海へ
「おーいテス兄貴!」
自室に戻る途中のテセウスの耳に、そのような声が入った。テスというのは、テセウスのニックネームだ。テセウスは声の主を想像して、軽く眩暈がした。その声は、まだ幼い少年の声で、その主はテセウスを毎度困らせている人物だったからだ。テセウスの頭には一瞬『無視する』という選択肢が浮かんだが、それは彼に対してはあまりにも酷であると気付いた。
「アキレウス、どうした」
テセウスは込み上げる苛立ちを抑えながら、幼い少年――もといアキレウスに目を向けた。アキレウスは何故か照れたような様子で、しかもキラキラとした目でテセウスを見つめた。
「いやー、兄貴を見つけたからさ。それとさ、今本で見た貝殻が欲しいんだけど……兄貴なら海まで連れてってくれるかなって思ったんだ」
「そのなあ。俺がいつもお前に付き合ってやってるからって、いつでもいいってわけじゃないんだよ」
テセウスが呆れたように言うと、アキレウスは本を――絵本をバッグから取り出して、テセウスに見せた。テセウスはその――パステルカラーの虹色の貝殻の――絵を見て、それは神話上でしか存在しない貝殻であることに気付いた。だが、アキレウスはそれがあると信じきっていて、テセウスに海に連れて行ってもらうことを望んでいる。テセウスは迷った。
(探しに行っても無駄だ)
だが、それを言うのも可哀想だ。
(だからと言って、探しに行って見付からなかったらそれも可哀想だ)
テセウスは頭の中で色々と考えるが、特に良い案は思いつかなかった。だが、一つだけ、アキレウスにとってもテセウスにとっても良さそうな方法に気付いた。
「あのな、アキレウス。この絵本の貝殻は、本当にあるわけじゃないんだ。でも、これと同じくらい綺麗な貝殻ならある。それを探しに行こう」
「そっか……」
アキレウスは悲しげに言う。だが、少し考えた後、ニッコリとテセウスを見た。
「でも、連れてってくれるんだね?」
「あ、まあな」
テセウスは頷きながら、いつもと同じパターンになっていることに気付く。いつもアキレウスを傷つけないように気を付けて、最終的にテセウスはアキレウスの望みを叶える。別の言い方をすれば、テセウスはアキレウスに振り回される。とはいえ望みを叶えてもらったときのアキレウスの笑顔は可愛い。
「ありがと! 兄貴がこの時間にここにいるってことは、今日はお休みなんだよね。今から行こうよ!」
「今かよ?」
少し大きな声でテセウスは言う。非番ではあるが、すぐに出られるわけではない。それに、今すぐ行く前提で考えていたわけではない。だが、テセウスの頭にはまだ夢の中の声が残っていた。海で聞こえた声だ。これほどまでに記憶に残る夢――明らかに普通の夢ではない。
「少し準備したら行こうか」
「やったあ! 僕も準備してくる! 十分後にここでまた!」
アキレウスは騒々しく走って去った。テセウスも急ぎ目にその場を去り、準備をすることにした。十分の間にやることはいっぱいある。全てを終わらせて、早く行こう。
*
「おう、兄貴! 僕も準備できたから、行こうぜ!」
「はいはい、ちょっと待て」
テセウスの姿が見えるなり飛びついてきたアキレウスに、テセウスは呆れ顔で応じる。歴史書によれば、遠い昔は移動の時に『ガソリン』で動く『車』という『機械』を使っていたそうだ。今では『魔力』で動く『車』という『道具』だ。ちなみに昔の車と見た目は大差ない。違うのは魔力で動くということと、『ハンドル』が『魔力の水盤』という桶のようなものだということだ。だが、テセウスの魔力は別段強くはない。早いスピードが出ない上、あまり長い時間稼働させることはできないのだ。
だから、魔力がある程度強い〝元〟友人リュコメデスに頼もうと思ったのだが、アキレウスは諸事情ありリュコメデスが苦手だった。リュコメデスはアキレウスのことが好きなのだが。
「なあ、俺だとあまり長く車を動かせないんだ」
「でもリュコ兄さんは嫌なんだよ……」
「じゃあ歩いていくのか?」
「嫌だよ!」
このような調子で、二人はずっと揉めていた。これでは話が進まない。テセウスは一つ溜息を吐くと、アキレウスに向き直って言った。
「……分かった、分かった。俺が動かすから。でも、途中で休憩するからな」
その言葉にアキレウスは、満面の笑みを湛えて『うん!』と頷いたのだった。
(だから俺は振り回される)
これこそいつも通りのことだった。
*
魔力とは、この世界に生きる者全ての体にある『大いなる力』だ。体で作り出すこともできるが、相当な体力を必要とする。テセウスは魔力を作り出しても、あまり多くの魔力を体に湛えることが出来ないため、自然回復を待つしかなかった。リュコメデスはテセウスの倍以上の魔力を持つ男だが、アキレウスはリュコメデスを嫌っているから、無理強いすることもできなかった。テセウスは車に魔力を注ぎ込みながら、色々と考え事をしていた。
(海……に行けば、夢が何だったか分かるのか?)
夢が本当に意味のあるものだったかも分からないのだが、海に行けばそれが分かるのかもしれない。テセウスが自分の思考に集中していると、後ろから声がかけられた。
「兄貴? どうしたの?」
アキレウスは怪訝そうにテセウスを見つめている(魔力で動く車は自動運転のため、振り向いても危険がない)。テセウスは嘘を吐く理由もあるまいと感じたため、そのまま――というには少しはぐらかしているが――答える。
「いや、ああ。考え事だよ」
「そっかー。兄貴らしいね」
兄貴らしい、その言葉に漫画で言う『黒いもじゃもじゃ』を頭に浮かべたテセウスだったが、特に何も言わず前を向いた。
テセウスは少し車を停め、休憩した。アキレウスは嫌そうだったが、魔力を注ぎ込むのは想像以上に疲れるのだ。魔力を作るのは、絶えず体に力を入れて、筋肉を使っているような感覚だ。注ぎ込むと、何かが体から抜けていく感覚がある。多分魔力が抜けているのだろうが、それと同時に体力も抜けていくような感覚もある。
アキレウスはまだ七才だ。魔力を作り出すのは体に負担がかかりすぎる。アキレウスの方が魔力の量が多い可能性もあるが、頼むことはできない。
「もういいだろー、兄貴!」
「ああ、そろそろ行くか」
テセウスは水筒の水を一気に喉に流し込むと、『魔力の水盤』に触れた。何かが抜けていく感覚と共に、車が動き出した。