07『よみがえる』
「明日はローストディナーに為るか。何の肉に為ようか、君は何れが良い」
「ロースト……そんな高そうなのを?! 私には贅沢だよ! お兄ちゃんが作ってくれるものなら何だって嬉しいし、美味しく食べるからあまり奮発しようとはしないで」
「君に食べさせるんだから此れ位が妥当だ。奮発等ではない」
そんな清々しい顔で首を傾げながら言うと反応に困る。帳簿が大変なことになっていそう。私は節約精神が身についているから、兄ちゃんの感覚がよく分からない。私はもてなすのはいいと言って後片付けをした。皿を洗おうと束子に洗剤を絞る。
「束子を二個浮かせる事や、洗い乍ら同時に洗い終えたのを濯ぐ事は出来そうか」
わあっ、何も後ろに近付いて言わなくたってよかったのではないか、またまたびっくりした。そんなことってできるのか。できた。おお、瞬く間に終えた。現実の家事でも使えたらな。楽勝だろうに。私を褒めてから兄ちゃんはキッチンを出ようとする。
「部屋に帰るの?」
「研究室に行く」
分かったと言うが早いか彼はドアを開けて出て行った。そんなに急ぐとはよほど急ぎの研究のようだね。うまくいくことを祈ろう。私はお風呂に入るなど寝支度を終え、リビングルームの向かい側にあるヒロインの部屋に入った。
部屋のドアを開けると最初に見えるのは、カーペットの上にある座卓と後ろにあるクローゼット。左奥には巨大なベッドがあってその両側に本棚が壁を埋め尽くしており、ドアのすぐ横にはデスクがある。部屋も広くて家具も大きい。あんなに大きい本棚なのに置物はあまりいないね。
両親はヒロインが兄ちゃんと暮らすことになったのを機に海外に引っ越すことにしたよね。家に残せなくなったから、荷物を整理しながら使わないものを捨てて持ってくるものが少なくなったと言っていたな。使わなくても残しておきたいものはなかったのかな。
代わりに本棚には兄ちゃんがくれたようにみえる難しそうな題名の書物と資料がたくさんある。魔力制御に関する本も何冊かあるが、これらは一般人が魔力を制御する方法であって、一般人が使える魔力を超えて使うときの制御法は書かれていないんだよね。机の下の引き出しには生活魔導具が入っているが、特に大したものはなさそうで開けてすぐ閉め直す。
暇だ。鞄でケータイを見つけたがガラケーだ。外でパソコンを見かけたが、特にやりたいことはない。教科書も学んだところまでは一通り読み終えた。何もせずにいるのは気が差すな。
ここは【レマニピュラド】の世界、ロマンと憧れが何なのかを私に見せてくれた世界だ。私の持てなかった全てが詰まっている世界。私は今無条件で何もかもを手に入れた。少しくらいは欲を張ってもいいよね。一人でいたくない。温かく迎え入れてくれる誰かといたい。
研究室がある二階に行ってみよう。部屋を出てソファーの左にある折り返し階段を上る。階段の手すりも洋風だな。二階に着くと、右と正面奥にドアがある。広いから右側が研究室なんだろう、こっちを開けてみよう。シビア師団を見た後だから目が慣れたのか、足元に魔導具や本、紙が散らばっているだけの普通の研究室に見える。兄ちゃんは何かをタイピングしているのか、デスクチェアから起きる気配がない。
「お兄ちゃ――う、ああっ……!?」
「危ない!」
足元を見ずに兄ちゃんに近づこうとしてつまずきそうになったが、彼が魔法で私の体を支えてくれて転ばずに済む。兄ちゃんがこんなに大声を出すのは初めてみた。私を起こしながら兄ちゃんはこちらにやってくる。こんなに慌ただしい兄ちゃんもまた始めてみる。魔導具って結構硬いから頭でもぶつけたら怪我はするだろうけど、怪我するのがそんなに焦ることなの?
「済まない、俺がきちんと片付けなかった所為で。足は平気か」
「うん、早くお兄ちゃんに話しかけたくて足元に気を付けなかった。ドジだよね、何も近づかなくてもよかったのに」
「近付いて来るのを止めて欲しくは無いね。此れらは彼方に片付けて置こう」
こっちの山があっちの山に積まれてしまった。今にも崩れそう。あとで整理するのを手伝おうか。ついでにリビングのテーブルにあるのも。
「それで、何しに来た。俺に会い度く為ったのか」
「そう、そう! 一緒にいたくなっちゃって」
「……普段の照れ隠しは止めて自分に素直に為る事に為たのか。然うして俺を思って居る間は魔力が安定するだろう」
それは何か常に兄ちゃんのことばかり考えているみたいではないのか? 一応私には恋人がいるけど。まだ紹介してないとか?
「丁度良かった。君に頼み度い事が有る」
兄ちゃんはデスクの上の紙を取って私に渡した。何の事か頭をひねていると、本棚の裏に隠されたドアを開けて私を中に連れて行った。学校の実習室とそっくりだな。私はここで何をすればいいんだ。紙には術式が書かれている。『変化魔法』を変形したものなのか。
「此れを使って見ろ」
「何に向けて使えばいい?」
「此処」
「……足元? 床に向けて使えってこと?」
「ああ、議論通りなら此の改良式は地面の変形が出来る」
『一般魔法』は物体を操る魔法だが、地面にも使えるように兄ちゃんが改良したのか。それを試してみたいからこのコピーを私に渡したのか。やってみよう、心の中で術式を唱えるんだよね。一番目のこれにするか、『状態変化:泥』!
地面が揺れてる!? バランスが取れないっ、転びそう。床がぐにゃぐにゃだ。状態を柔らかくしたからこうなったのか。まともに立ってすらいられない。早く収まらないかな。
「部屋、否二階全体を操作したな。此れは興味深い」
「お兄ちゃん! 悪いけどそんな悠長に構えてる場合じゃないよ! これ止まらない!」
「『変化魔法』は掛けられた魔力の分丈状態が維持されるしな。君にバリアを掛けてあげよう」
兄ちゃんは私にバリアを掛けて自分にも掛けた。ふぅ、これがあの魔法石に込めたという『生成魔法』なのか。目には見えないが、足元は静まりバリアと床はものすごい勢いで反発している。これも込められた分だけ維持されるんだよね。
「『生成魔法』って他に何が出せる?」
「無機化合物なら略。有機体と天然物は作れないと俺は見て居て、他は研究中だ」
「バリアはどの分類なの?」
「何処にも属さない。物質でもないからね。俺が此の術式を見付け出したのも偶然だった」
「偶然で見つかるものじゃなくない‼⁉ 手柄を偶然にみなさないで! 世紀の大発見だよ! 業績を上げすぎて感覚が鈍くなってない?」
「俺は成果を上げ度い所はずっと別に有ったが、君の憧れの御兄ちゃんで居られて良かった。揺れが収まって来たな。其の紙を持って部屋に戻れ、夜も遅い」
「お兄ちゃんは?」
「俺は未だ遣る事が有る」
「そうなんだ。私もまだやることがある、お兄ちゃんが遅くまで寝ないで研究しないように見張ることね! 外のソファーで待つよ」
研究室の隅にはリビングにあったのの半分くらいの大きさのソファーがある。兄ちゃんは折々そこで休憩を取っているんだろう。部屋に帰る時間が惜しいのか奥のカーテン越しに仮眠室も見える。称賛に値する研究熱心だが、健康管理とかはろくにしているのかな。
「見張らなくても夜更かしする気は無いが、君が居度いのなら然う為ろ。今御茶を入れる」
部屋を出て彼は実験台を調理台にコンロを乗せてお湯を沸かす。茶葉で入れるんだね。ティーポットにお湯を注ぎ茶葉を蒸らしている。あの茶器とティーカップ、模様が高級だしぱっと見ても高そうだな。出されたカップを恐れ入りながら掴み紅茶を飲んだ。
私はソファーにもたれてデスクチェアに座っている兄ちゃんの後ろ姿を見守る。デスクの上に積まれている魔導書や論文みたいのをたまに開けるが、基本的には正面にある複数のモニターを見ている。画面が見えてはいるが、何の内容なのかは見ても分からない。こういう作業は経験もないしね。
ふあ、ソファーも楽だし、お茶を飲んで体が温まったからか眠い。寝てはいけなのに眠気を払おうとすればするほど重くなるまぶたを、堪えきれずとろりと閉じてしまい、ソファーに倒れるように横たわる。
「見張るのではなかったのか」
遠くなっていく意識の中で、その声ははっきりとは聞こえなかった。
♥♥♥
暗い。真っ暗で目を開けているのか閉じているのかも分からない。体は横になったまま動けない。力が入らない。踏みにじられるように何かに押さえつけられているようだ。痛い。全身の骨という骨は全て潰れそうだ。苦しい。押し潰れているのなら何でこんなにちくちく痛いんだ。
私は拉げているだけではないのか。体が燃えるように熱くてひりつく。焼けてしまいそうだ。まるで火の海にいるみたいだ。けど徐々にこの痛みが失くなっていくのを感じる。全身の感覚が失くなっていくというのが正しいか。神経を損傷したら痛みを感じないと言うよね。神経が燃やされたのか。
思い出した。天井が崩れてたんだ。さっきの子はこの火事と崩壊の中でうまく逃げたんだろうか。私は多分死ぬだろう。最後まで人ひとりまともに助けられなかったのか。無念でならない。
『爾の名残はその少年か』
うっ、頭に直接声が? どっちの性別にも聞こえる神聖で夢幻的な声だ。幻聴まで聞こえるのか。質問をしているのなら返事は『はい』だね。彼が無事にここから出られたのならいいが。
『爾は見知らぬ少年がために命を掛けき。爾にはあやしきほどの犠牲の心あり。見返りや称賛はおろか失ひ続けし爾に、苦痛より放たれ天国に行く権限を与へむ』
犠牲だなんて、そんな崇高な精神は持っていな――痛みが一瞬で消えた!? 体が軽くて自分の体ではないみたい。まるで無重力状態のように体が浮いているみたいで、安らかになる。それに突然現れたこの景色はなんだ。心を照らすように眩しくて、あらゆる憂い事が吹き飛ばされそうに澄んで清らかだ。童話の中に入ったみたいだ。
本物の天国? 謎の声の正体は、神様!? 神様が実在することだけでも驚きなのに会話をしたのか、私みたいなちっぽけな存在を認識してくださったのか。あまりにも非現実的な状況に頭が混乱する。とりあえず道があるから立って進んでみよう。声も聞こえなくなったし。あの子の行方をご存じですかとお伺いすればよかったな。
『その少年にいま一度会はまほしや』
「んあっ? 会えるのならそのようにしたいのですが私自身は行方が知りたいだけであり、彼が帰って元気に過ごせるのならそれで結構でございます」
『それえずと言はば』
「できないのなら、とおっしゃっているんですか。もし彼も私のような目に遭ったのなら……その場合は最後まで守りきれなかったことを謝ります。死なせないと言ったのに、私が力不足なばかりにあなたを傷つける結果になったと。彼は私を信じてくれました。期待を裏切ったからには謝らなければなりません」
『他に会はやらまほしきことやある』
「新しい約束を交わします、今度は破れません」
『爾の意思は聢と受け取りき。これより爾が思ふ理想郷を描け』
理想郷? 急に聞かれても……理想か、私にとって理想といえば【レマニピュラド】だ。人も世界観も私の理想そのものだ。絆を深めて弱みと向き合い、克服して共に成長する。これほど輝かしい光景は他に見たことがない。あれが私の理想の世界だ。
『心の乱れは混沌を生み爾はおどろく。契り交はし使命尽くし真相に至れ。幸運を祈らむ』
これが『私』の最後の記憶で忘れていた『私』の死、その前後の記憶。『私』は死んだのだ。