#4
その時、木枠が大きくメキッ!と音を立てた。できるだけ動かないようにしていたつもりだったが、それでも思わずリュネットの背中に強くしがみ付いてしまう。そのせいもあってか機体はややバランスを崩し、大きく蛇行しながら立て直すのに数秒の時間を要した。
「な、なあ……」
俺がそう言いかけたところで、リュネットはいきなりとんでもないことを言ってきた。
「私の臭いのことなら我慢して下さい。何しろ十日間一度もお風呂に入っていないどころか服すら着替えてないんです」
「誰もそんなこと聞いてねえし、そもそもこの風の中でそんなんわかるわけないだろ」
何しろ、少なくとも人間が走るよりは圧倒的に速く飛んでいるのだ。しかし言われると気になってしまうのが人の性というもので――
「今わざわざ臭いを嗅ごうとしましたね。変態さんなんですか?」
「動いてないだろ! 心まで読むな!」
「やーい変態。まあそんなわけで、降りたらまずはお風呂付きの宿に行きたいので協力して下さい」
「と言われてもなぁ……塔からまっすぐ西に進んできてるんだとしたら、街道沿いにずっと進めば宿場町があるにはあるけど、そんな宿を選り好みできるほど大きな街じゃなかったと思うぞ」
そんな会話をしている間にも、機体はミシミシメキメキと音をたて続けているのだが、リュネットはお構いなしに話し続けてくる。俺が変に動いてバランスを崩さないようにというのもあるかもしれないが、もしかしたら本人も怖くて気を紛らわせたいのかもしれない。
ちらりと横顔を覗き見ると、やはり緊張しているらしく表情が強張っている。よく見ると幼さが残りながらもかなり整った顔立ちで、これは是非もう一度正面からじっくりと見てみたいところだ――
などと考えていた俺の頭のすぐ横を、何かがかなりの速度で掠めていった。
風圧で一瞬鼓膜が揺さぶられる感覚に襲われ、同時に斜め上から一筋の光が差し込んでくる。光の源に視線を向けると、そこからは空が見えた――『翼』を構成する布に空いた小さな穴越しに。
機体がバランスを失って蛇行を始める中、俺は何とか後方の地上に視線を向けてみる。するとそこにはあまり信じたくない光景が広がっていた。
「追って来てるぞ! 馬に乗った兵士が六人、うち三人はでかい弓を構えてる!」
「ならば、馬が息切れするまでもう少し距離を稼ぐ必要がありますね」
この期に及んで冷静さを失わないリュネットの胆力は見事なものだが、しかし機体に穴をあけられたせいもあってか高度の下降は止まらない。とはいえ、蛇行しているおかげで向こうもまともに狙いを定められないのか、矢が続けざまに放たれはするものの見当違いの方向ばかりへ飛んでいく。
やがてリュネットの言った通り、馬が力尽きたのか徐々に兵士たちとの距離は開いて行く。あれだけの距離を全力疾走させられた馬たちは当分使い物にならないだろうが、しかし兵士たちが馬を降りて追ってくる可能性を考えるとまだまだ油断はできない。
「そろそろ着地します。このまま着地すると私の脚が折れかねないので、地面すれすれに近づいたら先に飛び降りて下さい」
「いいけど、降りた後はどうするんだ?」
俺がそう問いかけると、リュネットは少し考えてから答えてきた。
「……まだあまり力が戻ってきていませんね。せめて愛用の杖があればどうにかなったかもしれませんが、今の私は相手に直接触れでもしない限りまともに魔法が使えません。ピエトロは武装した六人を相手に戦えるほど強かったりしますか?」
「あー、ええと、敵に鎧と飛び道具さえなければやりようもあったけど……」
防具の隙間を狙って釘を投げるのは、相当な集中力が要る上に失敗する可能性も低くは無い。そして何より、射程距離はせいぜい数歩分程度で、当然のことながら弓には遠く及ばない。
「では機体を捨ててまっすぐ走りましょう。走る方に自信は?」
「まあ、完全武装でガシャガシャ走ってくる相手に負けない程度には」
「私はあまり自信がありませんので、いざとなれば私を負ぶって逃げて下さい」
「置いて、じゃないんだ……さすがにそうなったら林にでも逃げ込んで交戦した方がマシな気もするけど」
そんなやり取りをしている間に、地面はもうすぐそこにまで迫っていた。リュネットが翼の向きを変えて速度を落とすと、機体は一瞬舞い上がったものの再び一気に落下を始めた。
「今です」
「っと!」
俺はリュネットから手を離し、着地すると同時につんのめりながらも何とか全力疾走を続ける。俺という重量を失った機体は再び大きく舞い上がるが、もちろんそれは一瞬のことだけで、再びリュネットの身体ごと落っこちてくる。
そんな状態になりながらも、リュネットは翼を大きく動かして着地姿勢に入る。最初は足先を地面にこすり付けて速度を落とし、ある程度速度が落ちたところで両脚を大きく動かして走りながら減速する姿勢に移るが、途中で足をもつれさせて転んでしまう。
俺は慌てて駆け寄り、リュネットを助け起こしながら腰の金具に手を伸ばし、機体とリュネットの身体を分離させる。すべての金具を外したところで、解き放たれた『翼』はそのまましばらく飛んでいき、やがて草むらに突っ込むような形で墜落した。
一方、リュネットの方は膝に擦り傷を負っているが、見た感じ走れないほどではなさそうだ。追ってくる兵士たちの姿は今は見えないが、あれだけの執念で追ってきた兵士たちが、馬が走れなくなった程度で諦めて帰るとも思えない。
俺は墜落した『翼』に駆け寄ると、懐から出した紙巻の丸薬に点火して機体の根元に置いた。これで数分後は辺り一帯が大量の煙に覆われ、追っ手たちもしばらくは不用意に身動きが取れなくなるだろう。もちろん、その機に乗じて逆襲する手も無いわけではないが、確実性を取るならここはとっとと逃げるに限る。
「走れるか?」
「もしかして負ぶってくれるんですか?」
「よし走れるんだな。まずはあの丘を越えて、ここから見えない場所まで一気に進もう」
もしかしてとんでもない奴を拾ってしまったのかもしれない、などと遅まきながらに認識しつつ、俺たちは当面の危機を逃れるため、全力でその場から駆け出した。