」
真琴は小さく謝ると、すぐに再び本の世界へと意識を戻した。三年生になって図書委員長を任された彼女にとって、本は空気のように自然な存在だった。
「次の人、どうぞ」
売店のおばさんの声に顔を上げると、いつの間にか自分の番になっていた。
「いつもの塩パンと紅茶を一つずつお願いします」
真琴はポケットから小銭を取り出しながら言った。毎日同じ注文、毎日同じ場所で食べる。変化を好まない彼女の日常は、今日も平穏に過ぎていくはずだった。
「すみません、塩パン、今売り切れちゃったのよ」
おばさんの言葉に、真琴の表情が微かに曇る。
「そう…じゃあ、他のでいいです…」
「あ、待ってください!」
突然、横から人影が割り込んできた。見れば、一人の男子生徒が手に持っていた塩パンを差し出している。
「これ、よかったら」
少年は笑顔で言った。真琴の知らない顔だ。制服はうちの学校のものなのに。
「え、でも…あなたのでしょう?」
「大丈夫だよ。僕、他のも買ったから。君、いつも塩パン買ってるよね?」
真琴は驚いて目を見開いた。知らない人に観察されていたという事実に、少し身構える感覚を覚える。
「ごめん、変に聞こえたかな。今日から転校してきた月島陽太っていうんだ。図書室でよく見かけるから」
月島と名乗る少年は、柔らかな雰囲気を漂わせていた。背は高すぎず、どこか親しみやすい風貌だ。しかし、その目には鋭い観察眼が宿っているように見えた。
「茅野…真琴です。ありがとう、でも遠慮しておきます」
真琴はきっぱりと断り、別のパンを買って立ち去った。
後ろから「またね、図書委員長さん」という声が聞こえたが、振り返らなかった。
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昼休み、図書室。真琴は返却された本を丁寧に元の場所に戻していた。静かな空間に満足しながら、彼女は本の背表紙を優しく撫でる。
「やっぱりここにいた」
突然の声に、真琴は思わず手にしていた本を取り落とした。振り向くと、朝の転校生が立っていた。
「びっくりさせてごめん。手伝うよ」
陽太は素早く落ちた本を拾い上げた。
「月島くん…なんでここが分かったの?」
「勘かな」陽太はニヤリと笑った。「それとも、運命?」
真琴は思わず目を逸らした。こういう軽い冗談を言う男子は苦手だった。
「図書委員長のバッジをつけてたから分かったんだ。それに、本が好きそうだったし」
陽太は拾った本を棚に戻しながら言った。
「君、ファンタジーが好きなんだね。この棚ばかり整理してる」
真琴は驚いた。たしかに彼女はファンタジー小説が好きで、この棚を担当していた。短時間でそこまで観察していたとは。
「ここで昼食べてもいい?実は学校の地理がまだよく分からなくて」
断る理由も見つからず、真琴は小さく頷いた。二人は窓際の読書テーブルに向かった。
「茅野さんはいつも一人で食べるの?」
「うん…友達と食べることもあるけど、本を読みながらの方が落ち着くから」
真琴はそう答えながら、自分のパンを取り出した。朝買ったクリームパンだ。
「これ、交換しない?」
陽太は自分の塩パンを差し出した。朝のものとは別の塩パンだ。
「え?」
「さっき遠慮したでしょ?でも本当は塩パンが食べたかったんじゃない?」
真琴は再び驚いた。なぜそこまで自分のことを気にかけるのか理解できなかった。
「そんなに気を使わなくても…」
「気使ってるんじゃないよ。僕も交換したいだけ」
陽太の言葉に、真琴は少し考えてから頷いた。
「ありがとう…」
パンを交換し、二人は静かに食べ始めた。真琴は時折、陽太を観察した。どこか掴みどころのない雰囲気を持つ男子だ。
「ねえ、茅野さん」
「なに?」
「君の好きな本、教えてくれない?」
真琴は少し躊躇った後、立ち上がってファンタジー棚から一冊の本を取り出した。
「これ…私の一番好きな本」
「『異世界の扉』か。面白そうだね」
「…読んでみる?」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。普段、自分から他人に話しかけることはほとんどない。まして好きな本を薦めるなんて。
「ぜひ!ありがとう」
陽太は嬉しそうに本を受け取った。その瞬間、真琴は彼の手首に赤い糸のようなブレスレットが巻かれているのに気づいた。
「その赤いブレスレット、珍しいね」
「これ?」陽太は少し表情を曇らせた。「…ちょっとしたお守りみたいなものかな」
その言葉には何か秘密が隠されているような気がした。真琴は聞きたいことがあったが、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「また明日も来てもいい?」
教室に戻る前、陽太がそう尋ねた。真琴は少し迷ったが、小さく頷いた。
「図書室は誰でも使えるから…」
それはイエスでもありノーでもない、あいまいな返事だった。
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次の日も、そのまた次の日も、陽太は図書室に現れた。最初は戸惑っていた真琴だったが、だんだんと彼の存在に慣れ始めていた。
「茅野さん、これ読み終わったよ。素晴らしかった!」
ある日、陽太は『異世界の扉』を返しに来た。その熱心な感想に、真琴は心がほんの少し開いた気がした。
「次はこれがおすすめ…」
自然と別の本を手に取る自分がいた。本を通じて、少しずつ会話が増えていく。
春の暖かな日差しが図書室に差し込む午後、真琴は陽太に尋ねた。
「月島くんは、どうして転校してきたの?」
陽太は窓の外を見つめながら答えた。
「父の仕事の都合で…でも本当は、自分で望んで来たんだ」
「自分で?」
「うん、ある人を探すために…」
その言葉に真琴は興味を惹かれた。
「誰を?」
陽太は赤いブレスレットに触れながら、不思議な表情を浮かべた。
「それはまだ、秘密」
真琴は何か重要なことを隠しているのを感じたが、それ以上は追及しなかった。
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放課後の図書室整理の日。真琴は一人で黙々と作業をしていた。
「手伝おうか?」
突然の声に振り向くと、陽太が立っていた。
「委員じゃないのに、大丈夫?」
「茅野さんが許可してくれれば」
真琴は少し考えてから頷いた。二人で本を整理していると、作業は驚くほど早く進んだ。
「ねえ、茅野さん」
本棚の間で陽太が真琴を見つめていた。
「昔から人と関わるのが苦手なの?」
唐突な質問に真琴は手を止めた。
「どうして…そう思うの?」
「いつも一人でいるから。それに、誰かが近づくとすぐに壁を作る」
真琴は言葉に詰まった。確かに彼女は人との距離を常に意識していた。傷つけられないように、期待しないように。
「中学の時…ちょっとしたことがあって」
真琴は言葉を選びながら話し始めた。親友だと思っていた子に裏切られた経験。それからは誰とも深く関わらないようにしていた。
「そうか…辛かったね」
陽太の優しい言葉に、真琴は胸が締め付けられる感覚を覚えた。
「でも、全員が同じじゃないよ」
陽太はそっと真琴の肩に手を置いた。
「人間関係は十人十色。一人一人違う色を持ってる。一人の色だけで、みんなを判断しないで」
その言葉は真琴の心に深く響いた。
「君の色も、とても素敵だと思うよ」
突然の告白に、真琴の頬が熱くなるのを感じた。
「ふざけないでよ…」
「本気だよ」
真琴は陽太の真剣な表情に、言葉を失った。
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それから数日後、真琴は図書室で一通の手紙を見つけた。自分の名前が書かれている。開けてみると、陽太からだった。
「茅野さんへ
実は僕には伝えられなかった秘密がある。明日、放課後の屋上で話したい。来てくれるとうれしい。
月島陽太」
真琴は手紙を何度も読み返した。秘密?何だろう?好奇心と不安が入り混じる。
翌日、陽太は図書室に現れなかった。真琴は終日落ち着かない気持ちで過ごした。
放課後、迷った末に屋上へ向かう決心をした真琴。ドアを開けると、陽太が夕日を背に立っていた。
「来てくれたんだ」
陽太は嬉しそうに笑った。その表情には、どこか安堵の色が見えた。
「手紙、読んだから…」
「ありがとう。実は僕、来週また転校することになったんだ」
その言葉に、真琴は胸が痛んだ。
「そう…急だね」
「うん。父の仕事の都合で…」
陽太は空を見上げながら続けた。
「でも本当は、君に会うために転校してきたんだ」
真琴は驚いて陽太を見つめた。
「どういう意味?」
陽太は赤いブレスレットを見せながら説明し始めた。
「これは占い師からもらったんだ。『赤い糸で結ばれた人を見つけるために』って」
にわかには信じがたい話だった。
「僕、前に君を遠くから見かけたことがあって。それから不思議と忘れられなくて…占い師に相談したら、このブレスレットをくれたんだ」
「でも、それって…」
「バカみたいでしょ?」陽太は苦笑した。「でも僕は信じてた。そして本当に君を見つけた」
真琴は言葉を失った。こんな展開は小説の中だけだと思っていた。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ。ただ、転校する前に伝えたくて…」
「私のことを…そんなふうに思ってくれてたなんて…」
真琴は頬を赤らめた。短い間だったが、彼女も陽太のことを特別に感じ始めていた。本を通じて、心を通わせていたから。
「茅野さん…いや、真琴」
陽太は一歩近づいた。
「短い間だったけど、本当に君に会えて良かった。これからも手紙で連絡してもいい?」
真琴は小さく頷いた。
「うん…いいよ」
夕日に照らされた二人の影が、赤い光の中で一つに重なった。
「あのね、月島くん…いや、陽太くん」
真琴は勇気を出して言った。
「私も…あなたに会えて良かった」
陽太の顔に笑みが広がった。
「これが運命の赤い糸ってやつかな」
真琴も笑顔で応えた。
「十人十色の恋愛模様…私たちの色は、どんな色になるのかな」
「それは…これからの楽しみだね」
二人は肩を並べて夕焼けを見つめた。別れが近いことを知りながらも、新しい始まりの予感に胸を躍らせていた。