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別の日、
「ちょっと聞いて、昨日は珍しく変なお客が来たの」
そう言って花はさやかに電話をしてきた。深夜一時を回っていたがさやかは元気に電話に出た。
「見た目は普通の人なんだけど、ちょっと酔ってきたらずっと私の胸元とか足とかばっかり見てきて、絹さんと場所変わったら今度は絹さんのプライベートを根掘り葉掘り聞きだして」
「なにっ」さやかは電話の向こうで気色ばんだ。
「近くで働いているんで。そばにこんな店あるならまた来ますよとか言って」
ガールズバーやキャバクラと勘違いするお客もたまにはいるので、その時はビルの警備員に連絡して“穏便”に帰ってもらっている。
「絹さんがうまくかわしてたら、新規の女性のお客さんにも声かけだして」
「『牧原でーす。マッキーって呼んでね』とか言っちゃって、肩とか触ってるし」花当時の様子をそのまま再現する。
「さすがに警備の人に声かけようかと思ってたら丁度たけちゃんが来てね」
たけちゃんとは花の地元の同級生で、柔道日本代表候補にもなったことのある厳つい体の常連だ。五分刈りの頭に耳はつぶれ80キロ超えの体は筋肉の鎧をまとっている。
上下黒のジャージで傷だらけの顔は、お世辞にも堅気には見えない。
見た目と違ってハムスターを飼っている心優しい青年なのだが初めての相手には、いるだけで威圧感を与える。
入ってくるなり、花はたけちゃんを牧原の横に案内した。ビールを出しながら目で合図を送った。
横の女性にずっと話しかけている牧原に、たけちゃんは肘で軽く横の腕をぶつけ「すいませんね」と言って相手の目を見据えた。
「あ、いいえ」といってたけちゃんを振り返った牧原は、明らかに笑顔が引きつり、さっと背中をのばし、こちらこそといって正面を向き手元のお酒をあおった。
ぱっと目を上げ花と目があうと、すかさず花は「三千二百円です」とレシートを差し出した。
「あ、ありがと、丁度帰ろうかと、じゃあ、これ」と財布から一万円を出し、帰り支度を始めた。
向こうの女性客もほっとしたのか、絹さんに目を向け少し頭を下げるしぐさをした。ただ強面のお客さんに対しては、もっと引いていた様子だった。
「ありがとうございました」
花がそう言って牧原を送り出し、カウンターを振り返る。
満面の笑顔で「たけちゃん助かったよ」と声をかけ近寄ると、
「なんかよくいるめんどくさい客だなーと思ってさ」そう言って笑った。
さらに警戒感を増した女性客に絹が「あちらの人はあのスタッフの同級生で、ああみえてハムスター好きの柔道日本代表候補なんですよ」
「ちわーっす」そういって目がしわで見えなくなるような笑顔でビールグラスをかざし、女性客に挨拶した。
「これで安心して飲んでくださいね。ここはめったにああいうめんどくさい人は来ないので」続けて、
「なにかあったらたけちゃんが守ってくれますから」と言って笑った。
「ところでこの店は初めてですよね、お勤めお近くなんですか?」
絹の言葉にその女性客は
「知り合いがこの店が好きだといっていて、今日はここで待ち合わせの予定だったんですけど。そろそろ来る頃かな」
こんな感じだったのと花が話し終わると、さやかは電話の向こうで「そんな事があったんだ、あたしがいたらカクテルにデスソース入れて飲ましてやったのに」さやかは自分の事のように口を尖らしている様子でモゴモゴと言った。
木曜はさやかの出勤日。”タイム”開店の30分前に出勤してきたさやかに、おはようといって大きな瞳をクシュっと細めいつもの笑顔で挨拶する絹。
「おはようございます。すぐ店頭の掃除しますね」と答えさやかはバックルームに消えていった。
さやかは細身のスタイルに短めの髪がよく似合い、小顔であごが細く、アウトドア用のネイビーのウィンドブレイカーをさっと着こなし、ジーンズにショートブーツで決まっていた。
ボーイッシュなさやかを目当てに女性客が増えるとの絹の予感は的中し、さやかの出勤日は女性客の比率が多くなる。それをめがけて男性客も集まって来るので相乗効果だが、たいていの男性客は横の女性客に乾杯すら無下に断られている。それはそうだろう、お目当てはさやかだ。
そんな男性客も気にする様子もなく絹さんとの話で満足して帰っていく。
土地柄、有楽町で宝塚の公演がある日などは客席が女性で満員になるほどだが本人は特に気にする様子もなく、いつも笑顔でクールに接客している。
着替えて掃除を始めたさやかに向かって絹は
「花ちゃんから連絡あった?」はっとして振り返るさやかは、
「なかったですけど。何かありました?」
「そうかー。ほら例の緑のあれ、花ちゃんが見たらしくて。昨日さやかちゃんに聞いてみたらって言ったのよ」
なるほどですとさやかは答え、花ちゃんは知らないんですねと声にして少し目元を緩めて何かを考えているようだ。もう少し早く知っていればよかったなと呟いて、そのまま掃除を続けた。それまでより心なしか動きが機敏になって箒のスピードが軽やかに見える。
開店後は平日とはいえお客さんは途切れることなく、絹は団体さんと、さやかは常連のお客さんと話しながらシェイカーを振っていた。
右奥の席には常連の女性のお客さんが一名、一つ空けて3人連れの仕事帰りのこれまた常連さん。近くで働くサラリーマン、男性二名と女性一名。いつも一緒に来ている。
どうしても女性は男性上司との飲み会は敬遠しがちな素振りを見せることが多いのだが、この女性はよく一緒に来店している。
ただし三人で来ても話すのは絹や花、さやかとばかりで男性二人は小声で話していることが多い。
来店から30分、女性の名は千佳、主に絹と話しながらすでに3杯目を空きそうだ。
絹からはお代わりをあまり進めない、それはこの店の暗黙のルールだ。あくまでお客さんからの希望に答えるようにしている。
絹も若い頃、呑みに行くたびに店員や隣席の客から進められることが多く、その対応に疲れてあまり行かなくなった経験があるので特に女性には進めず、なんなら度数の少ないカクテルなどを提案したりもする。
これも女性の来店が多い要因なのだが、絹は当たり前のように行っているので、花とさやかもそれを見習い同じような接客を心掛けている。
「千佳さんはさんはお休みの日は運動とか何かされてます?」絹の問いかけに
「平日からこの呑みようを見てもらえばお分かりかもしれませんが、中々ねー」と千佳は少し血色の良くなった顔に、目じりが下がってきて心地よさそうな笑顔を見せ続けた。
「溜まっている録画のドラマとかを見ていたら休みはすぐ終わっちゃいますからねー。もう一杯お代わりくださいー」
「でも先週は珍しく映画観に行きましたよ」と、少しだけ背伸びするようになぜか誇らしげに言った。
「どんな映画ですか?私も好きなんですよ」ジャスミンティーに少量のリキュールを混ぜたカクテルを作り「千佳さん、これ試してもらえます?最近の私のお気に入りなんですけど」と千佳の前にサーブする。
ジャスミンの香りと甘いリキュールの香りが華やかな香りを漂わせた。「うわー、いい匂い、美味しそう」と言って一口。
「さっぱりしていて鼻からからふわっといい香りが抜けていきます。これ好き」
絹はありがとうございますといって既に空になっていたグラスを下げ、シンクでさっと流した。
「あ、そうだ映画、このあいだ見たやつ、タイトルは忘れちゃいましたけど恋愛もので、女優のなんだっけあの、あ、深倉優衣のです。観ました?」
「面白かったんですよ、泣いちゃいました」そう言って千佳は思い出したのか少し目元がウルウルしだした。
「私もあの映画観ましたよ。最後ふっと空を見上げると飛行機が後ろからすーっと飛んでいくシーンが好きでした」
「ですよね、ここまでの彼との関係があの飛行機の中にって思うと、今でも、うぅぅ」本当に涙が溢れそうな千佳に笑顔で「ね」と声をかけた。
横の女性客がつられてこちらをちらっと見たが、すぐ向き直りさやかとの話に戻った。さやかも聞こえていたので、目の前の白いキャップを被った赤メガネの女性に「陽子さんは観ました?」と聞いてみたが、さあと答え「あまり映画は観ないので」と言った。
陽子はさやかのファッションの話の続きを聞きたいらしく、
「さやかさんいつもどんな洋服で出かけてるんですか?」
「ここに来るときは見ての通りの動きやすい服ですね。休みもあまり変わらないかな。仕事より少し色味が明るいかもですね」陽子さんはいつもラフですよねとさやかが言うと
「あんまり目立ちたくないんですよね」
「陽子さんいつもキャップを被っているけど、実は相当お綺麗ですよね。確かに注目されちゃいますね」さやかがほほ笑むと、陽子は帽子のつば越しでも判るほど顔を赤らめて、か細く「いいえそんな、、、」と答えるのが精いっぱいのようだった。
絹が「千佳さんたちは同じ会社の方ですよね。いつも一緒で仲がよさそうですね」そう言ってチェイサーを差し出すと、
「同僚は同僚なんですけど、仲がいいから一緒に来るかと言われれば、ちょっと違うかも」千佳は横の男性二人を横目で見てから続ける。
「同期なんですけど、なんというか、同期のよしみって奴です」千佳は赤い顔をグラスに近づけ、カクテルに口を付けながら言った。
ほんの少し目を細め小首を傾げると「仲が良いですね」そう言って絹は男性二人に飲み物のお代わりの確認の声をかけ一歩近づいた。