いつもの場所、いつもと違う視線
教室の窓から差し込む午後の陽光が、黒板に反射して不思議な模様を描いていた。高校二年生の春、新学期が始まって三週間が過ぎようとしていた。
「はぁ…」
私、朝倉陽菜は、机に突っ伏して大きなため息をついた。窓の外では桜の花びらが舞い、春の訪れを告げている。でも、私の心はまだ冬のままだった。
「また溜息ついてるの?陽菜って本当に老けるの早そう」
クラスメイトの佐々木美月が、ニヤニヤしながら私の机に近づいてきた。彼女はいつも明るく、クラスの人気者だ。私とは正反対の性格。
「うるさいなぁ…別に溜息なんかついてないよ」
私は顔を上げずに言い返す。実際のところ、私の溜息の理由は単純だった。隣のクラスに通う神崎歩—私が中学から密かに想いを寄せている人—が、今日も別の女子と楽しそうに話している姿を見てしまったからだ。
「ふーん、また神崎君のこと?」
美月は私の心を見透かしたように言った。
「違うってば!それより、宿題終わった?」
私は話題を変えようと必死だった。でも、美月の鋭い視線から逃れることはできない。
「終わったよ。それより、いい加減アプローチしたら?中学からずっと片思いって、もはや趣味の域じゃない?」
美月の言葉は耳に痛かった。でも、彼女は間違っていない。私は神崎くんと話すたびに緊張して、まともに会話ができない。そんな自分にイライラしていた。
「そんなの簡単に言えるわけないじゃん。神崎くんはクラスで一番人気があって、私なんて…」
言葉が途切れる。自分の存在の薄さを改めて実感して、胸が苦しくなった。
「陽菜、自分を卑下しすぎ。もっと自信持ちなよ。あなたには、あなたにしかない魅力があるんだから」
美月は真剣な表情で私を見つめていた。
「美月…」
その瞬間、教室のドアが開き、担任の高橋先生が入ってきた。
「席に着いて。ホームルーム始めるよ」
先生の声に、教室内がざわついた。
「今日はいいお知らせがあります。明日から文化祭の準備が始まります。今年はクラス対抗の演劇コンテストを行うことになりました」
教室内が歓声と不満の声で騒がしくなる。
「さらに、今年は特別企画として、隣のクラスと合同で劇を作ることになりました。相手は…2年B組です」
私の心臓が大きく跳ねた。2年B組—神崎くんのクラスだ。
「まじか!」
「B組って、神崎くんのクラスじゃん!」
教室内が再び騒がしくなる中、美月が私の肩を叩いた。
「チャンスじゃん!」
彼女の目は輝いていた。
「そんな…」
私の心は複雑だった。神崎くんと近くで活動できるのは嬉しいけど、自分の不器用さが露呈するのが怖かった。
「では、両クラスの代表者を決めたいと思います。立候補はいますか?」
クラス内が静まり返る。誰も手を挙げない。
「じゃあ、こちらで指名します。演劇部の…」
高橋先生の言葉が途中で切れた。
「私がやります!」
突然、美月が手を挙げて立ち上がった。
「あ、佐々木さん。いいね、演劇経験もあるし。他にはいませんか?」
誰も手を挙げない沈黙の中、美月が振り向いて私を見た。そして、予想外のことを言った。
「朝倉陽菜も一緒にやります!」
「ええっ!?」
私は思わず声を上げた。教室内の視線が一斉に私に集まる。
「朝倉さん、できますか?」
高橋先生の目が私に向けられた。断りたい気持ちでいっぱいだったが、美月の期待に満ちた顔を見ると、なぜか言葉が出てこなかった。
「あ、はい…がんばります」
自分でも信じられない返事をしていた。
「よし、決まりだな。放課後、B組の代表と打ち合わせをしてください」
そう言って、高橋先生はホームルームを終えた。
「なんで私を巻き込むの!?」
教室が騒がしくなる中、私は美月に詰め寄った。
「だって、これ以上ない神崎くんへのアプローチのチャンスじゃん!」
美月の目は煌めいていた。
「でも、私…演劇なんて…」
「大丈夫、私がサポートするから」
美月の自信に満ちた表情に、反論できなかった。
放課後、緊張で足がガクガクする中、私たちはB組の教室へ向かった。教室の前で深呼吸する私を見て、美月が笑った。
「そんなに緊張しなくても。ただの打ち合わせだよ」
「だって…」
言葉が途切れた瞬間、B組の教室のドアが開いた。
「あ、A組の代表?入っていいよ」
そこに立っていたのは、私の胸をときめかせる張本人—神崎歩だった。
「神崎くん!?あなたが代表なの?」
美月が驚いた声を上げる。私は言葉が出なかった。
「うん、なんとなく面白そうだと思って。君たちは佐々木さんと…朝倉さん、だよね?」
神崎くんが私の名前を知っていることに、心臓が止まりそうになった。
「そうです!よろしくお願いします!」
美月が元気よく答える。私はただ小さく頷くことしかできなかった。
「それじゃ、もう一人の代表も呼んでくるね」
神崎くんが教室の中に戻り、しばらくして別の男子生徒を連れて戻ってきた。
「こいつが、もう一人の代表の加藤だ」
「よろしく」
加藤という男子は、無愛想に一言だけ言った。あまり乗り気でない様子が見て取れる。
私たち四人は図書室に移動して、打ち合わせを始めた。
「まずは演目を決めないとね」
美月が積極的に話を切り出す。
「そうだね。何かアイデアある?」
神崎くんも前向きだ。一方、加藤くんは窓の外を眺めている。
「王道の『ロミオとジュリエット』とか?」
美月の提案に、神崎くんが頷いた。
「いいね、でも少し定番過ぎるかな」
「じゃあ、『シンデレラ』は?」
「それも良いけど…」
二人の会話が続く中、私はただ黙って聞いていた。加藤くんも同様だった。
「朝倉さんはどう思う?」
突然、神崎くんが私に話しかけてきた。
「え?あ、えっと…」
焦って言葉に詰まる私。この状況を何とかしなきゃと思った瞬間、頭に浮かんだのは、この前読んだ小説だった。
「もし…オリジナルの話を作るとしたら、どうでしょう?」
私の提案に、三人が驚いた顔で振り向いた。
「オリジナル?」
「はい…例えば、高校生活をテーマにした話とか」
言い終わると同時に、自分の発言を後悔した。きっと馬鹿にされると思った。
「それ、いいじゃん!」
予想外に、神崎くんが目を輝かせた。
「本当に?」
「うん、みんながリアルに演じられるし、オリジナリティもある。朝倉さん、すごいね!」
神崎くんの言葉に、顔が熱くなるのを感じた。
「それで、どんなストーリーにする?」
美月が興味津々で尋ねる。
「えっと、そこまでは…」
「いや、朝倉さんのアイデアだから、もっと聞かせてよ」
神崎くんの期待に満ちた顔に、私は勇気を出して、頭の中で形になりかけていたストーリーを話し始めた。
「例えば…普段は目立たない女子高生が、ある出来事をきっかけに、自分の新たな才能や魅力に気づいていく話とか…」
私の言葉に、神崎くんは真剣に耳を傾けていた。
「それ、良いね!主人公は朝倉さんがやればいいじゃん」
「え!?い、いや、私は裏方で…」
「いやいや、このアイデアを出した人が主役をやるべきだよ。朝倉さんなら絶対できる」
神崎くんの言葉に、どう反応していいかわからなかった。
「神崎、それ無理だって」
沈黙していた加藤くんが突然口を開いた。
「朝倉さんは超人見知りじゃん。舞台に立ったら固まるに決まってる」
彼の言葉は冷たく、心に突き刺さった。確かに彼の言う通りだった。
「加藤!」
神崎くんが声を上げた。
「事実じゃん。俺たちのクラスの評判も関わってるんだから、できる人がやるべきだよ」
加藤くんの冷たい視線が私に向けられる。涙が出そうになった。
「加藤くん、それは…」
美月が抗議しようとしたとき、予想外の出来事が起きた。
「陽菜はできるよ」
隣で静かに、でもはっきりと私の名を呼んだのは…神崎くんだった。
「え?」
私は驚いて彼を見上げた。
「陽菜はできる。俺、中学の時から陽菜のこと見てたんだ。人前ではおとなしいけど、実は誰よりも想像力豊かで、心の中は熱いんだよね」
神崎くんの言葉に、目が点になった。彼が私のことをそんな風に見ていたなんて。
「中学の時、国語の授業で陽菜が書いた物語を覚えてる?先生が特別に取り上げたやつ。あれ、すごく良かった」
そんなこと覚えていてくれたなんて…。私の顔が真っ赤になるのを感じた。
「それに、人見知りってことは、演技の上手い下手じゃなくて、経験の問題でしょ。僕たちがサポートすればいいんだ」
神崎くんの言葉に、心が温かくなった。
「ふん、勝手にすれば」
加藤くんは不満そうに椅子を引いた。
「私も陽菜ならできると思う!」
美月も援護してくれた。
「でも…」
まだ迷う私に、神崎くんが優しく微笑んだ。
「一緒にがんばろう?陽菜」
初めて名前で呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「は、はい!がんばります!」
思わず大きな声で返事をしていた。
それから一週間、私たちはシナリオ作りに没頭した。放課後の図書室で、四人で意見を出し合い、時に衝突し、時に笑い合った。加藤くんも、最初こそ反抗的だったが、次第に自分のアイデアを出すようになった。彼は意外と創造力があり、物語に深みを加えてくれた。
そして神崎くん—彼は常に私の意見を尊重してくれ、アイデアが行き詰まると励ましてくれた。彼との距離が縮まっていくのを感じて、毎日が夢のようだった。
「陽菜、この場面どう思う?」
「もう少し主人公の気持ちを掘り下げてみたらどうかな…」
そんな会話を重ねるうちに、私は少しずつ自分の殻を破っていった。意見を言うことが怖くなくなり、自分の想像力を信じられるようになった。
シナリオが完成に近づいた夜、他の二人が先に帰り、神崎くんと二人きりになった。
「陽菜、本当にありがとう。君のアイデアのおかげで、すごく良い作品になりそうだ」
神崎くんの言葉に、私は恥ずかしくなった。
「そんなことないよ…みんなのアイデアが集まったから」
「いや、陽菜が最初の一歩を踏み出したから、ここまで来れたんだ」
窓から差し込む夕日に照らされた神崎くんの横顔を見て、私はふと思った。今の私は、一ヶ月前の自分とは違う。あの時の私は、神崎くんと二人きりで会話することなど、想像もできなかった。
「神崎くん、どうして私のことを中学から覚えていてくれたの?」
勇気を出して聞いてみた。
神崎くんは少し驚いた表情をしたあと、穏やかに微笑んだ。
「実は…あの国語の授業の物語、僕のお気に入りなんだ。あの物語の主人公みたいに、誰にも気づかれていない才能を持った人って、実際にいるんじゃないかって思ってた。そしたら…」
彼は私の目をまっすぐ見つめた。
「陽菜がそうだった」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「そんな…私なんて…」
「いつも遠くから見てたんだ。でも、話しかけるきっかけがなくて…」
信じられない言葉だった。私がずっと憧れていた神崎くんが、私のことを気にしていたなんて。
「今回の文化祭、本当に良かった。やっと陽菜と話せるきっかけができて」
神崎くんの笑顔が、夕日に照らされて輝いていた。
「私こそ…」
言葉が詰まる。神崎くんへの気持ちを伝えるべきか迷った瞬間、彼の手が私の手に重なった。
「これからも…一緒にがんばろう?」
温かい手の感触と優しい言葉に、今まで閉じ込めていた想いが溢れそうになった。
「うん!」
私は明るく返事をした。いつもなら絶対できない返事。でも今の私は違う。自分の気持ちに正直になれる強さを、少しずつ得ていた。
窓の外では、満天の星が輝き始めていた。これからどんな物語が始まるのか、まだわからない。でも、一歩踏み出した今、私の世界は確実に広がっていた。