「しまった」(5/6)
天文台には大きな望遠鏡があるらしい。
その広間には王女とベネティクトがこもっているから、と言われて私はユハニと一緒に別室で待っていた。彼は先ほどまでとは違い、隣には座りながらも近いと感じる距離感ではない。何故だか妙に打ち解けられたようで、彼は始終楽しそうに愚痴を垂れ流していた。
祖国の国王が暴君で自分も反体制に殺されかけたとか、父の愛妾にうっかり手を出して処刑されそうになったとか、舞踏会で出会った女性の夫から刺されただとか、王女がベネディクトの肖像画を彼の部屋にまで飾るから毎晩うなされているとか、そんなことを流暢に語る。半分は呆れながら聞いてはいたが、ベネディクトに何語かもわからない天文に関する学術論文を読み上げられるよりはずっと、時間を忘れられる話題ではあった。
気づけば外はとっくに暗くなっている時分だし、遮光の重いカーテンを開ければきっと、満天の星空が見えるのだろう。今ごろベネディクトは王女様と二人で星を見ているのだろうか。そんなことを考えていると、部屋のドアが開いてベネディクトが姿を見せた。
彼は不機嫌さを隠す気もないらしい。疲れた顔と不機嫌な顔を混ぜて固めたような顔で歩いてきたベネティクトに、王子は少しだけ気圧された様子で立ち上がる。私も立っている二人に合わせて立ち上がった。
「ファンディーヌ殿下は?」
「眠った」
「は?」
「一つ一つ星の名前や星座の成り立ちや惑星の並びを説明していたら寝た。思ったよりも時間はかからなかったな」
確かに眠くなりそうな話題である。いくら愛するベネディクトの声とはいえ、淡々と呪文のような単語を唱えられては、さすがの王女も眠気には勝てなかったのだろう。思ったよりも、ということは最初からそれを狙って話をしていたのだろうか。
「殿下はあちらに。陛下のところまで返却していただけますか?」
ベネディクトはやってきたドアの方を示してから、ユハニに視線を流した。返却、という言葉にか、王子は一瞬だけ苦笑するような顔をしたが、すぐに王女様の前で見せていた時と同様の完璧な笑顔を作る。
承知しました、と優雅に一礼した彼は、なぜだか私の前でおもむろに跪いた。
「ソフィアさま、今日はとても楽しい時間をありがとうございます。またお会いしましょうね」
ついでに手の甲にキスなどを落としてくる。
きらきらとした王子様スマイルのまま、少し上目遣いにこちらを見上げてくる瞳に、私は思わず苦笑した。彼は何度刺されたところで、痛くも痒くもないのだろう。あと何年もして王女様が彼の守備範囲に入ってきたら、きっと陛下に叩き斬られるに違いない。
隣の部屋に消える王子の姿を見ていると、ベネディクトの声がする。
「——楽しかったのか?」
感情の読めない声音に思わずベネディクトの表情をうかがうが、相変わらず何を考えているのかなど分からなかった。不機嫌そうにも見えるし、疲れているようにも見えるし、怒っているようにも何も考えていないようにも見える。ただ、なんにせよ顔色は良くない。
「色々な意味で面白い人ではあったけど……それより体調は大丈夫?」
そもそも体は弱いし、そうでなくとも彼は殿下や陛下に呼び出されるたびに体調を崩したと言って寝込んでいた気がする。普段のように気ままに振る舞えないぶん、ストレスがたまるのだろうか。
「大丈夫ではないし、こちらは全く楽しくなかったな」
そう言ってため息をついた彼だったが、何を思ったのか急に手を伸ばしてきた。そして唐突に唇を奪われる。
思いがけないタイミングでの濃密なキスと首を這うように強く絡められた彼の指に、意図したものではなかったが、体が抗うように身じろぎをする。するとベネディクトは唇を離してこちらの顔を覗き込んできた。どんな宝石よりも綺麗で澄んだ瞳の青に、自分の顔が映っている。その真っ直ぐな視線に、もしかして彼は怒っているのだろうか、と思う。彼の両手は私の顔を包むようにしており、逃げたくても逃げられない。
「……なに?」
「無事ならよかった。一応は心配をしていたんだ」
真剣な顔でそんなことを言われて、どきりとする。
もしかしたら彼は嫉妬するなり怒るなりしているのではないか、と一瞬でも思ってしまっただけに、彼が自分を心配してくれていたのだと思うとほっと安堵するような、ぎゅっと胸が苦しくなるような、そんな気持ちになる。何を言って良いのかわからずに逡巡してから、口を開く。
「……体が辛いなら座ったら? それとも馬車に戻る?」
体調が大丈夫ではない、と言った彼を心配しての言葉だったのだが、ベネディクトはそのまま唇を近づけてくる。いつもよりも近い彼の顔は、やけくそなほどに高いヒールのせいか。彼は口付けを交わしたまま、頰や髪を結い上げたうなじのあたりに触れる。
するとドアが開いた。
ぞろぞろと王女の供たちと、先ほど部屋を出た王子が入ってきたので私は慌ててベネディクトの体をつき離した。キスをしていたところを見られただろうか、と焦った私に対して、ベネディクトは少しだけ口元で笑ってから、なぜかもう一度顔を近づけてくる。
「ちょっと……」
「なんだ?」
人がいる場所で何をするのだ、と彼を押す腕に全力を込めたのだが、ベネディクトはほとんど力ずくで私の唇をついばみ、そして首や胸元にいくつかキスを落とした。そしてようやく体を離した彼は、私を見下ろしてからなぜか少し首を傾げる。
「その靴はキスをする姿勢が楽でいいな」
「……いま言う言葉がそれなの?」
わけがわからない、と混乱していると、少し笑いの混じるような王子の声がした。
「お邪魔をしてしまったみたいで申し訳ありません。殿下が眠っていて助かりましたね」
お姫さまをお姫さま抱っこする格好で抱えていた王子様に、ベネディクトはちらりと視線だけは流したが何も答えない。
「疲れたが、二人で星を観に行こうか」
邪魔者もすぐにいなくなる——と。小さくはない声で続けられた言葉は、王子たちにあてたものか。さっさと出ていけと言う露骨な態度だったが、ユハニは楽しそうに笑いながら王女を抱えて出て行った。最後にこちらに向けて片目を閉じてみせたのは、どう言うつもりなのだろう。
もう抗う気持ちもなくなった私に対し、彼はもう一度キスをした。




