ヒロイズム(3/13)
馬車は中々に快適だった。
何せ、金がかかっている。四頭立ての四輪馬車は、まさしく移動する部屋だった。ソファを置いても十分に広く、見上げられるほどに天井も高い。床に敷き詰められているのは最高級の絨毯。置かれているソファも屋外用の簡易的なものではなく、応接間にあるような重厚な造りのものだった。悪路の揺れを軽減する効果もあるのか、すわり心地も申し分ない。
ただ、一つ難点を言うとすれば、全く外の様子が伺えないことである。せっかく外に出たのだから、外の景色が見たいと思うのだが、密閉された空間には窓一つない。天蓋を覆っているのは真っ白の布なので明るさは十分にあるのだが、それにしたって四方を囲まれていると何となく息苦しい。ソファに座って、何やら文章を書いている様子のベネディクトをちらりと見てから、私は幌の一番後ろに移動した。
布があわせてある出入り口部分を少しひっぱると、ようやく外の風が入ってきた。それから、土の匂いと周囲に広がる田園風景。久しぶりに見る外の世界は、心を躍らせる。絨毯の上に膝立ちになり隙間から顔だけを出していた私は、大きな声を出してベネディクトに問いかける。
「この馬車、どうして外の景色が見えないの? 窓くらいつければ良いのに」
「外の景色など見たところで、何の面白みもないだろう。せいぜい、貧しい農民の暮らしぶりが見えるだけだ」
「それは、少しは見といた方が良いんじゃないの」
私はそう言って振り返ったが、彼は視線を上げてもいなかった。
お金持ちには、あからさまに貧民を見下すような態度をとる人間が多い。彼らは、貧しい人間など同じ世界の人間だと思っていないのだ。ベネディクトもその点では、決して例に漏れなかった。——ただし、彼の場合、相手が貧民だろうが王族だろうが視界に入っていないという意味では、かなり公平な人間である。彼には金の無い人間の生活など想像出来ないが、権力を持った人間の暮らしを想像する気もない。
ベネディクトは、書いている文書から視線を上げないまま、淡々と言った。
「気をつけた方が良い」
「何を?」
「祖父は生前、そうやって顔を出して、たびたび弓矢で狙われていた。まあ、高利で金を貸している家の数や、金を返せなくなった家族から取り上げた田畑の数を数えながら馬車移動するのが趣味だったそうだから、自業自得だろうが」
言われ、私は恐る恐る隙間から外をうかがった。一見して、平和そうな風景が続いているが、そういわれてしまってはもう無防備に顔を出す気になれない。つくづく物騒な世の中である——というよりも、つくづく他人の恨みを買う家系だ、というべきか。私はため息をついた。
きちんと硬い布を合わせてから、私はソファに戻ろうとする。
そのとき、馬車が突然止まった。
移動している途中だった私は、耐えられずに悲鳴をあげて床を転がる。転がった先は、ベネディクトのちょうど足元だった。視線を上げると、冴え冴えとした青い瞳が私を見下ろしていた。
しばらく見つめ合っていたが、彼の口からは大丈夫かの一言もない。当然ながら、起き上がらせてくれるような優しさも無い。この女は何をやっているのだろうと、単純に考えているだけの顔。仕方なく私は立ち上がり、恥ずかしさを隠す意味もあって声を出した。
「何なのよ、いったい」
私の言葉に応えるように、表からにわかに音が聞こえてきた。
馬車を囲んでいるはずの護衛たちらしき声と、それからその向こうから聞こえる多くの足音。私は不安になって周囲を見回したが、当然ながら薄暗い幌の中が見回せるだけだ。だからと言って、弓矢で狙われるという言葉を聞いた後では、顔を出す気にもなれない。
置かれた状況が分からないということは、予想以上に恐ろしい。はずだが、ベネディクトの秀麗な顔には、不安どころか疑問の表情さえ浮かんでいなかった。彼は淡々と口を動かす。
「目的地にしては早いな」
私は嘆息した。この人はどうしていつも落ち着いているのだろう。何も考えていないように見える無表情は、見る人によっては憂愁を帯びた、と表現するのかもしれない。だが、私から見ると、やっぱり何も考えていない顔だ。
外から聞こえてくる怒号のような声に、私は体を縮める。道をあけろという護衛と、中の人間を出せと要求するたくさんの人たちの声。言い争うような声がどんどんと大きくなる。どう考えても緊迫した雰囲気だ。
「ねえ、大丈夫なの?」
私がベネディクトに話しかけたとき、目の前の幌布にストンと何かが飛び込んできた。びくりと体を震わせる。良く見るとそれは、矢の先っぽのようだった。鋭利な先端。外から弓で射かけられたのだ。息を飲む間に二本、三本と突き刺さる。続いて御者台から人が飛び込んできたときは、こらえきれずに小さく叫び声をあげていた。賊が押し入ってきたのではないかと思ったのだが、良く見ると彼はこの馬車の御者である。
屋敷で何度か見たことのある若い男は青い顔で、大丈夫ですか、と聞いた。ベネディクトは、懐から鎖付きの懐中時計を取り出す。
「予定より五分、遅れているな。会議に遅刻するとペナルティがあるんだが」
御者は決してそういう意味で大丈夫かと聞いたわけではあるまい。
私は耐えられずに声を上げる。
「そんな問題!? ねえ、危ないんじゃないの?」
「人間はつまずいただけで頭を打って死ぬこともあるし、食べ物を喉に詰まらせて死ぬこともある。潜在的な危険がどこにでも潜んでいることを考えると、特にここだけが危険だと言うわけではあるまい」
「道を歩いてつまずくのと、矢で狙われるのじゃ、危険の度合いが違うでしょ!」
「度合いといっても、危険を表す指標というのは難しいな。危険を定量的に表現するならば、何を基準とする?」
真面目に言った彼の顔に、何かをぶつけてやりたい気分になる。こんな状況でも、彼は彼である。まともに会話をしようと思ったのが間違いだった、と後悔している私の無言をどう捉えたのか、ベネディクトは御者に目を向けた。
「いったい、何事だ?」
彼の口から、ようやくまともな言葉が聞けた。
たどたどしい御者の言葉からすると、武装した民衆がいきなり飛び出してきて、馬車を取り囲んだらしい。彼らの要求はどうやらベネディクトと話をすること。民衆は、彼が災厄をもたらす魔女を連れ込んでいることに対し、相当に怒っているらしい。
だが、ベネディクトは首を傾げるだけだった。
「馬車を出せないのか? いくら道をふさいでいたところで、馬に跳ねられる前に逃げるだろう」
「それが……すでに道に丸太や色々なものを置かれてしまっていて。馬車を通すには、彼らを追い払ってから、道を整地しないと」
「ならば追い払えば良い。護衛は何をしている?」
「相手は武装しておりますし、数もこちらの五倍はいます。争いになってしまうと、べラスコ様にまで危険が及ぶのではないかと……」
「勝ち目がないなら、私の身の安全が云々と言う前に正直にそう言うべきだ」
ベネディクトがそういうと、相手も口をつぐんだ。
どうするつもりなのだろう。矢は飛んでこなくなったが、外からは言い争うような声がひっきりなしに届いてくる。そんな中、幌の後ろ側から一人、乗り込んできた。それも顔見知りの護衛だったが、やはり最初はびっくりする。彼は硬い顔で、口を開いた。
「べラスコさま、あの」
それだけの言葉だったが、何が言いたいのかは明確だった。ベネディクトにも伝わったのだろう。彼はろくに護衛の顔も見ずに、呟いた。
「無駄な問答をしたところで、結局は外に出るはめになるのだろうな」
彼はそういうと、存外にあっさり立ち上がった。




