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春風に舞う初恋の花びら

教室の窓から差し込む陽光が、机の上に幾何学模様の影を作り出していた。春の終わりを告げる風が、窓のカーテンをそっと揺らしている。私、綾瀬陽菜は、何気なく窓の外を眺めていた。


「ねえ、陽菜。また窓の外を見てるの?」


クラスメイトの佐々木美優が、不思議そうな顔で私を見つめていた。放課後の教室には、私たち以外誰もいない。


「ごめん、ちょっと考え事してた」


私は照れくさそうに笑いながら答えた。実を言うと、私はただぼんやりと春の終わりを惜しんでいたわけではない。校庭の桜の木の下で本を読む一人の少年の姿を、毎日同じ時間に見ていたのだ。


美優は私の視線の先を追って、にやりと笑った。


「もしかして、図書委員の加藤くん?」


図星を突かれた私は、思わず顔が熱くなるのを感じた。加藤遥斗。文学部に所属する三年生で、いつも一人で本を読んでいる。物静かで優しい雰囲気を持つ彼に、私はいつの間にか惹かれていた。


「違うよ!ただ、あそこの景色がきれいだなって思って…」


言い訳をする私の声は、自分でも分かるほど心もとなかった。


美優は椅子に腰かけると、深いため息をついた。


「陽菜は昔から嘘が下手よね。あのね、好きな人を見つめるときの目は特別なの。女の子なら分かるわ」


そう言って、美優は私の肩を軽くたたいた。


「でも、高校三年生の私たちにとって、恋愛なんて贅沢かもね。受験勉強で精一杯なのに」


美優の言葉には現実味があった。春が終わり、夏が来れば受験勉強が本格化する。好きな人を見つめる余裕なんて、本当はないはずだ。


「そうだね…」


私は小さく呟いた。でも、心のどこかでは反発を感じていた。恋愛と勉強、どちらも大切な高校生活の一部じゃないか。そう思う自分がいた。


――――――――――――――――――――――――


翌日の放課後。私は思い切って図書室に足を運んだ。加藤くんが本を借りに来るかもしれないという、わずかな期待を胸に。


図書室の扉を開けると、静寂が私を包み込んだ。本の匂いと木の香りが混ざった特有の空気が漂っている。平日の放課後にも関わらず、試験前ということもあってか、数人の生徒が真剣に勉強していた。


そして、奥の窓際の席に、彼はいた。


加藤遥斗。黒縁のメガネをかけ、一冊の分厚い本に没頭している。窓から差し込む夕日が彼の横顔を優しく照らしていて、まるで絵画のような美しさだった。


私は緊張で足が竦んだ。図書室に来たものの、どうすればいいのか分からない。ただぼんやりと立ち尽くす私を、図書委員の先輩が不思議そうに見ていた。


「あの、何か探している本はありますか?」


先輩の声に、私はハッとした。


「あ、いえ…文学の参考書を探していたんです」


適当に答えた私に、先輩は親切に文学コーナーを案内してくれた。その方向は、偶然にも加藤くんの席の近くだった。


本棚の前で、私は背表紙を眺めるふりをしながら、チラチラと加藤くんを見ていた。彼は本当に集中しているようで、周囲の気配にも気づいていない。


「『夏目漱石全集』、お探しでしたか?」


突然、背後から声がかかり、私は小さく悲鳴を上げそうになった。振り返ると、そこには加藤くんが立っていた。


「え、あ、はい…」


私の動揺した様子に、彼は少し戸惑ったような表情を見せた。


「すみません、驚かせてしまって。あなたが文学の棚を見ていたので」


彼は申し訳なさそうに微笑んだ。近くで見る彼は、想像以上に優しい雰囲気を纏っていた。


「い、いえ!私こそ邪魔してすみません!」


慌てて謝る私に、彼はくすっと笑った。


「邪魔なんてとんでもない。図書室は皆のものですから」


そう言って、彼は私の目の前の棚から一冊の本を取り出した。


「もし文学に興味があるなら、これはどうですか?漱石の『こころ』。高校生にも読みやすい名作ですよ」


彼が差し出した本を、私は恐る恐る受け取った。指先が触れた瞬間、小さな電流が走ったような気がした。


「ありがとうございます…」


「加藤遥斗です。文学部の三年生」


彼は自己紹介をしながら、柔らかく微笑んだ。


「綾瀬陽菜です。二年生です」


緊張しながらも、何とか自分の名前を告げることができた。


「綾瀬さん、よろしくお願いします。また図書室で会えたら嬉しいです」


そう言って、加藤くんは自分の席に戻っていった。


私の手には、彼が勧めてくれた『こころ』がしっかりと握られていた。胸の鼓動が早くなるのを感じながら、私はその本を借りることにした。


――――――――――――――――――――――――


それから数日、私は毎日放課後に図書室に通うようになった。最初は加藤くんに会えるかもしれないという期待だけだったが、彼が勧めてくれた『こころ』を読み進めるうちに、文学そのものにも興味を持ち始めていた。


「今日も来たんだね、綾瀬さん」


図書室に入るなり、加藤くんが私に気づいて声をかけてくれた。もう顔見知りになっていた。


「はい、『こころ』を読み終えたので、返却に来ました」


私は本を差し出しながら答えた。


「どうだった?感想を聞かせてほしいな」


彼は自分の席の隣を示し、座るように促した。私は緊張しながらも、彼の隣に腰を下ろした。


「最初は難しいかなと思ったんですけど…読み進めていくうちに、主人公の気持ちが少しずつ分かってきて…」


私は読書の感想を、拙い言葉ながらも一生懸命伝えた。加藤くんは真剣な眼差しで私の話を聞いてくれた。


「素晴らしい感想だね。綾瀬さんは文学の才能があるよ」


彼の言葉に、私は思わず頬が熱くなるのを感じた。


「そんなことないです…加藤くんこそ、文学に詳しいんですね」


「僕は単に本が好きなだけさ。読書は一人の時間を豊かにしてくれるから」


彼はそう言って、窓の外を見つめた。夕日に照らされた彼の横顔が、とても寂しげに見えた。


「加藤くんは、いつも一人で本を読んでるんですか?」


思い切って聞いてみた。


彼は少し驚いたような表情を見せた後、柔らかく微笑んだ。


「気づいていたの?うん、基本的には一人が好きなんだ。でも、最近は…」


そこで彼は言葉を切り、私をまっすぐ見つめた。


「最近は、綾瀬さんと一緒に本の話ができて楽しいよ」


その言葉に、私の心臓は大きく跳ねた。単なる社交辞令かもしれないのに、私はそれを特別な意味に受け取りたくなった。


「私も、加藤くんと話せて嬉しいです」


素直な気持ちを伝えると、彼は少し照れたように視線をそらした。


「そう言ってもらえると光栄だよ。あ、そうだ」


彼は自分のカバンから一冊の本を取り出した。


「これ、よかったら読んでみて。僕の好きな一冊なんだ」


それは村上春樹の『ノルウェイの森』だった。


「ありがとうございます。大切に読みます」


私は本を受け取りながら、加藤くんの優しさに胸が温かくなるのを感じた。


――――――――――――――――――――――――


初夏の日差しが強くなり始めた六月のある日。私と加藤くんは図書室での読書会の後、一緒に帰ることになった。放課後の校舎は静かで、二人の足音だけが廊下に響いていた。


「もうすぐ文化祭だね」


加藤くんが話題を切り出した。


「はい、文学部は何か企画するんですか?」


「うん、文学カフェをやる予定なんだ。お客さんに好きな本を選んでもらって、その本にちなんだお茶やお菓子を提供するっていう」


彼は楽しそうに企画を説明してくれた。


「それ、素敵ですね!」


「綾瀬さんもよかったら、手伝ってくれないかな」


突然の誘いに、私は驚いた。


「え、でも私文学部じゃないし…」


「大丈夫、外部協力者として。それに、綾瀬さんほど本を理解してくれる人は貴重だから」


彼の真剣な表情に、私は断る理由が見つからなかった。


「分かりました。喜んでお手伝いします」


私の返事に、彼は満面の笑みを浮かべた。その笑顔があまりにも眩しくて、私は思わず目を逸らした。


校門を出て、夕暮れの街へと歩き出す。初夏の風が私たちの周りを優しく包み込んでいた。


「あのね、加藤くん」


勇気を出して、私は話し始めた。


「実は、私…最初から加藤くんのこと知ってました。毎日、校庭の桜の木の下で本を読んでる姿を、教室の窓から見てたんです」


告白のような言葉に、自分でも驚いた。加藤くんは足を止め、私をじっと見つめた。


「そうだったんだ…」


彼の表情からは驚きが伺えた。


「変に思われたらごめんなさい」


恥ずかしさで頬が熱くなる。


しかし、加藤くんはくすっと笑った。


「実は、僕も…」


彼は少し躊躇いながらも、続けた。


「綾瀬さんが教室の窓から外を眺めてるのを、何度か見かけてたんだ。誰を見ているんだろうって…」


その言葉に、私は驚きと喜びが混じった複雑な感情に包まれた。お互い気づかないうちに、お互いを意識していたなんて。


「私たち、なんだか変な巡り合わせですね」


私はそう言って、少し恥ずかしそうに笑った。


加藤くんも柔らかく微笑み、ゆっくりと私の方に一歩近づいた。


「綾瀬さん、これは偶然じゃないと思うんだ。きっと…」


そこで彼は言葉を切り、真剣な表情で私の目を見つめた。


「文化祭の後、改めて話したいことがあるんだ」


その言葉に、私の胸は期待と不安で一杯になった。それは、私が想像しているようなことなのだろうか。


「はい、楽しみに待ってます」


私はそう答えながら、心の中で小さな希望の火が灯るのを感じていた。


夕焼けに染まる空の下、私たちはしばらく無言で並んで歩いた。言葉にはできない何かが、二人の間に流れていた。


春の終わりに始まった私たちの物語は、これからどんな色に染まっていくのだろう。初夏の風に乗せて、その答えはまだ先の未来へと舞っていった。


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