蒼い夢と頬の傷
イラスト・茜葉梨様 http://14687.mitemin.net/
必須要素など 特になし
青い、蒼い、世界。
俺はキョロキョロと周りを見回す。頭上にはゆらゆらと揺れる光。俺の周りには沢山のカラフルな魚が浮遊している。いや、違う。魚は泳いでいる。それを見て、はたと気が付いた。そうか、ここは海の中なんだ。なのに、何故息ができるのだろう? 何故俺の服は濡れていないのだろう? 何故俺の頬の傷は塩水を受けても痛まないのだろう? いくつかの疑問を頭に思い浮かべるが、その思考は僅か数秒で停止された。何かの声が聞こえる。
「テセウス――」
俺を呼ぶ声だ。女性の美しい声。透き通るような、優しい声。そして、どこか懐かしい。ただ、どこから聞こえているかが分からない。右から聞こえてくるような気もするし、左から聞こえてきているのかもしれない。上からか、下からか。どこからでも聞こえてくるような気がするのだ。俺は周りを見る。誰もいない。だが、声は止まらず聞こえていた。
「テセウス――こっちだよ」
「大丈夫、怖がらないで」
「テセウス――」
*
目を開く。周りは青くない。白い。白い天井、白い壁、白い棚。少年の――テセウスの部屋だ。変な夢を見た。いや、変だから夢なのだろうか。テセウスは先程の夢を思い返してみた。声の細かいところまでよく覚えている。夢の中での声なんて、普段は全然覚えていないのに、今は何故か覚えている。とはいえ、夢は夢。美しい夢だったが、それ以上気にすることは無い
時計の針は八時を指している。いつもより遅い時間だが、何のことはない。非番の朝――もとい、休日。別に六時に起きようが十二時に起きようが、どうだっていいのだ。欲を言えば、もう少し眠って、あの夢に浸かっていたかった。先程気にすることはないと考えたはずなのに、まだ考えている自分にテセウスは半ば驚きのようなものを感じる。
あの海はどこの海だろうか。存在する場所だろうか。
(まあ……夢でしかないんだけどな)
どれだけ美しかろうと、結局のところ夢は夢。同じ場所に行ったって、声が聞こえるとは思えないし、そもそも海の中で息ができるわけがない。
テセウスは自室の扉を抜け、食堂で軽い食事をとった。兵士とはいえ、今は戦いに出ることなど滅多にない。そのせいか、緩んだ空気が辺りに漂っている。この平和がずっと続けばいいのだが、そうは行かないのが現実である。テセウスの母は〝事件〟で突然殺されたし、兵士だった父は戦いで右腕と両足を失くし、退任した。テセウスは、とある人物に崖から突き落とされ、頬に深い傷を負った――最後は関係ないかもしれない。だがどちらにせよどれも前触れもなく起こった戦いだ。今の平和な状態は、『海の女神』が我が国アトランティスを守っているからだと謳う者もいる。とはいえそれは古くから伝わるただの神話だ。信じる者などほとんどいない。
(……にしても、だ)
海のなかで聞こえた美しい女性の声。今さら気付いたが、海の女神の声だったのではないだろうか。だがテセウスはそんな神話信じてなどいないし、特によく考えるというわけでもない。そもそも、海の女神は実体を持たない海そのものというのが神話の一般的な解釈だ。それなのに声が聞こえる――海そのものが喋っていた可能性っもないではないが――海の女神は実体があるのだろうか? そもそもあの声は海の女神なのだろうか?
(まあ……美しい女性の姿をしているって解釈もあるんだが)
解釈は解釈、神話は神話。正しいものがどれかなんて、分からないのだ。
だが夢は気になる。少し神話の方を覗いてみてもいいかもしれない。テセウスは、食事を終え図書館へ向かった。
*
テセウスは、図書館で『宗教』『歴史』の棚をぶらついていた。神話の本は数多くあるが、どれも昔の言葉で分かりづらく書いてあるため、どれを読んだらいいか分からなかったのだ。この国は海の女神によって護られているため、それについての本は特に多い。テセウスは出来る限り分かりやすい本を探そうとしたが、途中でどうでもよくなってきたため、適当に新しそうな本を抜き出して読み始めた。
海の女神――それは、海に囲まれた島国アトランティスを救った女神である。アトランティスは一度、最高神を信じないことで神の怒りを買って最高神に滅ぼされた。海底に沈められたのだ。だが、海の女神はそれを酷く悲しんだ。アトランティスの人々は海の女神を信仰し、讃えている唯一の国だったのだ。神は信じる者がいなくなったとき死ぬ。信仰心がある限り、生き続ける。海の女神は最高神に言った。
「アトランティスは私の国です。私はあの国のみで信じられておりました」
最高神は、答えた。
「そうか。あの国を滅ぼしたから、お前が消えるのは時間の問題か」
そして少し考えたのち、最高神は海の女神を見つめて一言。
「なら、お前の力を見せてみよ」
最高神の言いたいことは、こうだった。信じられていたのなら、その信仰に応えて見せろ。もう一度国が繁栄できるように、海の女神自身の力でアトランティスを救え。それに成功した暁には、アトランティスを再びこの世界の国として受け入れよう。
海の女神は持てる力全てをそこに費やし、アトランティスを救ったのだった。
だが、女神が海であまりに力を使いすぎたため、人々は海で魔法を使うことが出来なくなってしまった。
この国では常識的な情報だった。一度滅びかけたこの国も、海の女神のおかげて再び栄えることができたのだ。それからは、神話を信じる者は少なくなっても、ほとんどの国民が女神を信じていた。女神もそれに応え、後に起こる戦争でもこの国を護ったのであった。テセウスは宗教の棚の隣にある歴史の棚へ行き、戦争や魔法についてのことも目を通すことにした。
遥か昔、その頃は魔法というものがなかった。人々は〈電気〉と呼ばれるものの力で豊かな暮らしをし、それなりに繁栄していた。だが、その進んだ技術故に神に取って代わろうとする者が現れ、人間は最高神の怒りを買った。神は人々を裁き、〈電気〉と〈技術〉を奪った。
だが、それを哀れに思う神もいた。〝始まりの神〟と呼ばれるその神は――神の歴史で言えば始まりではないのだが、人々の繁栄を始まらせた神という意味で呼ばれている――は神々の間で使われていた『大いなる力』もとい魔法を盗み、人々に与えた。最高神は怒り狂った。人里を荒波で襲い、地を揺らし、雷を落とした。それでも始まりの神は屈せず、人々を守った。人類は守られたが、始まりの神は最高神に罰せられ、永遠の責め苦――諸説あるが、毒蛇に心臓をついばまれるが不死身であるため死ねないというものが有名である――を受けることになった。事はそれで収まった。普段は『自分は必ず正しい』と考える最高神も、人々に魔法を与えたのは始まりの神であるため人々を罰するよりも始まりの神を罰するのが正しいと考えを改めたのだ。
それから間もなく、人々は戦争を始めた。魔法を得たことで調子に乗り、今なら他の国に勝てると国の指導者が考えたためである。多くの人が死んだ。多くの人が飢餓に苦しんだ。だが、戦争で得たものと言えば失望感しかなかった。これでは周りの国と何も変わらない。我々は強いわけではなかったのだ、と。勝利した国などなかった。ただ、滅んだ国が今までの戦争と類を見ないほど多かった。魔法の暴発により、自らの国をも滅ぼしたのだ。だが、我が国アトランティスは、滅びなかった。太古の時代から国を護っていた海の女神による海の魔法の力で、生き延びたのだ。
他にもいくらか残った国があり、その国々は協定を結んだ。それからは、人類は〝大体〟平和に暮らしているのである。
テセウスは、『〝大体〟平和に暮らしている』など世界を称えすぎないこの本に、好感を懐いた。少し面白くもある。やはり、知っている以上の情報を得ることは出来なかったが、復習程度にはなった。
テセウスが本を返して自室に戻ろうとしたとき、肩越しに声が聞こえた。テセウスの黒い髪が引っ張られる。
「よお、テセウス」
「……リュコメデスか」
振り向きもせずに、テセウスは言った。過去は仲が良かったが、とある事件から二人の間は険悪になっている。テセウスはリュコメデスと顔を合わせるのは嫌だった。
「崖から突き落としたのでまだ根に持ってるのか? あの時のことは悪かったと思ってる。もう謝っただろ」
「謝れば済むってものじゃない。少なくとも俺の頬はまだ痛いんだよ」
テセウスは振り向きざまに言う。正に『ぶっきらぼう』という言葉がぴったりな言い方だった。リュコメデスはやれやれといった感じで足を踏みかえ、テセウスの頬に触れた。
「あの後な、俺、お前の傷を治せるように、治癒魔法練習してんだ。ちょっと途中まで出来てるから、試してみるか?」
成功して間もない頃に魔法を使うときは皆やるのだが、リュコメデスは集中力を高めるために目を閉じた。それを見てテセウスの背には悪寒が走った。治癒魔法は失敗すると言葉では言い表せないおぞましいことになる。先程リュコメデスは『途中まで出来てる』と言った。途中までしか出来ていない治癒魔法で傷を治療したら、どうなるのだろう?
「ちょい待てリュコメデス」
「なんだ?」
「俺を未完成の治癒魔法の実験台にするな」
テセウスはばっさりと言い切る。リュコメデスは苦笑いして、小走りで『魔法・治癒魔法』の棚から本を持ってきた。パラパラとページに目を通してから、一言。
「悪ぃ、忘れてた。未完成の治癒魔法で治療すると、傷口が緑色に変色してウジ虫が……」
「それ以上は言うな気色悪い」
テセウスはそれ以上何も言わず、歩き出した。リュコメデスと関わると、面倒なことになる。そう感じたのだ。既に未完成の治癒魔法の犠牲になりそうになったのだ。肩越しに「なら完成を待ってろよ」というリュコメデスの声が聞こえたが、テセウスはさほど気にせず自室に戻った。