アナーキズム(3/4)
「赤くなってる」
エリックはそっと私の首に触れ、眉根にしわを寄せた。
ここは二階の空き部屋だった。ベネディクトの部屋で使用人と話をするわけにはいかないし——近づくなと言われたし、そうでなくともエリックは仕事を抜け出してここにいる——だからと言って私の部屋で二人で話しているのも密談のようで何だか意味深である。結果、ベネディクトが使っていない山ほどある部屋のうちの一つに入り込み、彼と話をするのが最近の日課になっていた。私はベネディクトから呼ばれない限りは暇をしているし、エリックもさほど仕事が忙しいわけではないらしい。今日も、二人で大きなソファに腰掛けて話をしていた。
女の子に首輪を付けるなんてひどいわよねと私が愚痴ると、彼は大きく頷いてくれた。この屋敷にはベネディクトの味方をする人間しかいないから、それだけで嬉しい。
「だいたい、いきなり婚礼の儀? やっぱりべラスコ様は普通の感覚とは違うな」
「ベネディクトにとっては単なる儀式でしかないんだろうけど」
「婚礼の儀は、単なる儀式なんかじゃないよ。自分にとって一番大切な人を、生涯かけて幸せにすると誓うものだ」
彼は明るい茶色の瞳に真剣な光を乗せて言った。
まっすぐ前に向けられた瞳と言葉に、不覚にもどきりとしてしまう。彼のように家族思いで優しくて、真面目な男性にそんなことを言われる女性は、なんて幸せなんだろう。そう、端整な横顔を眺めながら真剣に考える。私にもいつか、そんな風に愛を誓ってくれる人が現れるのだろうか。——少なくとも「たかが結婚」などと言う男と結婚することだけは勘弁してもらいたい。
そんなことを考えていると、急に彼が横を向いた。真正面で目が合って、私はなぜか慌てて目を逸らす。どうしてそんなことをしてしまったのか。自分でも分からないまま、ごまかすように口を開いた。
「大切な人がいるの?」
「うーん」
曖昧な返事。いるけども、言えないのか。それとも片思いなのか。
ちらりと視線を戻すと、彼はまだ私を見ていた。友人とは言え、一応は男女である。加えて言えば、彼は非常に格好の良い男性なのだ。そんなに近くから見つめないで欲しい、と切実に思う。二度目ともなれば視線を逸らすことも出来ない。どこを見れば良いのかと困っていると、私の手の上に、不意に彼の手のひらが重ねられた。
びくりと心臓がはねる。
「ソフィアの鎖さえなければ、すぐにでも連れて行きたいんだけど」
「え?」
彼は鎖の付いている私の右手を持ち上げると、その手の甲にそっと唇を落とした。まるで王子さまや騎士が、お姫様にするような動作である。私は自分の顔が真っ赤になっていくのを感じた。それに、彼が言った言葉。それはもしかしたら、告白と呼ばれるものではないだろうか。
彼は大きな瞳で私の顔を見上げると、そっと私の体を抱きしめてきた。私は動けないまま、耳の後ろで彼が囁く声を聞いた。
「このまま、一緒に逃げようか」
そんなこと。
何を言えば良いのか、どう反応して良いのか分からずに、私はひたすら体を硬くしていた。背中に回された彼の手は思いがけず大きく、彼の体は熱い。魔女の体温が低いというのは本当かもしれない——混乱する頭でそんなことを考えているとき、ドアをノックする音が聞こえた。
それも部屋の外ではなく、中から。
「お取り込み中、本当に申し訳ないとは思うんだが」
いつの間にか開いていたドアを内側からノックしたのは、ベネディクトだった。彼は私たちの姿を見ても全く表情を変えないまま、床を這う私の鎖を拾い上げた。右手が引かれる。そこでようやく、私は弾かれたようにエリックから体を離した。もともと赤かっただろう顔に、さらに熱が上るのを感じる。抱きしめられていたということはもちろん、それを人に見られたということが——しかもそれがよりにもよってベネディクトだったということが——非常に身の縮まる思いがする。
「ソフィアをお借りしても良いかな?」
「べラスコ様、あの」
「エリック・エン・サンチェスト」
さえぎるようにして言ったベネディクトの言葉に、エリックの顔がさっと強張る。ベネディクトの厳しい口調よりも、彼が呼んだ名前に反応したように見えたのは気のせいだろうか。青ざめた彼に対し、ベネディクトは表情を変えなかった。
「何を言うつもりかは知らないが、とりあえず今は胸の中に収めておいてもらおう」
言いながら、ベネディクトはぐるぐると私の鎖を巻いた。手を引かれながらも私が立ち上がれずにいると、ベネディクトは直接、私の手を取る。熱い手に引かれ、無理やりソファから立ち上がらされた。咄嗟に振り返ると、硬い顔をしたまま座っているエリックが見える。ベネディクトは私を連れたまま、ゆっくりと部屋を後にした。
無言で歩き続ける彼に堪えかね、私は恐る恐る声をかける。
「何か用なの……?」
「用と言うほどの用は無いが」
彼は考えるようにしてそういうと、何を考えているか全く分からない顔を私に向けた。
「夕食にパスタを頼むかパンを頼むか決めかねていた。レインはどちらが良い?」
なにそれ。
私は思わず立ち尽くす。そんなことを聞くために、わざわざ私を連れ出したのだろうか。答えを返さずにいる私に対して彼は、もう一度、同じ問いをした。私は苛立つというよりは途方にくれた気分で、息とともに言葉を吐き出した。
「どっちでも良いわ」
「そうか」
彼はそれだけを言うと、用は済んだとでも言いたげに、立ち尽くす私を置いて歩き去った。廊下に一人で残され、私は呆然と彼の後姿を見送る。
——なにそれ。




