ダダイズム
アルフレド・ベネディクト・ベラスコとはどのような人物か。
彼は、様々な意味で恵まれた人間である。
まず金がある。父だか祖父だか曽祖父だかが残した財産が死ぬほどある。金だけが人生では無いと言う人もいるが、それでも金があるのと無いのとでは生き方が変わってくるだろう。彼は生まれた時から働くという事には無縁であり、今後も汗を流して働く事は無いと、他人事ながら断言できる。
そして顔が良い。金のある男にとって器量はさほど大した要素では無いが、悪いよりは良い方が良いに違いない。彼の横顔を見つめる女性達の目には、男の金に目が眩んだだけでない、心からの憧れがあった。私としても、どうせ毎日のように顔を合わせるのなら、見目が悪いより良い方がましである。
もちろん、金や顔だけでなく、才能もある。
まず抜群に頭が良い。屋敷には医学や生物学や物理学など、様々な分野の研究者が集められているのだが、彼は彼らとそれぞれ対等に会話が出来る。彼の頭の中には、世界中から集められた書物の知識が、これでもかと言うほど詰め込まれていた。その知識を知恵に変えるだけの頭の回転も持っており、研究者としても一流である。気が向いた時には本職の研究者と共同で論文を書くこともあるらしい。
また、戯れに爪弾く弦楽器は、屋敷に招いた楽師達と一緒に演奏が出来るほどの腕前であり、室内演習場でレイピアを取り出せば、師範と対等にやりあうほどの腕前——らしい。匙より重いものを持ったことすらなさそうな彼が細剣を持つなど、自分の目で見ない限りは俄かには信じられないのだが、どうも聞く限りでは玄人はだしの腕前なのだとか。
何にせよ、彼の変人さと性格の悪さで全てがぶち壊しなのだが、一応、彼が金と器量と才能に溢れた人物だという事は誰もが認めるところだろう。
そんな彼にも、当然だが苦手なものはある。
彼の描いた絵を一目でも見た人間は、たちまち石になるらしい。
***
「暇すぎて死にそう」
私が訴えた嘆きに、ベネディクトは視線を上げさえしなかった。
顔料の独特な匂いが染み付いた部屋。四方を絵画に囲まれたこの部屋は、普段は絵師たちが作品を制作する作業室である。彼らの描いた風景画や人物画が整然と並べられた様子には、一種の迫力があった。腕の良い絵師たちなのだろう。正直、絵の良し悪しなどは解らないのだが、見たことの無い異国の風景や、活き活きとした人間たちが描かれた絵画には、思わず目を見張らされるものがある。
——が、そんなものは、せいぜい数時間で見飽きる。
「私の知りうる限りでは、暇が原因で死んだ人間はいない」
当たり前の事を彼は言った。
ベネディクトは学問をこよなく愛しているが、絵画や音楽などの芸術に対する興味も高い。屋敷には常に数人の画家が出入りしていたし、遠くから楽師達を招いて頻繁に演奏会も開いている。気が向いたときには自ら演奏する事もあるし、絵を描く事もあるらしい。
今日の彼は、半年に一度向くか向かないかほどの気が向いたらしく、大きなキャンバスを広げていた。私からは裏側しか窺えないが、ベネディクトが白い布の上に、大胆に筆をのせていくのが分かる。
「退屈は人を殺せるといっていたのはどこの誰よ」
「ほう。どこの誰が言ったかは知らないが、それは名言だな」
「私の知りうる限りでは、退屈が原因で死んだ人間もいないわよ」
「そうだろうな。そんな愉快な人間がいれば、是非とも研究させてもらいたい」
打てば響くように答えは返ってくるのだが、彼の意識の大半は彼の手元に取られているのが分かる。私は思いきりため息を付いた。
彼が何を描いているのかは知らない。
ほとんど視線を上げずに描き続けているから、まさか私を描いているわけでは無いだろうが、それならばこの鎖を外して欲しいと心底思う。彼は朝っぱらから私を呼び出して作業室の柱に私を繋ぐと、一人で黙々と絵を描き始めたのだ。話し相手にされるのならともかく、一人で放っておかれるのはたまらない。
彼が届く範囲にいれば蹴りでも入れてやるのだが、残念ながらそこまで鎖は届かない。手の届く範囲に、彼に向かって投げつけられるようなものも落ちていない。もう一度、ため息をついてから、せめて言葉だけでも投げつけた。
「何を描いているのよ」
「時間」
予測も出来ない答えに、私は眉を上げた。風景とか人とか物とかではなく、時間。彼ほどの変人になれば、選ぶ題材も常人とは違うらしい。初めて、彼の描く絵に対する興味が沸いた。少しだけ身を乗りだす。
「見せてよ」
「完成したらな。もう、ほとんど完成してる」
彼はそう言って、パレット上で筆先に黒を乗せた。
以前、彼の弾く弦楽器の——楽器の名前は聞いたが忘れてしまった——演奏を聞いて、思わず呆れたことがある。絵画と同じで音楽の良し悪しなど解らないが、そんな私が聞き入ってしまうほどに巧みな演奏だったのだ。一人で演奏しているとは思えないほど、色々な音が出る。体に染み込んでくるような、重厚で豊かな音だった。
本職の楽師が苦笑するほどの腕前を持ちながらも、彼にとって音楽とは、単なる気晴らしにしか過ぎない。練習しているところなど見たことも無いのだ。
絵についても、きっと同じようなものだろう。そんな気分で私は彼の絵を待った。ほとんど完成している、という彼の言葉どおり、すぐに彼の方から声が掛けられる。
「出来た」
彼は少しだけ自分の絵を眺め、出来栄えを確かめる。勿体つけるようにゆっくりと筆をおいてから、ぐるりとキャンバスを私に向けた。
——目に飛び込んできた衝撃的な物体に、私はしばし思考を止める。
「どうだ?」
どう、と聞くかこれを。
目の前の絵画を、どう表現すれば良いのだろうか。いや、そもそもこの衝撃をどう表現したら良いのだろう。途方に暮れた気分で、個性に溢れまくった彼の絵を凝視する。この気持ちを容易に言葉に表せるとも思えないが、一番の感想を言えば、そう。
「——呪われそう」
「は?」
ベネディクトらしからぬ、間抜けな声が返ってくる。
絵に描かれているのは時間——らしいが、どの辺がどのように時間なのか、想像もつかない。と言うか、そもそも時間だとか、時間でないとか、そんな低レベルな議論を寄せ付けない破壊力がこの絵には存在している。
黒と金色を撒き散らした空らしき背景に、地平を埋め尽くす建物とも植物ともつかない緑色に霞む物体。その下部は、大地を表しているのだろうか。茶色と言うよりは赤に近い禍々しい色が、世界を飲み込むように渦巻いている。左右に一人ずつというか一体ずつというか、人とも動物とも判別出来ないものが立っており、青白い顔が宙に浮く。そして、そこだけは見間違えようが無いような、ぎらりとした目だけが異様な輝きを持ってこちらを見つめていた。
何なんだこれは。
「何だそれは」
それは私が言いたい台詞である。
ベネディクトは、キャンバスを戻して自分でまじまじと絵を見つめる。そして首を傾げた。——自覚は無いのか彼は。
「黒魔術に使えるわ。退屈なんかより、よっぽど人が殺せるわよ」
嫌いな相手に送りつければ、嫌がらせ度は抜群である。きっと相手は送られた七日後に謎の死を遂げるだろう。一目見てしまった私も、きっと寿命が数日ほど縮んだはずだ。私の余命があと数日だったらどうしてくれるのだろう。
ベネディクトは眉間に皺を作った。
「褒め言葉ではないのだろうな」
けなされる事に慣れていないのか、彼はそんな風に呟いた。
ベネディクトはしばらく考え込むように固まっていたが、使用人を呼ぶと、作業室から追い出していた絵師たちを呼び戻すようにと言った。転がるように出て行った使用人の代わりに、転がるようにやってきた絵師たちは全部で三名。心なしか顔が強張っている気がするのは、気のせいでは無いだろう。ベネディクトの絵画の腕前を、彼らが知らないはずもない。
「どうだ?」
キャンバスを向けられた途端、男達は呪いをかけられた。
自身達が描く美しい絵を見慣れている彼らは、呪いの絵の威力に耐え切れず、一様に石になる。やがて、無言に耐え切れなくなったベネディクトが口を開くのが見えたのか、彼らは我に返った。
「す、素晴らしい! これこそ芸術ですな!」
「こ、こ、これまで描かれた作品の中でも、一位二位を争う傑作ですよ」
「さ、さ、さ、さすがべラスコさま」
芸術家たるもの、自らの審美眼というものには多少のプライドは持っているはずだ。が、彼らはそれをかなぐり捨てる選択をしたらしい。そんな彼らの胸中も知らず、ベネディクトは疑わしそうに首を傾げる。
「そうか?」
「え? え、えぇ、この黒と赤の見事なコントラストが、見事に混沌を表現して——」
「その混沌とした世界に萌える、この新緑が美しく映え——」
「加えて、デフォルメされた動物達が向ける、狂おしいまでに切ない視線。これはもう、芸術の域を遥かに超えているとしか——」
芸術の域を遥かに超えている事だけは、私も認めたい。
が、本職の絵描きが良くもあんな絵を褒められるものだ——そう鼻白みながら、私はベネディクトの表情を窺った。褒められてさぞ得意げになっているかと思いきや、ベネディクトはさらに眉間の皺を深くしていた。
彼は絵に描かれた二体の物体を交互に示す。
「これは私とレインだ。ついでに言えば、デフォルメなどしたつもりはない」
彼の言葉に、私は完全に呪いをかけられる。絵師たちも固まった。
「……ど、っちが私ですって?」
「見て分からないのか?」
分からないから聞いている。と言うか、分かりたくも無い。
しかも、デフォルメされていないと言う事は、そのままを描いているということである。一体、どこをどう捉えれば、私がこんな絵になり下がるのか。もしかして、私も七日後に謎の死を遂げねばならない運命なのだろうか。
私達の反応を見て、ベネディクトは再度、渋い顔をして絵と向かい合った。しばらくそうして固まっていたが、やがて肩を竦めると、私と絵師たちを残したままひとりで部屋を出ていく。もしかして、すねてしまったのだろうか。
因みに数日後、ベネディクトは、嫌がらせのためか自分の絵を作業室の正面の壁に飾った。
それ以来、私は呪いの作業室には近づいていない。