#6
翌朝、俺は自動的に目が覚めていた。
正確にはリュネットが宿を出たことを神聖術が感知し、俺の脳内に直接警報を送ってきたのだ。慌てて飛び起き部屋から飛び出し、リュネットの後を追うべく宿からも飛び出した。
降り注ぐ朝日の光に目を細めつつ、周囲の様子を伺う。まだ日が昇ったばかりなのか朝靄も晴れておらず、通行人の姿もほとんど見当たらない。実にのどかな片田舎の宿場町の朝の姿は、なかなかにじっくり眺めたくなる雰囲気ではあるのだが、今はそんなことをしている場合では――
と、焦りながら周囲を見渡すと、宿から少し離れた高台の上に佇む人影が目に入った。まさかと思い駆け寄ってみると、そこには高台からのどかな片田舎の宿場町の朝の姿をじっくりと眺めているリュネットの姿があった。
「お前なぁ……」
「あ、おはようございます。起きたばかりですか? 寝癖ついてますよ」
「おっと……これで直ったかな? まったく脅かしやがって」
俺がため息交じりにそう言うと、リュネットはいたずらっぽい笑みを浮かべて見せてきた。
「あ、もしかして私が逃げ出すとか思ってました?」
「そもそもお前が逃げ出した目的も何も聞いてないからな。何をしてもおかしくないとは思ってる」
「どちらかというと、今あなたに居なくなられる方が私にとっては困ります。何しろ今の私は、一人では何もできない哀れな子羊ですから」
「そうか。ところで一つ教えてほしいんだけど、あの『翼』はどうやって手に入れたんだ?」
「あの部屋にあった資材で作りました。元々物置代わりに使ってた部屋みたいで資材はいろいろあったのですが、それを加工するための道具が足りなかったのと、あとは布の通気を遮断するのに苦労しました」
「……一人では何もできない哀れな子羊がなんだって?」
こいつと話しているとまったく頭が痛くなってくる。
「そんなことより、昨日の昼から何も食べていないのでさすがに空腹で倒れそうです」
「そういえば俺も何も食べてなかったな。あの宿じゃ食事は出してないらしいから、戻る前にどこかで食べて帰るか……店開いてるのかな?」
高台から町を見渡すと、何やら徐々に人が集まり始めている通りがあり、煙か湯気のようなものが幾筋か立ち昇っているようだった。
二人が通りに近づいてみると、既にこの規模の町にしては結構な人数が集まっていた。どうやら朝市か何かのようで、通りに面した店からは威勢のいい声が聞こえてくる。
パンや野菜や魚などの食材のみならず、近隣で作られたと思われる服飾品や、樽入りの酒なども売られているようだ。店は大きく分けると三種類ほどあり、一つは地元住民向けの小売店、もう一つが行商人向けの卸売店――そして最後が朝食屋台だ。
匂いにつられるまま屋台の連なる一帯に向かうと、早速リュネットはそのうちの一つに目を付けたようだ。
「あの黄色い棒は何ですか?」
「ああ、“モフット”を見るのは初めてか。西の方では結構メジャーな食べ物なんだけど……もしかして東の出身?」
「ええ、まあ」
リュネットは微妙に言葉を濁すように返してくる。確かに魔法学院そのものがディアマント王国よりだいぶ東にあり、その近隣の出身なら当然東の出身と言えるわけで、そこまで突っ込んだことを訊いたつもりはなかったが……これはもしかしたら何かあるのかもしれない。
「串刺しのパンを軽く牛乳に浸して、更に生卵と砂糖を混ぜたやつをたっぷり塗ってからあぶり焼きにしたやつだ。列も短そうだし、食べてみるか?」
「ところで、今の私は所持品を全て没収されていて文無しなのですが」
「いや、まあこれくらいなら出すけど……」
思わず財布の中身を数えてしまう。数日程度の宿代と食費なら何とかなるだろうが、それ以上となると何らかの対策が必要になってくるだろう。そもそもこれは経費で落ちるのだろうか――ディーノが無駄に大金を持ち歩いていてくれると助かるのだが。
「なるほど、確かに中はもふっとしてますね。想像以上に美味しいですが、このあたりでは一般的な朝食なのですか? ……あっ、向こうの屋台からもいい匂いがしてきます」
「あんまり家庭じゃ作らないけどな……って聞けよ!」
その後も、あちこちの屋台にふらふらと足を運ぶリュネットにせがまれ、東の地方では珍しいと思われるものを中心にいくつか食べて回ったのだが……
「……苦しいです」
「さすがにその身体であれだけ食べりゃそうなるだろ。そろそろ宿に戻って今後のことについて――」
「もう一つだけ、どうしても買って欲しいものがあるんです」
「なんだ……あ、服か。これからどこに行くにしろ、さすがにその寝巻みたいなの一枚じゃなあ」
「いえ、欲しいのは魔法を使うための杖です」
「えっ、服要らないのか?」
思わず突っ込んでしまったが、リュネットは表情も変えずに頷いてくる。
「どうせ服を買ってくれるなら、もっと大きな街のちゃんとしたお店で素敵な服を買ってほしいです。それまでの服は、杖があれば多分なんとかできます」
「念のために言っておくけど、そんなに金が余ってるわけじゃないからな」
実際のところ、こいつが「ちゃんとした店で買った素敵な服」とやらを着ている姿を見てみたい気はするが、さすがに今はそんなことをしている状況ではない。
「それに、俺はまだ協力すると決めたわけじゃない。俺の活動費だって教会の経費から落ちてるんだ。朝食や安い服くらいならともかく、魔法の杖なんてよっぽどの理由が無いと――」
「情報、欲しいんですよね?」
あまりにも的確に急所を突かれた一言に、俺は思わず言葉に詰まってしまった。ここまで表情に出してしまっては交渉も何もあったものじゃない。今までの仕事でこの手のヘマはあまりやったことはなかったのに、どうしてこいつ相手だとこんな感じになってしまうのか。
「私があんなことをしてまで塔から脱出したのは、一つは口封じで殺される可能性を恐れたから――そしてもう一つは、どうしても行かなければならない場所があるからです」
そこまで言うと、リュネットは更に半歩ほど詰め寄って来て、俺の顔をじっと見上げてきた。これはまずい。修道院という男だけで隔離された環境を飛び出してから二年しか経っていない俺には、このような状況で平静を保つ力が全く足りていない。もっとあからさまな、例えば肉体的接触を伴う色仕掛けに負けないような訓練を一通り受けていたはずなのに、所詮付け焼刃だったせいか何の役にも立っていない。
「そこに行くまでの間に、私が知る情報を少しずつお伝えします。そのためには、あなたは私と行動を共にして、しかも私が無事でいられるように守らなければならない。でも、杖があれば自分の身を守れますから、はるかに安全性が高まります」
こんな時にディーノがいてくれれば、と思うが、いないものは仕方がない。ここでリュネットを放り出すという選択肢があり得ない以上、騙されることを覚悟してでも話に乗る以外に無いだろう。
「……まあ、経費として落とす言い訳はつくか。杖だけでいいんだな?」
俺がそう念を押すと、リュネットはちょっと残念そうな顔をしながら頷いた。まさか本当に素敵な服とやらを期待していたのか、という驚きが俺の顔に出ていたのだろう、それを見たリュネットがいたずらっぽい笑みを浮かべてきやがった。ああもう。