ロマンチシズム(2/2)
どうやら彼は肋骨を骨折していたらしい。
元より屋敷を出たがらなかった彼は、怪我を理由にさらに屋敷から出なくなり、それどころかベッドから降りることすら稀になった。一日中、ベッドの背に寄りかかったまま過ごしている。骨折した胸が痛むというのが一番なのだろうが、そもそも動かなくて良いのなら動きたくない人間なのだろう。もっぱら研究者を呼びつけて話をしたり、書斎から論文を持ってこさせて読書をしたりして過ごしている彼は、いつも以上に快適であるように見えた。
逆に、ほとんど毎日、彼の部屋に繋がれて過ごさざるをえなくなった私の方は良い迷惑である。暇だと訴えたところで読めもしない論文を手渡されるだけだし、たまには外に出たいと訴えても「誰のせいで動けないと思っている」と言われれば、ぐうの音も出ない。
彼が動いたのは、部屋に閉じこもって一週間ほどが経った夜である。
彼はベッドの上で食事を終えた後、私の鎖を引いて部屋の外に出た。短い鎖の端を自分の手首にぐるぐると巻きつけ、彼は何を思ったか、そのまま外へと向かう。玄関の外は、月明かりも無い夜の世界だった。広い庭にある木々は黒く塗りつぶされ、ざわざわと揺れる草木が闇の中をうごめく。バタンとドアが閉められると、自身も夜の闇に溶けるようだった。
「ねぇ、こんな時間に何をする気?」
「たまには外に出たいと言っていただろう」
確かに言ったが、こんな闇夜に外に出たいとは言っていない。
彼は私の鎖を引いて歩き出そうとしたが、私は咄嗟に足が出なかった。ろくに視界も利かないのだ。昼に見る外はとても綺麗だったが、真っ黒に塗りつぶされた静かな庭は不安な感情がかきたてられるだけだ。足元も見えないし、何が出てくるか分からない。とてもそこを歩きたいとは思えない。
彼は動かない私を振り返ると、今度は鎖ではなく私の手をつかんだ。
唐突に手のひらを握られ、私の心臓はどきりと跳ね上がる。彼が歩き出すと、今度は抗えなかった。黙って歩いていく彼の暗い背中だけをみながら、仕方なく後をついていく。仕方なく——だが、ただ手を繋いでいるというだけで、こんなにどきどきするのはなぜだろう。ざわと黒い枝葉を揺らしていた風が、澄んだ透明の風となって頬を撫でる。
彼は夜目が利くのか、それとも歩きなれている庭だからか、しっかりとした足取りで進んでいった。屋敷から離れれば当然暗くなっていくだけだと思っていたが、予想に反して彼と庭は徐々に輪郭を取り戻していく。天を仰ぐと満天の星。星の灯りに照らされているのだろうか。
「どこまで行くの」
「すぐそこだ」
庭を出てしまうのではないかと思うほど歩いた気がしたが、立ち止まったのは庭の中央だった。庭には花壇や手入れされた草木がたくさんあるが、そこだけは芝生が広がっているだけの広場になっているのだ。屋敷の中から見慣れた景色だったが、ひとつだけ見慣れないものがある。庭の真ん中に、大きなソファが置いてあった。
ベネディクトは鎖で繋がれたままの私の手を離すと、無造作にソファに腰掛けた。
熱くなっていた手のひらを、心地よい温度の風が撫でる。彼は、私にも座るようにと促してきた。彼の真横に腰をかけることに少しためらったが、端の方に慎重に腰を下ろした。ソファにはなめらかな生地の布がかけられており、手触りがとても気持ち良かった。ここが庭だとは思えないほどである。何せ、ベンチではなく、普通の革製のソファなのだ。雨が降りでもしたら、すぐに使い物にならなくなるだろう。
私はソファの背に体を預けた。
意外に傾斜がついており、横になるとまではいかないが、座ったまま空が仰げるようになっている。まるで落ちてきそうなほどに多くの星が、視界いっぱいに広がった。綺麗、と思わず呟く。そのとき、視界の端で光が滑った。私は瞬きをしてから、声を上げる。
「なに、今の」
「流れ星だろう」
「流れ星? え、うそ、本当に?」
「見てなかったのか?」
「ベネディクトは見たの? うそ、ずるい」
急なことで、ちゃんと見てなかった。
私が上げた声に、ベネディクトがくつくつと笑うのが聞こえてくる。子供っぽいと思われたのかもしれないが、これまで流れ星というものを見たことが無かったのだ。以前、流れ星を見たことがあるという知り合いに、それは心を奪われるような美しさだった語られたことがある。以来、ずっと見たいと思っていたが、そんなチャンスには恵まれなかったのだ。この空に浮かんでいる星たちが落ちてくるというのは俄かに信じられないことである。が、空に大きな軌跡を描いて流れる星。考えるだけで、興奮するではないか。
見逃したことを悔しがっている私に、ベネディクトは軽く言った。
「流れ星くらい、いくらでも見られる」
「そんなわけ——」
「今夜が流星群のピークだからな。私が計算した数値だから、まず間違いは無いだろう」
「りゅうせいぐん?」
そう問い返した時、今度は目の前で大きく星が滑った。
時間がとまり、まぶたに光の軌跡がやきつく。
「流れ星がたくさん見える日だ」
そんな素敵な日があるの。
私の言葉は声にならず、呆然と空を見上げていた。
落ちてくる大量の光。いたるところで星が流れては消え、そのたびに私の胸に焦げ付くような軌跡を残していった。
私は一晩中、星たちが魅せる儚く美しい光に心を奪われ。
——それと同時に、隣にいる男に心の一部を持っていかれたと思うのは、生まれて初めて流れ星を見た感動から来る錯覚だろうか。




