漂う
海に着くころには、テセウスの体力はもうほぼ残っていなかった。アキレウスが急かしたのが主な理由である。テセウスは息を切らして、海を見やった。空も、海も、真っ青だ。だがそれでいて境目がはっきりとしている。海に見とれるテセウスの目の端に、アキレウスが浜辺で貝殻を探す姿が映った。
テセウスは水筒の水をいくらか飲むと、車の先頭にあるボタン――ちなみに昔の車はそのボタンがある場所には『ナンバープレート』があった――に触れた。車はほのかな光に包まれ、フラッシュをたいて消えた。ボタンを押した方のテセウスの手には、ボタンだけが残っていた。
アキレウスの方をちらりと見ると、アキレウスは貝殻のことなど忘れたかのように海ではしゃいでいる。初心忘るべからず、ではないが、元々の理由を忘れているかもしれない。だがそんなことは、気にする気にもなれなかった。別に、楽しいのならそれでいいのではないか。テセウスはアキレウスの方へ小走りで向かった。アキレウスはテセウスの姿を見るなり訊いた。
「兄貴! 何してたんだ?」
テセウスは軽く呆れた表情を浮かべ、答える。
「車を畳んで、少し休憩してたんだよ」
車を畳むのも休憩も当たり前のことだと思っていたテセウスからすれば、それは呆れるに相当することだった。だがアキレウスはまだそのようなことも学んでいない年齢なのかもしれない。テセウスの頃とアキレウスの頃は、〝掟〟なども違う。
アキレウスは海を眺めながら、一言。
「海って凄いんだなー」
「これを次の大陸が見付かるまで魔法で飛ぶってのも本当に大変なことだからな。俺の魔力じゃもたない」
「まあ兄貴の魔力は大したことないけどね」
「なら俺に運転をさせるな」
二人で海を眺めながら、会話する。テセウスは和んでいたが、そのときふと夢のことが頭に浮かんだ。
(ここまであんまり何もないってことは、夢でしかなかったんだな)
テセウスは軽い失望感と安心を懐いたが、当たり前のことだろうと自分を納得させる。
「なあ兄貴、泳がない? 僕泳ぐ練習してたんだ!」
アキレウスはネックレスを軽く引っ張る。すると、服が水着のようなものに変わった。この程度の魔法なら使えるということか。テセウスは頭の中で頷く。
「俺水着持ってないんだよな……というか持ってきてない」
アキレウスが今やった魔法は、魔力の層でスキャンした服を登録して、遠方から服を召喚する術だ。テセウスは水着など登録していない。魔力がまだたくさんあれば、魔法で創り出すこともできたのかもしれないが、先程限界近くまで魔力を使ってしまったテセウスにはどうすることもできない。
「じゃあ仕方ないか……」
アキレウスはがっかりした様子で波に向かって走る。途中で走ることは出来なくなったが、アキレウスは泳ぎ始めていた。テセウスはそれを眺めていたが、ふと浅瀬の砂に一つの貝殻を見つけた。
――空色の、美しい貝殻だ。テセウスはそれに手を伸ばすが、テセウスは運が悪かった。
拾おうとしゃがんだ瞬間、大きな波がテセウスを襲った。普通だったら戻るのも簡単なのだが、運悪く足を砂に掬われ、今度は波に引きずられた。着衣水泳の訓練をしたことがあるテセウスは、そこから戻ることが出来るはずだった。だが、海で泳いでいたアキレウスもその波に流されていたため、テセウスはアキレウスを助けるために、沖の方へ泳いで行った。アキレウスは手足をばたつかせ、やっとのことで泳いでいる様子だった。プールでしか泳いだことがないのだろう。海の波の中では、泳いでいない。テセウスはそちらへ泳ぐが、海水を吸った服は重く、長い時間、それも人一人を抱えて泳ぐのはかなりの苦行だった。テセウスはアキレウスの方へ行き、抱えて浜辺の方へ行こうとするが、向いた方向には浜辺などなかった。ただただ、青い海が広がっていた。
(可笑しい)
このような状況でもテセウスは冷静だった。だが本来冷静ではいけない状況かもしれない。
「兄貴? ここって……」
「分からないが、海のど真ん中だ」
(これは絶対に可笑しい)
何せ、喋れるほどに海は静かだったのだから。波一つない。また、こんなに一瞬で海のど真ん中に引きずり込まれるのも奇妙でしかない。そして、テセウスの体を引っ張っていた重い服も何故か軽く、楽に泳げる。アキレウスはその異変に気付いていないようだったが、アキレウスの状況を考えるとそれも普通だった。アキレウスは水着を着ているから服は重くないだろうし、そもそもの話それを気にするほど冷静でいられなかった。海のど真ん中にいると知ったとたん、目つきが変わった。『不安』という言葉だけでは言い表せないような、負の感情を宿した目になった。
とりあえずアキレウスは陸があるであろう方向へ泳いでいく。だが一向として陸は現れなかった。やがて、テセウスの体力も限界を通り越し、動くことが難しくなってきた。いつの間にか意識は途絶え、海と夢を漂っていた。