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囚われの魔女とベネディクトイズム  作者: 空色ねずみ
本編
22/88

オカルティズム(2/2)


 頬を冷たいものがすべる感触がして、目を開けた。

 ベネディクトの顔が視界いっぱいに広がる。私は飛び上がるほど驚いた。叫び声を上げる代わりに、反射的に手が動き、目の前にあった彼の手を払いのけていた。とっさに声よりも先に手が出るあたりが、彼に乱暴ものだと言われるゆえんだが、反射的の行動なのだ。改善のしようもない。彼が叩かれた腕を痛そうに持ち上げ、眉根を寄せるのが見えた。

 一拍遅れて、からん、と金属音がする。ころころと転がったそれは——。


「口紅?」


 真っ赤な口紅が転がっている。彼の手から落ちたということは、彼が使っていたのだろうか。そう、思わず彼の唇を凝視してしまったが、もちろん彼にそんな趣味は無い。それよりも、私の頬に当たっていた冷たい感触の原因は、もしかして——。

 私が頬に手をやると、べたりと何かが掌にくっつく。見てみると掌に真っ赤な線が入っていた。


「ちょっと、何をやってるのよ!」

「立ったまま寝られるとは器用だな。さすが魔女だと思って感心していた」

「そうじゃなくて、これよ」


 手に付いた赤い口紅を顔に押し付けようとすると、彼はさらりとそれをかわした。代わりに手鏡を持ってくると、今度はそれを私に押し付ける。促されるがままに鏡を覗き込んだ私は、そこに映った自分に思わずぎょっとした。唇にべったりと塗られた赤い口紅は、口の端を過ぎても弧を描き、耳の下にまで続いていた。異常なまでに赤く大きく描かれた口。控えめに言ってもひどい顔である。

 怒りなのか衝撃なのか。自分でも分からないままに手鏡を震わせている私に、彼は何食わぬ顔で話しかけてきた。


「知っているか。異国の地では、口裂け女という妖怪が流行っているらしい」

「それが?」

「耳まで口が裂けた女というのはどんなものかと思ってな」

「人の顔で試してみたってわけ?」


 怒りを隠さずに言った私を、彼は軽く肩をすくめてかわした。


「自分の顔で試したら、口裂け男にしかならないだろう」


 それはそうだろうが、問題が違うのではないだろうか。私は怒り半分、それからどっと疲れた気分が半分とで、彼が持ってきたハンカチを受け取った。言い返したいのは山々だが、ここで言い返したところでまともな会話になるはずもない。

 自分も少しは大人になったと思いながら、黙ってごしごしと顔を拭った。そんな私を見て、彼は首を傾げる。


「眠そうだな」

「眠れなかったのよ」


 あの足音が気になって眠れずにいるうちに、結局、朝になってしまったのだ。

 夜はあんなに荒れた天気をしていたのに、朝日が昇るころには嘘のようにからりと晴れあがった。シーツから這い出た私を迎えたのは、窓から差し込むさんさんとした陽光だった。徹夜明けで見る金色の太陽は、やたらとこちらを疲れさせる。窓から見える無駄に青い空に毒づき、口紅を落とす私を能天気に見ているベネディクトに内心で毒づいてから、私はずるりと床に座り込んだ。どうせ眠るなら立っているよりも座っていた方が楽だ。——とは言え、彼の前で眠るとろくなことにならないことは今、思い知ったが。

 私を見下ろしていたベネディクトは、何を思ったか深く頷いた。


「奇遇だな。私も昨日は眠れなかった」

「どうして?」

「父がうるさくてな。いつものことだが、あまり無駄遣いをするなと説教された」


 あまりに真顔で言うので一瞬、違和感を覚えなかった。

 そう、と寝ぼけて頷きかけてから——私はようやく正気に戻る。ベネディクトの父は十年も前に死んでいるはずではなかっただろうか。私は怪訝な顔でベネディクトを見上げた。


「父親?」

「ああ。あれは非常にケチな男でな。稼いだ金を五重の金庫に入れて、毎晩それを数えるのが唯一の趣味のような男だった。生前は祖父の道楽をいつも説教していたが、まさか死んでからも説教されるとは思わなかった」

「はあ」


 と言うしかない。

 そんな夢を見たと言う話だろうか。だが、続く彼の言葉は私の想像を超えていた。


「嵐の夜は、どういうわけだか騒がしくなるな。昨日は珍しく、祖父も徘徊していたようだ」

「は?」

「気づかなかったか? 夜中に散々書斎を往復して、私の本を大量に階段にぶちまけてくれた。彼は科学嫌いでな。綺麗に学術論文だけ選んで書斎から持ち出すんだ」


 気づかなかったか、なんてそんなに軽く聞かないで欲しい。

 私は複雑な気分で彼の顔を見上げた。書斎と階段を往復といえば、昨日の足音と綺麗に合致する。ならば、私の部屋の前を往復していた足音は、彼の祖父のものだったのだろうか? そう考えると、ぞっとするような、何とも拍子抜けするような——何せやっていることは、子供の悪戯の域を出ないのである——何とも言いがたい気分になった。

 一応、確認する意味で聞いてみる。


「二人とも、もう亡くなってるんでしょう?」

「ああ。二人とも私が最期を看取って土に埋めた。生きてるとは思えないな」

「でもまだ屋敷にいるの?」

「そうだな。二人の生前の行いを見ていれば、地獄に落ちることは間違いない。が、ただで地獄に行くような人間じゃないからな。飽きるまではここで遊んでいるつもりなのだろう」

 

 散々な言いようである。仮にも自分の親に対して、そんな言い方は無いのではないだろうか? ——そうは思ったが、相手はベネディクトだ。言っても詮無いことであるし、そもそもの相手が彼の親である。ベネディクトを育てた父親や祖父がまともな人間だったら寧ろおかしい。


「仲が悪かったの?」

「いいや、別に。周りからは嫌われていみたいだが」

「そうなの?」

「なにせ父は、私の物心が付いてからだけでも三度ほど刺されているし、祖父は晩年、毒殺を恐れて餓死したような人物だからな。私も幼少の頃は何度も誘拐されそうになった」


 それはすでに嫌われていると言うレベルでは無いのではないだろうか。

 悪徳な事業家だの高利貸しだの地主だのと聞いていたが、予想以上に悪どい商売をやっていたらしい。そうでなければこんな財産は築けないのかもしれないが、因果なものである。これほどの金を持っていながら餓死をするというのは、どんな気持ちだったのだろう。

 そんな話を聞くと、働かずに遊んでいるベネディクトの方がよっぽど普通に見えてしまうのから難儀である。

 私が何らかの言葉を返す前に、ベネディクトは少しだけ笑った。


「それにしても、父や祖父の元気そうな姿を見ていると、死ぬのもまんざらでもないな」

「本気で言ってるの?」

「いいや。父親や祖父とまた一緒に暮らすことを考えると、今からげんなりする。まあ、私が死んだ後も、最新の論文を取り寄せてくれるようにと言ってあるから、退屈だけはしなくて済むな」


 彼はそう、やはり平然とした口調で言った。

 元より他人とのつながりを持たず、可能な限り屋敷にこもっている彼にとっては、死んでいてもさほど変わりはないのかもしれない。要は、論文さえ読めれば良いわけである。私は、そんな彼に眉をしかめた。


「でも、誰にも会えなくなるのよ? 話すことも出来なくなるし」


 彼を慕っている使用人たちとも会えなくなる。もちろん、私とも二度と会えなくなる。それを寂しいと、少しくらいは思ってくれないのだろうか。私がそんな期待を込めて聞くと、彼は真顔で呟いた。


「それもそうだな。学問について話し合える相手がいなくなるのは困る」

「いや、そういう問題じゃなくて」

「一人でも実験や検証が出来るように、最新の実験器具も取り寄せてもらうか。それから有能な研究者を……いや、この屋敷で定期的に学会を開いてもらうように手配しておくのが最善だな」


 ——どうしても思考がそっちに行くわけか。

 あくまで真剣に言う男に対し、私は言い返す気力も尽きて、ため息だけを返す。

 彼ならば本当に、死んでもそれを実現してしまうのかもしれない。

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