不味いつくね系女子とサンタ系男子
そのとき私は、自身をつくねのように思っていた。それも、水をかけられてタレが落ち、串と油っけを抜かれた激マズのつくねだ。
首をもたげてダッフルコートのポケットに手を突っ込む。電源を入れると、スマートフォンの画面は19:23を表示した。
やや黄ばんだ蛍光灯が地下鉄の車内を生暖かく包んでいる。黒や深緑のダウンコートに埋もれる婆さん爺さんは、日光の届かない深海から引き揚げられ、おでんの出汁にされた昆布みたいだった。
もっとも、こんな感想を抱くのは私しかいないかもしれないが。
地下鉄が駅に停車する。あと三駅で降車だ。外でははベタベタとした悪質な雪が降っていたし、ダッフルコートと手袋のほかにこれといった防寒具を私は持たない。マフラーは昨年母からプレゼトされたが、コートの色に合わないから無理をして着けていないのだ。
私よりやや背の高い高校生が乗車口から乗り込んだ。白いリュックに赤いダウンコート、黒い長靴を履いた…サンタか と突っ込みたくなるような出で立ちの青年だ。彼は上目遣いでさっと車内の椅子が埋まっているのを確認すると溜め息をついて乗車口付近の手すりにつかまった。
私のすぐ右隣にいるその彼は、浦井君だった。高校の合格発表以来連絡を取っていない、浦井君だ ーーー
「……あ」
「……ひ久しぶりだね」
「おん」
浦井君はうとおの中間の音で「おん」と相槌する癖がある。
私はというと、どうしていいかわからず、言葉が躓いてしまう。
地下鉄が動き、視線を乗車口の方に戻した。窓の直ぐ向こうには黒々とした空と同化したビルや道路が広がっている。車の赤や白の電光が一列に並んでいた。
空中を移動しているみたいだ。いつも私はそう思う。
「学校、最近どうすか?」
沈黙に耐えかねてか、彼は横目で聞いてきた。
「うん、美術部に入ったよ。今も友達は少ないけど、えーと、不自由はしていないよ。」
「へー……」
「びじゅ」
「君は」
声が重なることに互いに驚き、と同時に恥ずかしくなる。
「うん、何。」
「え、や、君はどうしてるかなって。」
「相変わらずだよ。囲碁部に入った。」
「囲碁部!? へぇー…かっこいい…」
「え、どうも。」
「ど、どうして囲碁部に?」
「いや、囲碁、前から好きだったし、俺の高校、野球部はなんか空気悪かったし。」
彼は中学の頃、三年間野球部に入っていた。試合にはあまり勝たなかったが、「部活」として楽しんでいた。中学生であることを楽しめるやつだった。
また、定期テストではいつも学年一位だった。そこまで努力してるようには見えなかった。していないわけではないが、その努力の仕方や内容は周りの子とはレベルが違った。
「今も、部活帰りなの?」
「うん。詰碁やったり、先輩と打ったりしてた。」
彼のツンツンとした髪の合間で溶けた雪の水滴が光る。黒いダウンコートに長靴、ニキビがやや目立つ横顔。変わってないな、と私は頬を緩める。
「君はさ、浦井君は、何か目指すものがあって囲碁を打ってるの?」
私は視線を遠くにやってから聞いた。
「全国大会に出ることかな、とりあえずは。」
「取りあえずで全国大会かよ。やっぱ格が違うな」
「いやぁ、なんか、父さんが高校時代囲碁部でさ、全国大会んとき大将やってたんだよ。毎日打ってもらってるけど、マジで強い。」
嬉々として彼は語る。曇りのない野心を灯す目が私に向けられる。
「君ならできるよ。」
と言って思い直して付け加える。
「えっと、浦井君、素直に努力し続けられる子だと、思うから、だからえーと、おこがましい言い方かもだけど、きっと、できると私は思うんだ。」
こういうのを蛇足と言うのだろうか。私は昔から自分の言いたいことこそを上手く言えない。上手な嘘ならいくらでも吐いてきたのに。
「お、おん」
「君は?美術部で何かしたいことがあるの?」
「……あまり周りには言わないで欲しいんだけど、予備校いってんだ、美術の。」
「まじか。…え、美大?いくの?」
「わかんない。でもさ、今まで私多分、偏差値至上主義だったとおもうんだ。価値の定規はたくさんあるけど、偏差値が最も重要で尊い定規だって。」
うまく、言葉が出てこない。その上こんな素直な事を言うなんてとてつもなく恥ずかしいじゃないか。横目で見ると、浦井君は落ち着いた目で私の言葉を待っていた。
「……でもね、やっぱり偏差値はその人の偏差値しか測れないんだよ。校外活動とか高文連で作品作ったりしてきたんだけど、人に何かを与えられるものって定規で測りきれるものじゃなかったんだよ。…でも、人に何かを与えられるものなのであれば、測れなくとも、それって物凄く価値があるものなんだよ。」
やや彼から顔を背ける。きっとコイツめんどくせぇこと言ってる、反応に困るわぁ~とか思われてる。
「えっと、だから、美大にいくかはまだ決められないけれど、人を感動させるモノを作れる道があるなら、進みたい、というか…」
地下鉄がとまる。
「あ、お、俺降りるわ。サラバジャ~!」
やや申し訳なさそうに彼はそそくさと降りる。
気を遣わせたことを言われるよりましか…そう思いつつ、私は赤面をしてまとまらなかった言葉の破片を胸にしまいこんだ。
窓に目を向けると後ろの男性がこちらを見ていて、目があった途端何でもないように逸らした。
彼の居た側の手に、しっかりと持っていた手提げの中を一瞥する。丸くなったデッサン用の鉛筆が入った筆箱と乱雑に折り畳まれた数枚の画用紙。
……浦井君に見られたかな。
私は、今丁度、予備校から帰っているところだったのだ。
今日も今日で、上手くいかなかったなぁ……
周りの生徒は皆私よりずっとデッサンも油絵も、何もかもが上手だった。
教室に入るとき、私は何も考えないように努める。そして椅子を運んで荷物を置いて鉛筆を持つときまで周りを極力見ないように努める。私の後ろを誰かが通るときはその人が私のデッサンをどう思うかについて考えないように努める。
でも、過剰な自意識は劣等感へと変わって、集中力も失われていく。黒い芯から伸びる線も、不安定で不要なものが増えていく。消して、描いて、それをまた消して。
あやまって落としたファイルから画用紙が数枚はみ出る。林檎。木とコップ。ワインボトル。どれも、稚拙で中途半端なデッサンだ。周りの生徒がそれらを一瞥する。焦って私はそれらを折って手提げ袋にしまいこんだ。
私、なにやってんのかな。
恥ずかしさというより、情けなさで溜め息が出た。
浦井君は今、辛いかな。劣等感で潰されそうな日は、あるかな。
今まで自分を守ってくれていた価値が、無力化されるような所に居るかな。
ヴーヴー…
コートのポケットが振動する。
スマートフォンの画面にLINEの通知が表示されていた。
少しだけ間を置いて開くと、浦井君からだった。
「お互い頑張りませう」
それだけだった。気を遣ったのかもしれない。でも、その言葉が有り難かった。それくらい私は、参ってしまっていた。
黒い街並みが光に溶けて流れていく。次の駅で、降りないと。
もう少し頑張ってみよう。帰ったらとりあえず、鉛筆を削ろう。
「ありがと。頑張ろう。」
返信してから、私は開くドアの先へと歩き出した。
読んでいただき、ありがとうございました。