プロローグ 無死満塁
九回ノーアウト満塁。
一発出れば、いや、ヒット一本で逆転サヨナラの大ピンチ。
そんな状況下に置かれたキャッチャーの心理を、まさかリアルで味わうとは、俺も予想していなかった。嫌な汗が止め処なく流れていて、正直、全てを投げ出したい気分だ。
実際には、九回ではないのだが、このイニングを押さえなければ負け、という意味では同じと言ってもいいだろう。
キャッチャーの俺ですら、こんなにびびってるんだ。マウンド上のピッチャーは、もっと緊張してんだろ、と普通の人なら考えるだろう。
しかし、残念。うちのピッチャーはそれこそ満面という言葉がぴったりなぐらいの笑顔だ。
気が狂ったのか、とも考えられるが、あいつは正真正銘、正気そのものだ。
それもそのはず、このピンチはあいつがわざと作ったものだった。
いきなり、最初のバッターに敬遠気味のフォアボール。それを後の二人にも続けて、この状態を作り出したのだ。
あいつは、不敵な笑顔で、
「ハンデはこれくらいで十分か?」
対戦相手に向かって、こんなことまで言っている。
勿論、相手からは野次やブーイングの嵐。代わりに観客からは大歓声。
俺はただ呆れるだけだった。
まぁ、でも、そのほうがあいつらしい。
お前はいつでも笑ってろ。くだらない緊張や悩みなんかと無縁なんだ。お前は野球をしているときが一番楽しいんだろ? 楽しいから、笑えるんだ。
俺はお前に無理やり付き合わされてるだけだ。お前ほど、野球に真摯じゃあない。今、お前を鼓舞させるために声をかけまくってる、内野の四人も俺と同じだ。いや、一人くらいは本気で野球をやってるやつがいるだろうが、大体はお前の無茶にただ付き合っているだけの、人の良い奴らだ。
だから、こんな試合、ホントはどうでもいい。そう、どうでもいいはずなんだ。
でも、俺の心はそんなこと、一ミリも……いや、一ナノほども考えていない。
矛盾してるって? だって、仕方ないだろ。ホントのことなんだから。
勝ちたい。
ただ、それだけを考えている。
自分が思っている以上にガキなのか負けず嫌いなのか、
それとも、男の子ってのは、こんな状況になると、燃えるように出来ちまっているのか……。
もし、そうだとしたら、男の子の単純な精神の造りに絶望しちまうところだ。
だが、生憎だったな。男の子だから、という理屈は、ある理由により考えられない。
ということは、俺がガキか負けず嫌いなだけらしい。
十五年も生きて、新しい自分を発見だ。だからといって、何も嬉しくはない。
「さぁ、奪三振劇の始まりだ、瞬きなんかして見逃すなよ!!」
マウンド上には、笑顔で三振宣言をしている馬鹿がいた。
その眼は冗談を言っている眼ではない。炎を灯したように燃えている眼だった。
この場にいる誰よりも緊張すべき立場のはずなのに、誰よりも熱く燃えているこいつの、胆の据わり方は尋常ではない。精神力だけなら、メジャークラスだ。
ただ、こっちは一般人なんだ。勝ちたい、と強く思っているが、正直、胃が限界に近い。
こんなプレッシャーを背負いながらプロは毎日を過ごしているのか、と思わず、テレビを通して見る野球選手たちの凄さを実感。
ごめんよ、これからは極力、野次らないことにするよ、とか思いつつ、俺の手は自然とミットを構えていた。
子供のころから、あいつに付き合って、あいつの球を取ってるんだ。あいつの投球の間は分かってる。
サインなんかいらない。そもそも、サインなんか作ってない。
ただ、あいつが投げたいところに投げて、俺はそれを受けるだけだ。
キャッチャー失格? ほっといてくれ。さっきも言ったように、俺は付き合わされてるだけなんだ。
いつも、あいつは俺の事なんか考えないで、俺を巻き込む。正確には、俺とその他四人か。
そう、このチーム作った、あの日だってそうだった……。