ヒロイズム(6/13)
ベネディクトは大きなソファに腰掛けると、怪我をした腕を医者に診せる。飛び込んできた二人の医師は青い顔をしていたが、矢で射られたと聞いてもさほど驚いた表情をしなかった。彼らの仕事は専ら彼の体調を気遣うことだと思っていたが、そういえば彼は幼い頃から何度も命を狙われていたと聞く。怪我をすることもそう珍しいことではないのだろうか。
彼はふんぞり返った姿勢のまま、空いたもう片方の手で使用人を呼んだ。
「レーゼルのところと宮殿に使いを頼む」
いきなりそんなことを言われた使用人は、目を瞬かせる。私がですか、とどもりながら聞いた男に、ベネディクトは首を傾げた。
「レーゼルの屋敷と宮殿は真反対にあるから、適当に二人で手分けしてやってくれ。誰でも良い。私が言った言葉をそのまま伝えるだけだ。子供にでも鸚鵡にでも出来る簡単な仕事だろう」
「お、おうむ?」
「鳥だ。まずはレーゼルの方に伝えてもらう言葉だが——」
ベネディクトが言いかけた言葉を、使用人は慌てて遮った。メモを取るつもりなのだろう。あわあわと仲間に声をかけて書くものを用意させようとしたようだが、伝える言葉も要領を得ない。その様子を眺めながら、ベネディクトはため息をつく。
「執事を辞めさせたのは、私に対する嫌がらせのためだろうな」
「辞めさせた? 誰が?」
「暇と権力を持て余した貴族達だろう。そのうちの一人は、先日私と会談したレーゼルだ」
意外な言葉に、私は目を瞬かせた。執事が全員辞めてしまったのは、ベネディクトが何かをしたのかと思っていたが、そうではなかったらしい。
だいたい、先日とはレーゼル伯爵が娘とともにベネディクトを訪ねてきたことを言っているのだろうが、会談とは随分おこがましい。はるばる訪ねてきた伯爵様——正直、伯爵というのがどれくらい偉い人なのかは分からないが——に対し、ベネディクトはとんでもない手段で追い返したのだ。
「貴族が執事を辞めさせたの? 何のために?」
「もちろん、私を孤立させるためだろう。護衛が減れば危険が増えるし、使用人たちが一斉に辞めれば屋敷は混乱する。また新しい人間を雇えば、貴族達も自分達の手の内の者を忍び込ませやすくなるしな」
確かに先日、私たちの食事に毒を盛ったのは新しく入った使用人だったし、今日も襲撃があったが、ベネディクトの護衛の人数はいつもよりずっと少なかった。
私が何かを言い返す前に、ベネディクトは用意が出来たらしい使用人に向かって言葉を再開した。
「レーゼルには、証拠があると伝えてもらおう。身分の無い私には陛下に謁見する権限などないが、ファンディーヌ・エルヴィラ・ローチ殿下なら少しは面識がある。殿下にとりなしていただいて、伯爵の私に対する干渉行為を訴えることは可能だ。いかに貴族とはいえ、他領地の領民を虐げることは法令違反だからな」
証拠?と私が聞くと、ベネディクトはちらりと視線だけで私を見た。
「私に都合のよい証拠なら、後からいくらでも捏造できる」
——ねつぞう。言葉の意味は分からなかったが、ろくな台詞ではないはずだ。私は聞かなかったことにして、大人しく話の続きを待つ。
「宮殿には、ラシア男爵を訪ねてもらいたい。第二執務室に控えているはずだから、門番に私からの使いだと称して呼び出してもらえば良い。ただし、私の名前がファンディーヌ姫の耳に入ると面倒なことになるので、出来る限り内密にな。会えれば、あとはこの手紙を渡してくれれば良い」
彼はそう言って、馬車の中で書いていた文書を渡した。使用人はそれを大人しく受け取ったものの、その場から動こうとはしなかった。どうも、この期に及んで本当に自分が宮殿なんかに出向かなければならないのかとうろたえているらしい。おろおろとした様子の彼を、ベネディクトは無情にも身振りだけで追い出す。ついでに治療していた医師も、部屋に控えていた他の使用人や護衛も追い出すと、完全に二人きりになる。
ベネディクトは包帯の巻かれた腕を組み、ため息をついた。
「あの使用人も、どこまで信用できるか分からないがな」
「え?」
「いつから雇っているかも覚えていないし、名前も覚えていない。貴族の手のものでもおかしくないし、そうでなくても彼は平民だ。さきほど外で襲ってきた人々と立場的には同じだろう。平民らはレーゼルらの流布した噂に踊らされているようだからな」
そう言われてみれば、この屋敷にいるのは大抵が付近の村に家族を持つ平民たちなのだ。村でベネディクトと私が恨まれているというのなら、ベネディクトに仕える使用人たちが私たちに恨みを持っていてもおかしくない。私は少しだけ眉根を寄せた。
「それなら、もっと他の人に頼めば良かったじゃない?」
「彼が信用できるとは思えないが、だからといって他に誰が信用できるとも思えないからな。どうしようもない」
「どうしようもないって、どうするの?」
「だから、どうしようもない。その辺で私を取り囲んでいる護衛たちが私に剣を向ける可能性すら否定できないからな。そもそもラシアが信用出来るとも思えないし、レーゼルが私の忠告など聞くかは分からない。——ふむ、良く考えたら味方など誰も思いつかないな」
「ふむ、って」
なんてのん気なんだろう。
自業自得と言えば、何より自業自得の言葉であるが、そんなことを言っている状況でもない。屋敷に戻れば安全だと思っていたが、ベネディクトの話を聞いていると、どこでも彼が安全な場所は無いように思える。平民は敵に回っているようであるし、貴族に助けを求めても、敵はそもそも貴族であるのだ。身内が可愛いに違いない。
考え込んでいる私の耳に、ベネディクトの声が滑り込んできた。
「ソフィアだけは安全な場所に逃がしてやりたいんだが、あいにくどこが安全なのか分からない。すまないな」
思いがけない彼の言葉に、私の抱いていた焦燥感は、途端に別の感情に形を変えた。その感情が何なのか、それは自分でも分からない。ただ、なんだか胸がもやもやとして、いてもたってもいられなくなった。何と言って良いのかわからなかったが、何かを言わなければいけない気がして、とっさに口を開く。出たのは、我ながら意地悪な言葉だった。
「私のことは信用できないとは思わないの?」
何を聞いているのだろう。
私の言葉に、ベネディクトは青い瞳を僅かに揺らした。
「それは考えなかったな」
そういうと、考え込むように顎に手をやる。
「確かに、魔女を探していた私に対し、誰かがスパイを送り込んでいる可能性も否定出来ないわけか。その上で、魔女を囲った私を非難し孤立させれば文句なしだな。貴族に対しても、魔女を使って私の評判を貶めることが出来る、か。——悪くない」
「あの、ちょっと、本気?」
何の気なしに口にした言葉で、そこまで本気で考えられるとは思わなかった。慌てている私を見上げている瞳はいつになく真剣で、思わず首を横に振った。まさか、と否定したが、ベネディクトの表情は変わらない。私の手首についている鎖を、ベネディクトは無言で手繰り寄せた。
「冗談でしょ。私が誰かのスパイなんて」
彼の横に座らされた私の頭に、彼の手が当てられる。
え、と思った時には、片手で引き寄せられていた。すぐ目の前に、どんな宝石よりも澄んだ青をした瞳がある。長い睫毛が微かに震えるのが見える。私は息を止めた。彼が何をようとしているのか分かったが、避けることは出来なかった。
やわらかい唇が、私の口をふさぐ。
中途半端に宙に浮かしたままの右手が震えた。知らず、自分の掌をぎゅっと握り込んでいた。全身に力が入り、手足の動かし方を忘れてしまったようだった。一度、唇はついばむようにして離れたが、また強く押し付けられる。私は目を閉じることも出来なかった。
ほんの一瞬のことだったかもしれないが、私には気が遠くなるほど長い時間のような気がした。彼が体を放し、私の目を覗き込んできた時には、私の思考は真っ白に固まっていた。目を逸らすことすら出来ない。
「どうせ、他人が何を考えているのかなど分かるはずがないからな。他人を信用することに意味があるとは思っていない」
突き放すような冷たい言葉。だが、声音はなぜだかやさしい。
「が、裏切られても構わないと思える相手がいるのも悪くない」
私は何も言い返せずに固まっていた。
血相を変えて飛び込んできた使用人が、屋敷に大挙して人がおしかけてきたと聞いたときも、どこか現実感が無かった。




