スーフィズム(1/4)
アルフレド・ベネディクト・ベラスコとはどのような人物か。
彼の世界に、神などいない。
教会に出向くことが稀であれば、神父様からお言葉をいただくことも稀である。仮にいただいたところで、右から左だ。有難いお言葉だろうが厳格な教えだろうが簡単に聞き流すし、聖書など単なる古代の文献としか認識していないらしい。何とも罰当たりなことに、暑い日には聖書を使ってばたばたと顔を扇いでいるほどである。敬虔な信者にそんな姿を見られれば絞め殺されても文句は言えないだろう。彼が祈りを捧げる姿など見たこともないし、そもそもそんな姿など想像すら出来ない。
だからと言って、彼は無神論者などではない。
彼は神の存在を信じている。信じてはいる、が、彼にとっての神とは、私たちの世界を俯瞰するだけの存在でしかない。極端にいえば、いてもいなくても何らかわりのないものなのだ。
例えば、同じように神に忠誠を誓う人間が二人いたとして、彼らの祈りがそれぞれ同時に並び立たない性質のものだったら、神はどちらの祈りを選択するのか。より忠誠の高い者か。より正義に拠っている者か。より清らかに生きている者か。どうなるにせよ、その判断はひどく主観的なものになる。何らかの基準で線引きをして選択するのならば、それは彼の考える絶対的な神ではないし、どちらも選択しないのならば、そもそも神に祈ることに何の意味があるのか。
だから、彼の世界に神はいない。心の底から叶えたい願いがあったとしても、彼は神に祈りを捧げない。ひどく辛いことが起こっても、とても幸運なことが起こったとしても、彼はそれを神から与えられた運命だとは考えない。彼はただ、静かにそれを受け入れるだけだ。
もっとも、私にも神などいない。
誇り高き魔女には、人間達の信じる神など何の意味もないのだ。
——だが、それでも私は祈りを捧げることがある。
叶えてくれるものの存在が見えなくても、それでも何かに祈らなくてはいられない。何かに祈り、すがることしか出来ない。そんな場合には、魔女の誇りなど、それこそ何の意味もないのだ。
***
「ソフィアに家族はいるのか?」
ベネディクトは初めて思いついたとでも言うような顔で言った。
彼は最近、一日の大半をベッドの上で過ごす。動きたくない、という彼の言葉は、単に面倒くさいと言っているのか、動きたくないほど体が辛いと言っているのか。聞いても適当にはぐらかされるだけで、彼の本音など見えてこない。元より細い体がさらに痩せたようには見えるが、彼の言葉や口調だけを聞いているとあくまで元気である。
私は呆れた顔で言い返す。
「今更そんなことを聞くわけ」
これまで、彼は私の名前以外は聞こうとしなかった。きっと年齢も知らないだろう。私に興味が無いのか、他人の背景などに興味が無いのかは知らないが、何にせよ興味が無いらしい。だが、何せ彼は私をずっと鎖に繋いでいるわけである。私に家族がいれば、心配すると考えるのが普通じゃないだろうか。
「今更と言われてもな。明日聞けば、さらに今更だろう」
「今日聞かれても今更よ」
「昨日なら良かったのか?」
そういう問題じゃない。真顔の男にそう言ってやりたいのは山々だったが、吐息を漏らすだけにとどめておいた。
「母がいるわ。育ててくれたのは、もう死んでしまった大伯母さんだけど」
「母はどうした?」
「放任主義な人なのよ」
私はそう言ったが、実際は「放任主義」なんて格好良いものではない。母はかなり奔放な魔女だった。ここ二年ほど姿を見ていないし、もし家に私がいないと知ったところで探してくれるかは大いに疑問である。
彼女はよく言えば恋愛至上主義、悪く言えば自分勝手な女だった。恋人とは片時も離れたくないと語るくせに、子供については、一年に一度くらい——それこそ恋人と別れた時にでも——顔を見に来れば満足するらしい。私はそれを普通だと思っていたが、一般的に見れば随分と無責任な親だと思う。
「そうか」
それだけ言って頷いた彼に、私は首をかしげる。そういえば、彼の父や祖父や曽祖父の話は何度も聞いているが、彼の母や祖母や曾祖母の話はほとんど聞いたことがない。
「そういえば、ベネディクトの母親は?」
「吝嗇な父に愛想を尽かして家出した。まあ、シャツ一枚を買うのでさえ原材料の原価から仕立て屋の工数まで計算して値切っていた父と、美容のためにバスタブにありったけの金箔を浮かべるような母が結婚できたことがそもそも奇跡だな」
「それは奇跡ね」
ベネディクトみたいな人間が形成されたことが奇跡だと思っていたが、彼が産まれてきたこと自体が、そもそも奇跡だったようである。
「今、どこで何をしているのかは知らないが、金持ちの夫でも見つけて裕福に暮らしているのだろう。そうでなければ、父が死んだ時に屋敷に戻ってきているだろうからな」
彼は平然とした口調でそう言った。普通に考えれば、父親が亡くなったとき、親族もいなかった少年時代の彼が頼れたのは母親だけだったのではないだろうかと思うのだが、随分とさばけた様子である。
「寂しくなかったの?」
「さみしい?」
彼は鸚鵡返しにそう呟いた。
その声音を聞いている限りでは、「寂しい」という単語の意味を理解しているのかすら疑問である。そもそも、彼の幼い頃まで遡ったとしても、彼が母親を思って寂しがる姿など想像できないのだ。不毛なことを聞いて損した、と私は軽く手を振る。そんな私に、彼はひたと視線を当てた。
「ソフィアは母親がいなくて寂しいのか?」
「そんなこと、ないけど」
強がっているのではないか——そう思われるような声が出て、一人で焦った。今更、母親のことを寂しいとなんて思わない。ベネディクトに何か言われるのではないかと思ったが、彼は他には何も聞いてこなかった。




