「しまった」(1/6)
「しまった」
建物の入り口から外を見て、彼の背中はそう言った。
何か忘れ物でもしたのだろうか。そう思っていたが彼は振り返らない。私は長いスカートの裾を踏まないように慎重に歩を進めて、彼の隣に並んだ。今日はなぜだかバカ高いヒールの靴をはかされていたから、いつもよりも彼の顔までの距離が近い。
彼は一目でわかるほど嫌な顔をしていた。屋敷で彼がこんな表情をしたら、使用人達はまとめて荷物を抱えて逃げ出すだろう。苦虫をかみつぶしたような、もしくは裸足でぐねぐねの虫を踏んでしまったかのような、そんなあからさまな負の表情だ。
「どうしたの?」
私は聞いて、彼の視線の先を見る。
なぜだか建物の前に停まっている馬車が、いつもよりもだいぶ大きく見えた。錯覚だろうか、と目をこすって見るが、やはり大きい。普段からベネディクトが乗っている馬車は動く部屋のようだと思っているのだが、これは動く広間である。天幕も同じで白なのだが、こちらの方はやたらと光沢がある布を使っているのか、夕日を浴びてキラキラと輝いていた。馬もいつもは四頭立てだったと思うのだが、目の前のは六頭もいる。ついでに彼らの首には、キラキラと光る立派な飾りがつけられている。
「……なんか馬車が豪華になってない?」
私の言葉に、彼は答えない。
今度は完全に無の表情となり、無言で階段を降りていった。ベネディクトが宿にと丸ごと一棟借りたこの建物は、出入り口に五段ほどの段差があり、道路より少し高くなっている。私もそれに続こうとしたが、かかとがピンヒールを踏み外してその場で転びそうになった。なんとか階段から転げ落ちるのは免れたが、全身に変な汗をかいた。
ちいさな悲鳴をあげてしまった私に対し、彼はちらりとこちらを見上げた。無表情にもかかわらず呆れた様子が読みとれるのはなぜなのだろう。私は彼に口を尖らせて見せる。文句を言うのなら、私にこんな殺人級のヒールを履かせた自分自身に対してにしてほしい。
彼は階を登ると、手を出してきた。今度はちゃんとエスコートしてくれる気らしい。
「あまり余計なことは言わないほうがいい」
そばに来た彼から突然そんなことを言われて、私は目を瞬かせた。何か余計なことを言っただろうか。馬車が豪華になっていると言ったくらいで、あとはぜんぶ心の中にとどめておいたつもりなのだが。
「なんのこと?」
「王族侮辱罪は絞首刑だ」
「は?」
目を丸くした私を伴って、彼は段を降りていく。
いつのまにか馬車の出口から赤い絨毯のようなものが伸びており、そこにカチッとした黒いジャケットを着た青年達が並んでいた。ベネディクトと私が地面に足をつけた瞬間、一人のキラキラとした王子様がおりてきた。
年の頃は私と同じで十代の後半といったところか。きらきらに光る金髪に、金糸で刺繍のされた豪華な赤い胴着。そこからのぞくたっぷりとした白い襟元と、目に眩しいほどの真っ白なズボン。絵に描いたような王子様スタイルに、私の口がぽかんと開いた。王族侮辱罪というからには本物の王子様なのだろうか。
彼はその透き通るような青い瞳をこちらには向けず、馬車の中へと向けた。
動く広間に向けて恭しく手を出すと、膝を軽く曲げるようにして一つの小さな手をつまみとる。中から出て来た女性——少女をみて、私はさらにぽかんとする。
波打つような黄金色の髪に縁取られた、まるで陶器でできた人形のように美しい顔。そこには宝石のような翠の瞳がはまっており、遠目にも長い睫毛が影を落とす。白地に淡い金色の飾りがついたふわふわのドレスを身にまとった彼女は、まるで天使のように体重を感じさせない動きで、地上に降り立った。
「アルフレド様!」
ぱあっと花の咲いたような笑顔が向けられる。と同時に、彼女はエスコートしようとしていた男性の手を振りほどいて駆け寄ってきた。傍にいたベネディクトがすっと膝をつき視線を落とすのが見える。まるでどこかの騎士が主にするような完璧な振る舞いに、私はどきりとする。
もしかしたら、私も同じように膝をつかねば王族侮辱罪とやらにあたるのだろうか。
そうは思ったが、足先まで絡むドレスとバカみたいに高いヒールが邪魔をして、膝を曲げることすら難しい。そんなことをおろおろと考えていた私だったが、そもそも彼女の視界に私など入っていないようだ。少女は膝をついたベネディクトの顔を覗き込むようにすると、胸の前で小さな両手のひらを合わせた。
「ご機嫌麗しゅう、アルフレド様。ねえ、お顔を上げてくださらない?」
ベネディクトが仕方のない様子で顔を上げると、彼女ははっと息を飲むようにしてから、合わせていた掌を口元に持っていった。少女は翠の瞳をきらきらと光らせて、彼の顔を凝視する。声など出さなくとも、美しい、とか、麗しい、とかいう単語が彼女の全身から発されているのがわかった。それをベネティクトはあからさまに白けた顔で見ていたのだが、そんな顔でも少女のフィルターを通せばきらきら輝いて見えるのだろう。
しばし彼女は無言で彼の無表情を堪能したのち、はっと思い出したように言った。
「怪我をしたと聞いて、心配していたのですけど」
「おかげさまで、見ての通りですよ——ファンディーヌ殿下」
ベネディクトの読んだ名前に、私は目を瞬かせる。




