時計仕掛けの恋愛迷路
真夜中の十二時。
大学の時計塔から鐘の音が鳴り響いた瞬間、私の携帯電話が震えた。画面に表示された名前を見た途端、胸がざわついた。
「今から会える?」
送信者は「柏木陽太」。私の幼馴染であり、最近妙に意識してしまう相手だ。深夜の誘いなんて初めてだったから、返信に迷った。でも、好奇心が勝った。
「どこで?」
即座に返ってきた返事は、「時計塔の下で待ってる」という短いものだった。
私、青山莉子は、部屋の窓から外を見た。大学のキャンパス内にある時計塔は、月明かりに照らされてシルエットだけが浮かび上がっていた。
「行くべきか、行かざるべきか…」
自問自答しながらも、すでに私の体は動き出していた。薄手のカーディガンを羽織り、寮を抜け出す。夜の冷たい空気が頬を撫でた。
時計塔へ向かう途中、頭の中では様々な可能性が巡っていた。陽太が深夜に私を呼び出す理由なんて、考えれば考えるほど分からない。彼は普段から不思議な行動をする人だけれど、こんな時間に会うのは初めてだった。
時計塔が見えてきた。その下に立つシルエットは間違いなく陽太だった。彼は何かを手に持っているようだった。
「陽太!」
私が声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。
「来てくれたんだ」
陽太の表情は、月明かりの下でも読み取れないほど複雑だった。
「こんな時間に何があったの?」
私が尋ねると、陽太は手に持っていたものを差し出した。それは小さな懐中時計だった。
「これ、莉子にあげたくて」
古びた金色の懐中時計。表面には繊細な彫刻が施されていた。
「どうして…こんな時間に?」
陽太は空を見上げた。
「今日は特別な日だから。この時計、実は魔法の時計なんだ」
私は彼の言葉に首を傾げた。陽太はいたずら好きだけど、こんな話は初めて聞いた。
「魔法?」
「うん。この時計を持っている人の恋は、必ず実る…って言い伝えがあるんだ」
陽太の声には、いつもの冗談めいた調子がない。真剣な眼差しで私を見つめていた。
「そんな話、信じるの?」
私が半信半疑で聞くと、陽太は少し困ったように笑った。
「うーん、どうだろう。でも、試してみる価値はあるんじゃないかな?」
懐中時計を手に取ると、ずっしりとした重みがあった。表面には細かい傷があり、長い年月を経てきたことが伺える。蓋を開けると、中は美しい歯車の仕掛けで、秒針が静かに動いていた。
「これって…本当に古いものなの?」
「うん、曾祖父の形見なんだ。彼がこれを持っていた時、曾祖母と出会ったらしい」
陽太の話を聞きながら、私は不思議な感覚に包まれていた。単なる古い時計なのに、何か特別なものを感じる。
「ありがとう。大切にする」
私が礼を言うと、陽太はにっこりと笑った。
「明日、一緒に授業行こう?」
「うん、いいよ」
そして私たちは別れた。寮に戻る途中、懐中時計の秒針の音が、私の心臓の鼓動と重なるように感じた。
――――――――――――――――――――――――
翌朝、目を覚ますと、昨夜のことが夢のように思えた。枕元に置いてあった懐中時計を見て、現実だったことを確認する。
「莉子、起きた?」
ルームメイトの風間杏奈が、ドアをノックした。
「うん、起きてるよ」
ドアを開けると、杏奈が朝食のトーストを持って立っていた。
「ほら、今日も遅刻しそうだから」
「ありがとう!」
急いで制服に着替え、トーストをかじりながら鞄を持った。その時、懐中時計をどうするか迷った。結局、ポケットに入れることにした。
「それ、何?」
杏奈が懐中時計に気づいた。
「ただの時計だよ」
「へぇ〜、古風で素敵じゃん。どこで買ったの?」
「買ったんじゃなくて…もらったんだ」
そう言うと、杏奈の目が輝いた。
「誰から?男の子?」
「ちょっと、そんな詮索しないでよ!」
頬が熱くなるのを感じながら、急いで部屋を出た。
大学へ向かう道で、約束通り陽太と合流した。彼は時計塔の下で待っていた。
「おはよう、莉子」
「おはよう」
少し気まずい沈黙が流れた。昨夜のことを思い出すと、どう接していいか分からなくなる。
「時計、持ってきた?」
陽太が尋ねた。
「うん、ここに」
ポケットから取り出すと、陽太は満足そうに頷いた。
「そうだ、今日の放課後、ちょっと付き合ってくれないかな」
「どこに?」
「秘密」
陽太のミステリアスな態度に、私は好奇心をそそられた。
「分かった、行くよ」
授業中、私は集中できなかった。ポケットの懐中時計が気になって仕方なかった。時々取り出しては蓋を開け、美しい歯車の動きを見つめていた。
「おい、青山」
突然、隣の席から声がかかった。振り向くと、クラスの人気者である浅野歩夢が私を見ていた。
「その時計、面白そうだな。見せてくれないか?」
私は迷った。この時計は陽太からの大切な贈り物だ。でも、断る理由も見つからない。
「いいけど、気をつけてね」
時計を手渡すと、歩夢は興味深そうに観察し始めた。
「これ、すごいな。こんな精巧な懐中時計、初めて見た」
歩夢の顔が近づいてきて、私は少し動揺した。彼は学内でも評判のイケメンで、多くの女子が憧れる存在だ。私とはほとんど接点がなかったのに、今日は妙に親しげだ。
「どこで手に入れたんだ?」
「友達からもらったの」
「へぇ、いい友達じゃないか」
歩夢は時計を返しながら、私の目をじっと見つめた。
「放課後、時間ある?」
突然の誘いに驚いた。
「ごめん、今日は約束があるんだ」
「そうか、残念だな。じゃあ、また今度」
歩夢はさらりと言って、自分の席に戻った。
私は不思議な感覚に包まれた。懐中時計を手に入れてから、周囲の雰囲気が変わった気がする。気のせいだろうか?
――――――――――――――――――――――――
放課後、約束通り陽太と会った。彼は何やら神秘的な表情で私を迎えた。
「どこに行くの?」
「時計の博物館」
「時計の…博物館?」
意外な答えに驚いた。
「うん、その時計のことをもっと知りたいと思って。博物館の館長は時計の専門家なんだ」
私たちは電車に乗り、市の郊外にある小さな博物館へ向かった。建物は古風で、まるで時間が止まったような雰囲気があった。
中に入ると、様々な種類の時計が展示されていた。掛け時計、置き時計、懐中時計…どれも歴史を感じさせる品々だった。
「やあ、陽太くん」
奥から現れたのは、白髪の老紳士だった。温かな笑顔で私たちを迎えてくれた。
「こんにちは、鈴木館長。こちらは友人の莉子です」
「初めまして」
老紳士は私にお辞儀をした。
「陽太くんから話は聞いています。その懐中時計を見せてもらえますか?」
私はポケットから時計を取り出し、館長に渡した。彼は眼鏡越しに時計を詳しく観察した。
「なるほど、これは素晴らしい品だ」
「何か分かりますか?」
陽太が尋ねた。
「これは19世紀末のスイス製。非常に稀少な品ですよ。特に、この歯車の配置は珍しい」
館長は蓋を開け、内部の機構を指さした。
「伝説では、この特殊な歯車の配置が、持ち主に幸運をもたらすと言われています」
私と陽太は顔を見合わせた。
「どんな幸運ですか?」
私が尋ねると、館長は微笑んだ。
「それは持ち主次第です。この時計は、持ち主の最も望むものを引き寄せるとも言われています」
私の頭に、昨夜の陽太の言葉が蘇った。
「この時計を持っている人の恋は、必ず実る」
「信じられないけど、なんだか不思議な感じがする」
私がつぶやくと、館長は静かに頷いた。
「時計は時を刻むだけでなく、人生の節目を記録するもの。この時計があなたに何をもたらすか、それは時間が教えてくれるでしょう」
哲学的な言葉に、なぜか心が震えた。
博物館を出た後、私たちは近くの公園のベンチに座った。夕暮れが近づき、空が茜色に染まりつつあった。
「信じる?あの話」
陽太が尋ねた。
「分からない。でも、何か特別なものを感じる」
私は懐中時計を握りしめた。
「そういえば、なんで私にこれをくれたの?」
陽太は空を見上げた。
「理由を言えって?」
「うん」
「それは…」
彼は言葉を選んでいるようだった。
「莉子に幸せになってほしいから」
シンプルな答えだったが、そこに込められた想いは複雑に感じた。
「私のことが…好き?」
勇気を出して尋ねると、陽太は少し困ったように笑った。
「それは秘密」
曖昧な返事に、少しがっかりした。
「でも、その時計が莉子の望みを叶えてくれるといいな」
「私の望み…」
自分が本当に望んでいるものは何だろう。答えが見つからず、私は懐中時計の蓋を開けた。秒針が刻む音が、静かな決意のように聞こえた。
――――――――――――――――――――――――
それから一週間、不思議なことが続いた。
まず、クラスの歩夢が頻繁に話しかけてくるようになった。
「青山、今日も時計持ってる?」
「うん、ここにあるよ」
「やっぱりいいな、その時計」
歩夢は何度も私の懐中時計に興味を示した。そして、いつの間にか私のことを「莉子」と呼ぶようになっていた。
さらに驚いたのは、学園祭実行委員の中村先輩が突然、私を委員に誘ってきたことだ。
「青山さん、時間測定係をやってくれないかな?君の持っている時計が目に留まってね」
懐中時計のおかげで、突然人間関係が広がり始めた。でも、肝心の陽太との関係はあまり変わらなかった。彼は相変わらず優しいけれど、距離感が掴めない。
放課後、図書館で勉強していると、陽太が隣に座った。
「どうだい、時計の調子は?」
「うん、順調だよ。ただ…不思議なことが起きてるの」
私は最近の出来事を話した。陽太は真剣に聞いていたが、途中で表情が曇った。
「そうか…歩夢も中村先輩も、莉子に興味を持ち始めたんだ」
「時計のおかげかな…」
「かもね」
陽太の声がいつもより低く聞こえた。
「でも、それって望みが叶いつつあるってことじゃない?」
「私の望み?」
「人気者になりたかったんじゃないの?」
陽太の言葉に、私は思わず笑った。
「違うよ。そんなの望んでないし」
「じゃあ、何を望んでるの?」
その質問に、私は答えられなかった。本当の望みが何なのか、まだ自分でも分からなかった。
その晩、部屋で懐中時計を眺めていると、突然蓋が開いた。中の歯車が不思議な動きを見せ、秒針が逆回転し始めた。
「え?何これ…」
驚いて時計を取り落としそうになった時、部屋のドアがノックされた。
「莉子、いる?」
陽太の声だった。こんな夜遅くに、どうして?
ドアを開けると、陽太が立っていた。彼の表情は真剣そのものだった。
「どうしたの?」
「話があるんだ」
部屋に招き入れると、陽太は懐中時計に目をやった。
「やっぱり…動いているんだね」
「何が起きてるの?この時計」
陽太は深く息を吸った。
「実は…嘘をついていた」
「嘘?」
「この時計は、恋を叶えるんじゃない。持ち主の周りの人の気持ちを操るんだ」
私は驚きのあまり言葉を失った。
「どういうこと?」
「曾祖父から聞いた話なんだ。この時計は持ち主に対して、周囲の人が好意を抱くよう影響を与える。だから、歩夢も中村先輩も莉子に急に興味を持ち始めた」
私は懐中時計を見つめた。確かに不思議なことが起きていたが、まさかそんな…。
「なんで黙ってたの?」
「最初は半信半疑だったし…でも、最近の様子を見て確信した。このままだと、みんなの気持ちが本物じゃなくなる」
陽太の言葉に、胸が痛んだ。
「じゃあ、あなたも…この時計に操られてるの?」
陽太は首を横に振った。
「違う。僕がこの時計を知ったのは、莉子のことを好きになってからだ」
突然の告白に、私の胸が高鳴った。
「本当に?」
「うん。だからこそ、この時計を手放してほしい。僕は莉子の本当の気持ちが知りたいんだ」
陽太の眼差しは真摯で、嘘はなさそうだった。
「でも、どうすれば…」
「この時計を使って、最後に一つだけ望みを叶えよう。その後、時を戻せば元に戻る」
「時を戻す?」
「そう。この時計には、時間を巻き戻す力もある。僕たちがこの時計と出会う前に戻れば、すべてがリセットされる」
私は困惑した。時間を巻き戻すなんて、そんなことが本当にできるのだろうか。
「最後の望み…それは?」
陽太は静かに言った。
「莉子の本当の気持ちを知りたい」
その言葉に、私の中で何かが明確になった。懐中時計を手に取り、強く握りしめる。
「私の本当の気持ち…これだけは時計の力じゃない」
ゆっくりと陽太に近づき、彼の手を取った。
「陽太のことが好きだよ。時計なんかなくても」
陽太の目が輝いた。彼はゆっくりと私に近づき、そっと抱きしめてくれた。
「僕も莉子が好きだ」
二人の想いが通じ合った瞬間、懐中時計が激しく振動した。蓋が開き、秒針が狂ったように回り始めた。
「時間だ」
陽太がつぶやいた。
「何が起きるの?」
「さようなら、莉子」
彼の最後の言葉を聞いた瞬間、強い光に包まれた。
――――――――――――――――――――――――
目が覚めると、私は自分の部屋にいた。
「何だろう…夢?」
頭が混乱していた。何か大切なことを忘れている気がする。枕元を見ると、そこには何もなかった。
「莉子、起きた?」
ルームメイトの杏奈が声をかけてきた。この状況が妙に既視感を覚える。
「うん…なんだか変な夢を見たみたい」
「へぇ、どんな夢?」
「忘れちゃった…でも、大切な人と会ったような…」
急いで制服に着替え、大学へ向かった。時計塔の下を通りかかると、何故か足が止まった。ここで誰かを待っているような感覚がある。
「おはよう、莉子」
振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。柏木陽太。幼馴染で、最近妙に意識していた相手。
「おはよう」
何故か緊張した。
「なあ、放課後時間ある?ちょっと話したいことがあるんだ」
「うん、いいよ」
どこか懐かしさを感じる会話だった。
「そうだ、これあげる」
陽太がポケットから取り出したのは、古びた金色の懐中時計。表面には繊細な彫刻が施されていた。
「これ…」
見た瞬間、記憶が洪水のように押し寄せてきた。あの不思議な一週間の出来事、陽太の告白、そして二人の想い。
「覚えてる?」
陽太がそっと尋ねた。
「うん、全部」
「時間は戻ったけど、僕たちの記憶だけは残ったみたいだね」
私は時計を受け取らず、代わりに陽太の手を握った。
「時計はいらないよ。これからは、魔法なしで二人の時間を刻んでいこう」
陽太は笑顔で頷いた。二人で歩き始めると、遠くで時計塔の鐘が鳴り響いた。