リアリズム(1/3)
アルフレド・ベネディクト・ベラスコとはどのような人物か。
彼の元には多くの縁談がある。
まず、彼には財産がある。有り余るほどの金は、一般市民だけでなく、由緒正しい家柄の貴族たちが目の色を変えるほどだ。見た目も申し分ない。たまに夜会に出席すると、実物を見たことのない人々が遠巻きに取り囲み、その美しい姿を拝みながら帰っていく。また、余計な親族や貴族などの後ろ盾がないため、親戚づきあいに気を使う必要もない。それでいて、知名度も人脈もある。王族とも知り合いであり、貴族たちが主催する夜会への招待状もひっきり無しに届く。こんな好物件を放っておけるわけがない、というのが縁談を申し込む家の考えなのだろう。
つい先日も、彼の元に一人の女性が見合いにやってきた。家柄も品格も美しさも申し分のない妙齢のご令嬢に対し、彼が放ったのはただ一言。
『申し訳ないが、女性に興味はない』
すると一週間後に改めて見合いにやってきたのは、彼女の兄だった。
『悪いが、男性にも興味はない』
全くの無表情で彼は言った。こんな馬鹿馬鹿しいやり取りが日常茶飯事であるあたり、高貴な方々の結婚に対する感覚が、一般市民の考える結婚とかけ離れていることがわかるだろう。
ちなみに彼が考える理想の結婚相手は、『空気』らしい。
無になれということか。
***
「悪いが、私は忙しい」
ベネディクトはそう言ったが、どこが忙しいのか皆目見当がつかなかった。実験室で白衣を着込んだ彼は、テーブルに頬杖を付いて、机の真ん中に置かれた複数のビーカーを眺めているだけである。はじめは、温度と時間を書きとめるのが彼の仕事だったようだが、途中からそれすら放棄して他の研究者に任せてしまっていた。
「ですが、今日こそは会っていただくと、会っていただける約束をしたのだと仰っているのです。それに、レーゼル伯爵様を無下に追い帰すわけにも行きません」
青い顔で汗を拭うような仕草をした執事は、私から見ても非常に気の毒だったのだが、それにベネディクトが心を動かされたようには見えなかった。あくびをかみ殺すと、彼はもう一度「私は忙しい」と言う。見かねて、私は口を挟んだ。
「どこがどう忙しいのよ」
「見て分かると思うが、私は今、媒質の違いによる粒子拡散速度の違いについて実験中だ」
「そんなの、見てわかるわけないでしょ。そんなことより、偉い人が来てるんじゃないの?」
「偉い人ではない。隣地方の領主の一人であるレーゼル伯とその娘だ」
それを偉い人と呼ばずに誰を偉い人と呼ぶのだろう。
だいたい、ベネディクトは浴びるほど金を持ってはいるが、立場的には単なる一般市民と変わらないらしい。権力や身分、地位などだけで考えれば、その伯爵なる人物よりも随分と下にあたる人間なのだ。それを分かっていないわけではないだろうが、不服そうな私を見て、彼は首を傾げた。
「生まれつき貴族だったというだけで偉いと言うのなら、生まれつき王族の人間なんてもっと偉いぞ」
「当たり前じゃない。王様が偉くないとでも思ってたの」
「私は生まれたときから私だし、レインは生まれたときからレインだろう。陛下も殿下も生まれたときから王族だったというだけだ。それより、数学で世紀の大発見をしたとか衝突する可能性のある彗星の軌道を計算したとかいう人間の方がよっぽど偉いと思うが」
それはそうかもしれないが、普通は王様だというだけで偉いと思うものだ。
もちろん、一般市民の雇っている一介の執事である男もそう思っているに違いない。彼は伯爵相手でさえ話を断れず、死にそうな顔をして私にエールを送ってきているのだ。
「何でも良いけど、執事さんが困ってるじゃない。断るなら自分で断りなさいよ」
「押しかけられて困っているのは私で、執事ではないと思うのだが」
彼はそういって逆の手で頬杖をつきなおす。だが、彼の百倍は困っているように見える——というか、ベネディクトが困っているようには全く見えない——執事に目を向けると、少しは人の心を思い出したのか、あっさり前言を翻した。
「まあ、良い。ここで良いと言えば呼んでくれ」
「……あの、この実験室にお通しして宜しいのですか?」
「ここといえばここだ」
子供のような台詞を吐いたベネディクトは、執事と研究者たちを部屋から追い出すと、何やらごそごそと部屋の中を整えてから、私の鎖を引っ張った。
「何よ?」
「貴族が娘連れで私を訪ねてくる理由など知れているだろう」
彼はそう言うと、床に座り込んでいた私を隣の椅子に座らせた。
そして彼自身は、何を思ったか使用人に持ってこさせた眼鏡をかける。長めの金髪に指を入れてくしゃくしゃとかきまわすと、鏡を覗き込んだ。前髪を摘みながら首を傾げる彼に、私も首を傾げる。今更、人が来るからといって外見を気にするような彼ではないと思うのだが。
「何をしてるの?」
「私の元にくる女性は、どうやら私の外見を気に入っているらしい。どうすれば顔が悪く見えるのか試しているのだが——どうだ?」
そんなことを真顔で言われても困ってしまう。
白衣を着ようが眼鏡をかけようが少々髪を乱そうが、なんでも似合ってしまうあたりがベネディクトの罪なところである。しわ一つない真っ白な白衣に長身を包み、縁の細い黒の眼鏡をかけた彼は、確かに近寄りがたい雰囲気はあるのだが、何だか妙な色気を同時に出していた。日に当たっていない白い肌と、透明な硝子ごしに見える青い瞳。涼しげな目元が妙にこちらの心を騒がせる。内面からにじみ出る変人さはどうであれ、内面から色気やら知性やらがにじみ出ているのは間違いない。
「こんなこと言うのは不本意だけど、格好良く見えると思うわよ」
「ふむ。私も不本意だな」
彼はそう言って、再度、鏡を覗き込んだ。
真面目な顔で髪を触ったり鼻をつまんだりと色々試行錯誤していたようだが、最終的にはうっすらと色づいた唇に指をやって止まった。
「いっそ口紅でも塗ってみるというのはどうだ? 気味悪がって帰ってもらえるかもしれない」
「いいんじゃない。画期的で」
私の投げやりな言葉に対し、彼は本当に使用人に口紅を持ってくるようにと頼んだ。まさか本気の台詞だったとは思わなかったが、いまさら彼が何をしようと驚くには値しない。ばたばたと出て行った使用人が戻ってくるのを待っていると、複数の足音と共に扉が開かれた。
どうやら、口紅が届くよりも先に、執事に連れられた客人が入ってきてしまったらしい。それを少し残念だと思ってしまったのは、怖いものみたさとでも言うものだろうか。
入ってきたのは四十代の男性が一人と、ソフィアと同じ年くらいの女性が一人だった。ベネディクトは音もなく立ち上がると、そのまま優雅に一礼した。




