005.甘く苦しい思いをいだいて私は心を殺す
エンちゃんは目の前のことが信じられなかった。しかし、新人ちゃんはすごい。
4U、たぶん、百キログラムを超えるようなサーバーを余裕で持っている。それだけでもすごいのに、それを持って宙に浮いている。どういう理論で天使が飛べるのか知らないが、サーバーリフターよりも安定感がある。
「じゃ、これで最後ですね」
結局、十六台のすべてを新人ちゃんが運んでラッキングまで終えてしまった。その間に休憩もせず息も切らせていない。単なる怪力だけではない天使の底力を見た気がした。
「あ、あの!」
エンちゃんは何か声をかけようとして、なんて声を掛けたらいいのかわからなかった。
「はい。まだお手伝いできることはありますか?」
にっこりと笑った新人ちゃんの笑顔がエンちゃんの心を抉る。本当にかわいくて純粋でエンちゃんのような悪魔とお付き合いなどしてはならないのではないかと思う。しかし、エンちゃんは新人ちゃんと仲良くなりたかった。
「ケーブリング作業とかもしてくれるんですか?」
「はい。もちろんです。接続ポート表をお作りいただければお手伝いさせていただきます」
十六台のサーバーとスイッチ、さらにはファイアウォール機能やルータ機能を統合したネットワークアプライアンス機器、ストレージ装置をケーブルで接続しなければならない。これらをすべて接続してやっとひとつの仮想基盤として稼働するのだ。
もちろん複雑な構成にするには理由があり、必要があってのことだった。
「じゃ、明日までに作ってきます! また新人ちゃんが担当してもらってもいいですか?」
「えーと、ご指名制ではないのですが、予定が開いていましたら、あたしが担当させていただきます」
ちょっと困ったような顔で新人ちゃんは答えた。
「よろしくお願いします!」
実際、ローカルエンジニアのスキルはピンキリで基本的な業務に関してはマニュアルがあってそこまで差がないものの、作業時間が短かったり、ケーブルの取り回しが上手だったり、表現できない差があるものだ。
「はい。こちらこそ」
営業さんは難しい顔をしていた。サッキュバスなのだが、色恋に関してはいまいち経験値が少ない。その上、あまり接点のない『天使』との恋愛のことらしい。
「そ、それで、その人、天使なんですけど、何を贈ったら喜ばれるのかわからなくて……」
頬を赤らめて言うのはエンジニアのエンちゃんだった。
「うーん、さすがに俺もわかんないかなー」
「そ、そうですよね」
あからさまにがっかりした顔をするので、営業さんも何か力になってあげたいなと、普段はプライベートのことで働かせない頭をフル回転させる。
「あ、ひとりいた!」
「え?」
「天使と一緒に働いている同郷の悪魔がいるから、そいつに聞いてみたら? 天使がもらってうれしいプレゼントがわかるかも?」
「お、お願いします! その人を紹介してください!」
営業さんと同郷ということは、その悪魔もサッキュバスなのだが、エンちゃんは、この前に営業さんに言いくるめられて、ひどい目にあったことをもう忘れていた。大人の階段を上ることもできず、ただただ労働力だけ搾り取られた新しい仮想基盤の設置の件である。
「仕方ないなー、かわいいエンちゃんの頼みだ」
営業さんも流石に良心が咎めているのか、エンちゃんに喜んでもらえることをしたいらしい。その場でスマホを取り出し、知り合いに電話し始める。
「あ、先輩さん? 俺俺」
電話をしながら休憩室を出ていく。話の内容をエンちゃんに聞かせたくないらしい。
エンちゃんは少し不安になりながら休憩室で待つ。買ったはいいが、話をすることに夢中で開けてもいない缶コーヒーを見る。緊張で喉が渇いた気もするので、蓋を開けて一気にあおった。ブラックコーヒーの苦味が口に広がる。
「あ、いいって。今日の夜に一緒に食事ね」
「ありがとうございます!」
「ふふふ。わかっているね?」
「奢らせていただきます」
「期待しているよ、エンちゃん」
そう言いながら営業さんはエンちゃんにウインクした。
エンちゃんが選んだのは普通のファミリーレストランだった。
ボックス席に営業さんと先輩さんが並んで座り、エンちゃんは向かいに座っている。営業さんはとてもがっかりして、メニューの中で一番値段が高いものを探していた。
営業さんが紹介してくれないので、仕方なしにエンちゃんは自分から慣れない自己紹介をする。
「は、はじめまして。エンちゃんと言います。スモールダンジョンでエンジニアをしています」
「えっと、ヴァルハラDCでローカルエンジニアをしている先輩さんです」
先輩さんは顔が火照るのを感じていた。サッキュバスとしての本能というのだろうか、普段は眠っている自分の中のエロい部分にダイレクトにアタックされた気分だった。
「……めっちゃ好み」
「え?」
「な、なんでもないです」
エンちゃんは背の低い悪魔だった。ただそれだけでは先輩さんの好みとは言えない。エンちゃんの奥底にある何かが先輩さんへ訴えかけてくるのだ。
「あの、エンちゃんはどんな悪魔なんですか? あ、私は営業さんと同じサッキュバスなんですけど」
「あー、お恥ずかしい話ですけど、いわゆる計算上の悪魔でして……」
「めっちゃ好み!」
「え?」
「あ、空耳です」
計算上の悪魔とは、ラノベでお馴染みの『ラプラスの魔』のことである。『世の中のすべての初期値と加速度がわかれば、すべての事象は計算で求めることができる』という命題に対してエントロピーの増大により、その命題は否定される。もしその命題が可能ならば、計算対象の世界とは完全に切り離された『悪魔』でしかなしえない。それが『ラプラスの魔』だった。
とても若い悪魔で『新神類』とも呼ばれている。一説には人間に生み出されたことから『ゆとり世代』とも。
ただ、それも今は昔。
時代に合った悪魔であり、社会に出て活躍する悪魔も多いことから、一種のエリートとして認識され始めている。
「あの、飲み物はどうされますか?」
「ミルクで」
「あ、俺も」
「わかりました。取りに行ってきますね」
サッキュバスは『ミルク』が大好物だ。それ以外にも好物はあるのだが、公衆の面前では取り出すことも飲むことも憚られる。
「ちょっと」
営業さんはふわふわしている先輩さんの方をゆすった。
「え、なに? あの子、めっちゃ好みなんですけど……」
「エンちゃんは天使の子が好きなんだからね? 忘れてないでしょうね?」
「あ……」
先輩さんは忘れていた。今日は天使が何をプレゼントされたら喜ぶか相談を受ける話だった。
「エンちゃんの機嫌がうちの会社の売り上げに響くんだからね? ちゃんとしてよね」
「う、うん」
先輩さんは返事をしたものの、気持ちがうまく切り替えられてはいない。大きな胸をつぶすようにぎゅっと腕を引き寄せる。
「持ってきました。どうぞ」
エンちゃんからミルクを受け取る。
「駄目だ。こりゃ……」
「えっと、手を放しても大丈夫ですか?」
先輩さんは無意識で差し出されたミルクをエンちゃんの手を包むように握っていた。エンちゃんがどうしたらいいか困っていても、ぼーっとエンちゃんを見ているだけだ。
「営業さん、これはどうしたら……」
「あー、正気に戻るまで待ってやって」
営業さんはエンちゃんの反対側の手から別のミルクを受け取ると、タブレット端末を操作して一番高いヴァルハラ猪のポンドステーキを注文した。
「エンちゃんは何食べる?」
「あ、あの、その前にこれは……」
「大丈夫。お肉が来る頃には正気に戻るから」
「そうは言っても……」
エンちゃんには先輩さんがなぜ自分の手を握ってぼーっとしているのか、さっぱりわからない。悪魔なんだから相手の好意ぐらいは分かってもよさそうなものだが、エンちゃんもまた恋の盲目の中にいるので、わからないのであった。
先輩さんは翌営業日のお昼休み、新人ちゃんと食事をしていた。目の前にはヴァルハラ猪の串焼きが並んでいる。
「でね、知り合いの悪魔の子が新人ちゃんとお話してみたいって言ってて」
あの後、エンちゃんが好きな天使が新人ちゃんのことだとわかってしまった。気の短い営業さんの提案でふたりを引き合わせて話をすることになったのだ。先輩さんはなんとかして抵抗できないか試みたがエンちゃんが乗り気になってしまい、とてもうれしそうな顔をするので、毒気を抜かれて引き受けることになってしまったのだ。
ただ、今も胸の奥が痛む。なぜ好きな人を他の女の子?に紹介しなければならないのか。
「あ、気持ち悪いよね。悪魔が天使と話したいだなんて……」
普段なら絶対に言わないような台詞が口をついて出てくる。
「いえいえ、大丈夫ですよ。あたしも悪魔さんには興味ありますし」
新人ちゃんはマジ天使だった。相手の悪魔がどんなやつかもわからないのに、先輩さんの頼みだからと二つ返事で引き受けるのだ。先輩さんとしては断ってほしかったが、そうならなかった。
胸をぎゅっと腕でつぶして奥の痛みをごまかしながら、「じゃあ、セッティングするね」と新人ちゃんに返答する。
「はい」
新人ちゃんはいつもと変わらない笑顔でこたえるのだった。
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