雨音とコーヒーカップの距離
カフェの窓を叩く雨音が、午後の静けさを心地よく彩っていた。私、高橋明日香は、いつもの席で時間を潰していた。レポート提出まであと三日。でも、パソコンの画面には「はじめに」の一行しか表示されていない。
「はぁ…」
思わずため息が漏れる。カフェオレを一口飲んで、再び窓の外に目を向けた。雨に濡れた街並みが、どこか切なく、どこか美しく感じる。
「あの、ここ空いてますか?」
突然声をかけられて顔を上げると、濡れた髪から雫を落とす男性が立っていた。背が高く、黒縁メガネがよく似合っている。どこか知的な雰囲気を漂わせていた。
「あ、はい。どうぞ」
慌てて鞄をどかす。カフェは週末の雨で満席になっていた。相席は避けられない状況だ。
「ありがとうございます。助かりました」
彼は微笑んでから、向かいの席に腰を下ろした。
「雨、すごいですね」
何気ない会話を始めようとする彼に、私は小さく頷いた。それからは、お互いに自分の作業に戻る。彼はノートに何かを書き込んでいる。私は相変わらずレポートの一行と睨めっこ。
時折、視線が合う。その度に彼は優しく微笑む。不思議と緊張感はない。むしろ、心地よい空気が流れている。
「大学生ですか?」
彼が唐突に話しかけてきた。
「はい。文学部の三年生です」
「へぇ、僕も文学部だったんですよ。今は高校で国語を教えています」
「先生なんですね」
会話が自然と弾み始める。彼の名前は佐伯陽太、二十六歳。大学時代は文学サークルに入っていて、今は母校で教壇に立っているという。
「高橋さんは何のレポートを書いているんですか?」
「日本近代文学における…」
「あ、それ僕も書きましたよ。確か三浦先生の授業ですよね?」
「え、そうです!佐伯さんも三浦先生の?」
「ええ、あの厳しい添削、今でも忘れられないですよ」
思わず二人で笑った。先輩と後輩の関係だと知って、少し親近感が湧いた。彼は私のレポートについてアドバイスをくれた。的確なアドバイスのおかげで、レポートの構想がどんどん膨らんでいく。
「ありがとうございます。すごく助かります」
「いえいえ、僕も誰かに教えるのは好きなんで」
雨は依然として強く降り続けていた。窓の外は既に夕暮れの色に染まり始めている。
「あの、よかったら今度、文学について話しませんか?」
唐突な彼の誘いに、私は少し驚いた。
「え?」
「あ、変に思われたらすみません。ただ、高橋さんと話していて楽しかったので…」
彼の頬が赤くなるのを見て、私の心臓も少し早く鼓動を打ち始めた。
「いいですよ。ぜひ」
そこから私たちは連絡先を交換した。「奇遇ですね」と彼は言った。「こんな雨の日に出会えるなんて」
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それから一週間、私たちは頻繁にメッセージを交換するようになった。彼は教師らしく文章が上手で、時折小説のような美しい表現を使う。それが何だか嬉しかった。
「今度の土曜日、時間ありますか?」
彼からのメッセージに、私は少し考えてから返信した。
「はい、大丈夫です」
「よかった。では新宿の古本屋街に行きませんか?面白いお店を知ってるんです」
心臓が高鳴る。これはデートなのだろうか?それとも先輩後輩の交流?考えすぎると頭が痛くなる。
「楽しみにしています」
シンプルに返信することにした。
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待ち合わせの土曜日、私は普段より少し気合いを入れて服を選んだ。カジュアルすぎず、かといってあまりにも着飾りすぎないように。
「高橋さん、おはようございます」
待ち合わせ場所に着くと、佐伯さんが既に待っていた。カジュアルなシャツに黒のジャケット、相変わらず黒縁メガネがよく似合っている。
「おはようございます。待ちましたか?」
「いえ、今来たところです」
きっと嘘だ。彼の几帳面な性格からして、絶対に早めに来ているはずだ。そんな気遣いが何だか嬉しかった。
彼が案内してくれた古本屋は、路地裏にひっそりと佇む小さな店だった。看板もほとんどなく、通りがかりでは気づかないような場所。
「ここ、すごいです」
店内に足を踏み入れると、天井まで届く本棚が所狭しと並んでいた。古書の香りが鼻をくすぐる。
「ここの主人が大学時代の恩師で、本当に良い本を揃えているんですよ」
佐伯さんは嬉しそうに本棚を眺めながら説明してくれた。彼の横顔を見つめていると、胸の中で何かが温かくなる感覚があった。
「あ、これ読みました?」
彼が一冊の本を取り出して私に見せる。
「夏目漱石の『こころ』ですか。はい、高校の時に」
「僕、毎年生徒にこれを読ませているんです。でも、読むたびに新しい発見があって…」
熱心に語る彼の姿に、私は思わず見とれてしまった。本当に文学が好きなんだな、と。そんな純粋な情熱に触れることができて幸せだった。
私たちは古書店を三軒ほど巡り、それぞれお気に入りの一冊を購入した。
「お腹すいたでしょう?近くに良いカフェがあるんです」
彼に案内されて入ったカフェは、先週雨の日に出会ったあのカフェとは違って、アンティーク調の落ち着いた雰囲気だった。
「ここのチーズケーキが絶品なんですよ」
彼のおすすめで、私たちはチーズケーキとカフェラテを注文した。
「高橋さんは将来、何をしたいと考えているんですか?」
「私は…できれば出版関係の仕事に就きたいなと思っています」
「それは素敵ですね。高橋さんなら編集者として活躍できそうです」
「そう言ってもらえると嬉しいです。でも、まだ自信がなくて…」
「大丈夫ですよ。高橋さんは文学への情熱がある。それが一番大切なことだと思います」
彼の言葉が心に染みた。
午後の時間はあっという間に過ぎていった。帰り際、駅に向かう道で突然雨が降り始めた。
「あ…」
二人とも傘を持っていなかった。
「すみません、天気予報を確認しておけばよかった」
申し訳なさそうに佐伯さんが言う。
「いえ、私も確認してなかったので…」
その時、彼が自分のジャケットを脱ぎ、私の頭上に広げた。
「これで少しはマシになるでしょう」
「でも、佐伯さんは…」
「大丈夫です。僕は濡れても構いませんから」
雨の中、彼のジャケットの下で二人寄り添いながら走った。駅に着く頃には、彼のシャツは雨で濡れて背中に張り付いていた。
「すみません、濡れてしまって…」
「いえ、こんな雨の中を走るなんて、なんだか楽しかったです」
彼は髪から雫を落としながら笑った。その笑顔が、初めて会った日のことを思い出させた。
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「明日香、この間の先輩とはその後どうなの?」
大学の友人、美咲に尋ねられて、私は少し頬が熱くなるのを感じた。
「特に何も…ただのお友達だよ」
「嘘でしょ?メッセージのやり取りしてるんでしょ?」
「それは…まあね」
美咲は意味ありげな笑みを浮かべた。
「明日香って、鈍感だよね。あの先輩、絶対に明日香のこと好きだって」
「そんなことないよ。単なる後輩だし…」
「だったら、なんで雨の中、自分が濡れても明日香を守ろうとしたの?それって、ただの先輩後輩の関係?」
美咲の言葉に、私は答えられなかった。確かに、あの日の彼の行動は紳士的すぎた。でも、それは単に彼の性格なのかもしれない。
「でも…」
「いいから、素直になりなよ。明日香だって、あの先輩のこと好きでしょ?」
私は黙ってうつむいた。好きなのか?確かに、彼と一緒にいると心地よい。メッセージが来るとドキドキする。でも、それは恋愛感情なのかな?
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「高橋さん、この週末、時間ありますか?」
佐伯さんからのメッセージに、私の心臓は再び高鳴った。
「はい、あります」
「実は、文学フェスティバルがあるんです。よかったら一緒に行きませんか?」
文学フェスティバル。確かに行きたい場所だった。でも、それ以上に彼と過ごす時間が楽しみだった。
「ぜひ行きたいです」
返信した後、私は深く息を吐いた。これは恋なのだろうか?
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文学フェスティバルは予想以上に賑わっていた。著名な作家のトークショーや、出版社のブース、古書の即売会など、文学好きにはたまらないイベントだった。
「佐伯さん、あちらに村上春樹コーナーがありますよ!」
私は興奮して彼の腕を引いた。そして、その瞬間に気付いた。自然と彼の腕に触れていることに。慌てて手を離す。
「あ、すみません…」
「いえ、全然構いませんよ」
彼は優しく微笑み、今度は彼から自然に私の手を取った。
「人が多いですから、はぐれないように」
その言葉に、私の顔が熱くなるのを感じた。彼の手は大きくて、少し冷たかったけれど、しっかりと私の手を包んでいた。
イベントを回りながら、私たちは文学について熱く語り合った。好きな作家、印象に残った作品、文学に対する思い。話せば話すほど、共通点が見つかる。
「高橋さんと話していると、本当に時間があっという間ですね」
彼はそう言って、私の目をまっすぐ見つめた。
「私もです。佐伯さんと一緒にいると楽しいです」
帰り道、私たちは電車に乗り遅れて、駅のベンチで次の電車を待つことになった。夜の駅は意外と静かで、二人きりの空間が居心地よかった。
「高橋さん、実は…」
佐伯さんが突然口を開いた。その表情は少し緊張しているようだった。
「はい?」
「実は私、高橋さんのことが…」
電車の到着アナウンスが、彼の言葉を遮った。
「あ、電車が来ましたね」
私たちは急いで立ち上がり、電車に乗り込んだ。言いかけた言葉は、宙に浮いたままだった。
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「で、告白されたの?」
翌日、美咲に詰問されて、私は首を振った。
「なんか、言いかけてたんだけど…電車が来ちゃって」
「もう!なんてタイミングの悪さ!」
美咲は頭を抱えた。
「でも、今度会う約束をしたから…」
私は小さな声で言った。佐伯さんとは来週末、映画を見に行く約束をしていた。
「今度こそ、ちゃんと伝えなきゃダメだよ」
「伝える?私が?」
「そうだよ。明日香だって、佐伯先輩のこと好きなんでしょ?」
私は黙ってうつむいた。確かに、もう否定できないほど、佐伯さんへの気持ちは大きくなっていた。
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映画の日、私はやけに緊張していた。何を着ていくか、どんな話をするか、もし彼が告白してきたらどう答えるか…頭の中はグルグルと考えが回っていた。
「高橋さん、こんにちは」
待ち合わせ場所で彼と会うと、いつもより少し緊張した様子だった。私も同じだ。
映画は文学作品が原作の恋愛ストーリーだった。暗い映画館の中、隣に座る彼の存在を強く意識した。時折、彼の方をちらりと見ると、彼も同じように私を見ていた。視線が合うと、二人とも慌てて画面に目を戻す。
映画の終盤、主人公が相手に愛を告白するシーンで、佐伯さんがそっと私の手を握った。驚いて顔を上げると、彼はまっすぐ私を見つめていた。
映画が終わり、外に出ると、既に夕暮れになっていた。
「今日は…楽しかったですか?」
佐伯さんが少し緊張した様子で尋ねる。
「はい、とても」
「高橋さん、実は…」
ここで言いかけたあの言葉を続けるのだろうか?私の心臓は激しく鼓動を打ち始めた。
「実は私、高橋さんのことが好きです」
ついに言葉になった。シンプルだけれど、真っ直ぐな告白。
「初めて会った日から、高橋さんの文学への情熱、優しさ、笑顔…全てに惹かれていました」
私は言葉に詰まった。嬉しすぎて、何を言えばいいのか分からない。
「あの、もし迷惑だったら、今までどおり友達でも…」
「私も好きです」
やっと言葉が出た。
「私も佐伯さんのことが好きです。文学を語る姿も、優しさも、全部…」
彼の顔に安堵の笑みが広がった。
「よかった…本当によかった」
彼がゆっくりと私に近づいてきた。そして、優しく私を抱きしめた。
「付き合ってください」
「はい」
雨上がりの夕暮れの中、私たちの恋が始まった。あの雨の日に出会わなければ、こんな恋は生まれなかったかもしれない。偶然の出会いが、私たちの人生を変えた。そう思うと、あの日の雨が特別に思えた。