ヒロイズム(7/13)
部屋に飛び込んできたのは、使用人らしき男が二人と護衛が一人だった。彼らは口々に、大勢の人々によって屋敷が取り囲まれている、と訴えた。
「そうか」
ベネディクトの返答はいつも通り簡潔である。動じるわけでもなく、相手に言葉をかけて安心させるわけでもない。相変わらず何を考えているか分からない声と顔で頷き——そして何故か私の手を取った。
突然のことに、心臓が跳ね上がる。体もびくりと反応した。それがベネディクトに伝わっていないことを祈りながら、私はおずおずと彼の白い指先が乗った手を見下ろす。苦労など何もしたことの無いような細く長い指は、まるで彫刻作品のようになめらかで美しい。彼の外見を作った神様は、爪先にいたるまで手は抜かなかったらしい。
彼の中身を作った神様は、多少、変わった方だったのだろうが。
「心配しなくて良い。彼らは私のことはともかく、魔女のことは怖れているからな。存在するだけで災厄を起こす魔女を、どうにかしようなんて思ってはいない」
ベネディクトの手は、いつも温かい。声はいつも通りの冷静すぎるものだが、重ねられた掌の温かさが、彼の優しさを伝えているように感じた。私を安心させるように言われた言葉は、真実、私を励ますための言葉なのだろう。他人に興味の無い彼が、他人のための言葉を発すること自体が珍しい。
どうしてそんなに優しいのだろう。
そんな自問は、どうやら彼は私のことを「特別」に感じてくれているらしい、という自答を呼んだ。彼は私を信頼してくれているらしいし、一緒にいたいと思ってもくれているらしい。少なくとも、大金を払ってでも手元においておきたいと思ってもらえる存在ではあるのだ。だが、その「特別」というのは、果たして一般的に言われる「愛」とか「恋」というものと同義であるのだろうか。
もやもやとする気持ちは、非常にその答えを聞きたがっていたのだが、口にすることは出来なかった。代わりに別のことを聞く。
「私のことはともかくって……ベネディクトは大丈夫なの?」
「さあ。所詮、私は普通の一市民だからな」
ベネディクトを「普通」の「一市民」と思っている人間など、この世界にいるのだろうか。疑問ではあったが、私がそれを問う前に、彼は私の手を取ったまま立ち上がった。そしてそのまま手を引いて部屋の外に向かう。
しっかりと繋がれた手に、顔が熱くなるのを感じる。ベネディクトが振り向かないことを祈りながら、ふわふわとする足取りで彼の後を追った。私はとてもどきどきしていたのだが、ベネディクトの方はさほど意識した行動ではなかったらしい。彼は廊下の窓に張り付くと、自然な動作で私の手を放した。指先を、ひんやりとした風が抜ける。
「あまり庭を荒らさないで欲しいな。あの辺りには、交配実験中のエンドウマメを植えているんだ」
彼の言葉に窓を見下ろすと、人々は屋敷の塀を取り囲んでいるどころか、庭の中にまで侵入してきていた。彼らはそれぞれ、斧や鋤といった武器代わりの道具を手にしている。その物々しい雰囲気は、間違っても、話し合いをしようだなんて和やかな雰囲気には見えなかった。
私は、そっとベネディクトの横顔を伺った。
彼はいったい、どうするつもりなのだろう。いくら平民達の方に誤解があると示したとはいえ、それを納得してもらえないことには解決は無い。
そのとき、後ろに控えていた護衛が、動くのが見えた。何となくその動きの不自然さに、目が留まる。何が気になったのだろう。そんな一瞬の疑問は、彼の右手が剣の柄にかかっているのを見て、霧散する。
彼の鋭い視線は、明らかにベネディクトの背中に向けられていた。男の双眸が、私の顔を一瞬だけ見る。だが、瞳に宿った強い光は、少しも減じなかった。
危ない。
咄嗟のことで声が出ない。抜かれた刃が、一閃される。
私は、思いきりベネディクトの腕を引いて、床に倒れ込んでいた。その瞬間、赤いものが視界の中で散った気がして、一気に血の気が引いた。私の体が床についたすぐ後に、上からベネディクトの体が落ちてくる。衝撃に耐えるように、私は体を硬くした。
だが、思ったほどの衝撃は無かった。私の顔のすぐ傍に、ベネディクトの掌がある。転倒する際に、咄嗟に手を付いたのだろう。彼の手をたどって視線を天井に向けて、そこで、金色に光る何かに目が眩む。思わず目を閉じてしまってから、暗くなった視界でぞっとするものを感じた。
太陽の光をはじくそれは、ベネディクトの命を狙った刃だ。
「ベネディクト!」
私の叫びに重なるように、金属音が響いた。
目を開けると、そこには重なる二つの剣がある。絨毯についていたベネディクトの腕は、いつの間にか細い剣を握っていた。屋敷についてからも、彼は帯剣したままだったのだ。上からのしかかるようにして振り下ろされた剣を、ベネディクトは下から弾き飛ばすようにして立ち上がった。小さな赤い雫が宙を舞うのが見える。良く見ると、護衛が握る剣には、赤く血が付いていた。
ふらついた男が体勢を立てなおす前に、ベネディクトは一歩、距離を詰める。だが、すばやく一閃した剣は、男の剣によって阻まれた。ベネディクトは剣を握った手に力を入れて、護衛の剣を弾く。男はそれを受け流すようにして、ベネディクトから距離をとった。
お互いの動きが止まった。無言で見詰め合っていた二人だったが、しばらくしてベネディクトが口を開くのが見えた。
「契約の中に、主人の命を狙うなんて項目は無かったと思うが」
彼らしい、泰然とした言葉に、私はようやく息をした。新鮮な空気が胸に入り、息苦しさから解放される。気づかないうちに、呼吸を止めていたらしい。だが、彼の首の辺りが赤く染まっているのを見て、また息を飲む。ベネディクトは、剣を持っていない方の手で、首を押さえた。
大丈夫、と悲鳴のような声で言った私に、彼は振り返らずに答えた。
「運は悪くないらしいな」
運は悪くない、と言ったが、白いシャツの襟元は完全に赤く染まってしまっているし、良く見れば黒のジャケットの肩口も染みになっているのが分かる。彼が傷口から手を外すと、また新しい血が流れた気がした。




