「怒っているのか?」(1/1)
「怒っているのか?」
ベネティクトは私の手首にそっと唇を落としてから、上目遣いにこちらを見上げてきた。
長い睫毛ごしに見える瞳は、どこまでも吸い込まれそうな深い空の色をしていた。陶器のようになめらかな白皙の肌に、絶妙に配置された形の良い鼻や唇。とっくに見慣れてしまっている容貌であるが、不意にぐさりと胸に刺さるような瞬間はある。いまがその時ではあったのだが、私はどきどきとする鼓動を隠すようにして、敢えて不機嫌そうな顔のまま彼から視線を逸らした。
そのまま手首に視線を落とすと、そこには先程まで幾重にも巻かれていた紐の跡がある。別に全く痛くも何ともないのだが、手首全体が青くアザのようになっていて十分に痛々しく見えた。
それをみた彼も、さすがに同情だか反省だかをしたらしい。
痛むのか、と聞いた彼は恐る恐る私の手首に触れてきた。だが私が何も言葉を返さずにいると、彼は困惑したような顔をする。さながら道に迷った子供のような、そんな見たことのない彼の表情に、少しだけ私の心は動いたのだが、やはり口は開かなかった。
しばらく黙ってこちらの反応を窺っていた彼だが、私が視線を向けないことを悟ると、そっと手首に口付けてきたのだ。そして冒頭の台詞にいたる。
別にいまさら怒っているというわけではないが、呆れてはいた。
「……怒っているのか?」
もう一度、同じ言葉が繰り返されるが、やはり無視をする。
昨夜も何回も何十回も外してくれとお願いしたのだが、ベッドに連れて行かれてからもこのままで、二人で眠る時もこのままで、結局、朝になってそろそろ着替えるかと彼が言い出すまで外してくれなかったのだ。それを考えると、我ながら怒っても当然だと思うし、むしろ怒ってもいない自分は寛大すぎると思う。彼を少しくらい困らせたところでバチも当たらないはずだ。
レイン、と名前を呼ばれて瞳を覗きこまれる。
わざとやっているのだろうか。
青い宝石のような瞳をゆらゆらと揺らし、子犬のような顔でこちらを見上げる彼にぐらりと心が揺れる。いつもはその眉目秀麗な顔と超然とした態度を崩すこともなく、周囲で何が起きていようとどこ吹く風の涼しげなベネティクトだが、いまは明らかに動揺して見える。
——可愛すぎるんだが、どうしたものか。
彼は何を思ったか落ちていた紐を拾うと、それをこちらに示した。
「私のことも縛ってもらってもいいんだが」
「そんな趣味はないわ」
思わず呆れた声が出た。
ようやく口を開いた私に少しだけ安心したのか、ベネティクトは少し顔を寄せてきた。ほとんど彼の唇が私の頬に触れそうな距離で、彼が口を開くとふっと吐息がかかる。
「それならどうすればいい?」
「どう?」
「レインの望みを言ってもらえれば、何だってするし、何だってプレゼントする」
いつも好き勝手に人を振り回すベネティクトの言葉に、私は瞬きをする。
「なんでもしてくれるの?」
「許してくれるなら」
十分に真摯に見える顔と声に、もう一度、瞬きをする。そんなことを言われると、そろそろ許そうかという気にもなる。——そろそろ、と言っても、何日も鎖に繋がれたまま放置され、半日も腕を拘束され続けた私からすると、ほんの数分の茶番ではあるのだが。
「何をすればいい?」
そんなことを言われて、私はしばし考える。
今の彼なら本当に何でもやってくれそうではある。何をやらせようか——と、本気で考え込んでから、私は眉根を寄せた。
別に欲しいものなど何もない。もともと興味があるわけでもないが、服も靴も宝石も与えられすぎているし、部屋にはベネティクトが置いていく謎のモノが大量に溢れている。美味しい食べ物も珍しい食べ物も毎日のように食べられている。
別にこれ以上やりたいこともない。そもそも、普通の人の何倍の濃さと速度で色々な体験をさせられているのだ。普通では行けない場所に行けるし、屋敷には一流の音楽家やら画家やら研究者やら商人やら異国の旅人やらが絶えず出入りして、目の前で色々なことをやっていく。
ベネティクトはなんだかんだと言って普段は私に優しい。私のために色々なプレゼントを持ってきたり、何時間もかけて髪を結ってくれたり、朝まで腕枕で眠ってくれたりする。
考えると意外と満ち足りている気もするし、これ以上に私の望みなど何もない気がする。とはいえ、何もないと言ってしまっては、それはそれで悔しい。
うーん、と首を捻る私を見て、何故だかベネティクトが少し困ったような顔をする。
「そんなに私にやらせたいことがあるのか?」
いいえ全く。
「——美味しいが、よく分からない」
スープに口をつけながら、ベネディクトが首を捻った。私が作った料理に感想を求めたのだが、よく分からないとはどういうことだろう。彼は常に一流の料理人が作った料理を食べている。私のような素人の作った、しかも全く原材料費もかからないような田舎の料理は口に合わなかったのだろうか。
「美味しくないの?」
「美味しい」
「どの辺が?」
「美味しい、にどのへんと言われても困るが、明日も食べていい」
そんなことを言われて、首を傾げる。
彼は好みの料理があると、料理人にまた食べたいと伝えていた。私の料理に対してどこまで甘く採点してくれていのかは分からないが、明日も食べてもいいのであれば、少なくとも食べられないことはないのだろう。
「それなら、何が分からないの?」
「レインが料理を作って、それを私が食べることが、私の贖罪になるということが」
「……わたしの食材になる?」
私の言葉にベネティクトは奇妙な顔をしてから、彼も首を傾げた。
「料理が好きなのか?」
「別にそういうわけではないけれど」
村では大伯母と二人暮らしだったので、料理も自分達で作っていた。別に料理が苦だと感じたことはないが、だからと言って特別に料理が好きだったわけでもない。
ただなんとなく、私が食べてきたものを彼にも一度、食べてもらいたいと思っただけだ。不味いと言われれば、別にそれはそれで良いとは思っていたのだが、彼なりに気を遣っているのか、それとも本当に口にあったのか、ひとまず美味しそうには食べてくれている。
「もう怒っていないか?」
とっくに怒ったふりをしていることなど忘れていたのだが、彼はまだ覚えていたらしい。頷くと、安堵した顔をした。
ちなみに後日、なぜか私に対抗するように料理をしたベネティクトは、子供の頃に一度作ったことがあるなどと言って、驚異の手際の良さで料理長顔負けのフルコースを作ってみせた。
とても美味しかったのだが、いったいどういうつもりなのだろう。私の拙い料理に対する当てつけに感じてしまったのは、被害妄想というやつだろうか。
——なんにせよ今後、私が彼に料理を作ることはないと断言できる。




