#32
転げ落ちた先で、俺はどこか怪我をしていないか全身くまなく確認してみたが、どうやら背中を強く打った程度で済んだらしい。
そうなると、上に残してきた二人のことが心配になるが――
「おらぁそこのトカゲェ! もっと気合い入れてかかって来んかいー! ハッハァー!」
などとご機嫌な声が聞こえてくるので、おそらく放っておいても問題はないだろう。面白味が無いとは何だったのか。
あとは、何とかして上に戻らなくてはいけないが、どこか登れるところを探さなければならない。そう思って周囲を見回すと、そこには入浴中のリュネットの姿があった。
「……は?」
俺は目の前の光景が信じられず、目をこすって深呼吸してもう一度目を開いてみたが、やはり見えるものは変わらなかった。
木々が焼き払われた一帯の中に穴が掘られていて、そこにお湯が溜まっている。近くの木にはリュネットの杖が立てかけられ、枝にはリュネットがいつも着ているローブやその下に着ている服や下着が掛けられており、そしてリュネットは一糸まとわぬ姿でお湯の中にいる。
まずい、これは間違いなく怒られる。お湯をかけられるくらいならいいが、最悪の場合は攻撃魔法が飛んでくるかもしれない。もちろんそんなことになったら俺は死ぬ。
ここはやはり謝るべきなのだろうが、何をどう謝ったらいいのかわからない。そもそもこれは不慮の事故なので俺に落ち度があるわけじゃないが、しかし逆にそれだと謝るべきポイントが見つからなくてしかし適当なことを言っても見透かされそうでこれは非常に危機がピンチで――
と、そこまで俺の脳が暴走しかけたところで、リュネットの様子が明らかにおかしいことに気付いた。
その表情は怒ってはいなかった――しかしさらに悪いことに、完全に怯えきっていた。
顔面を蒼白にしてガタガタと震えるその姿は、普段のリュネットを知っている立場からするとあまりにも似つかわしくなく、それこそ幻覚か何かなのではないかと思える。
「いや、あの……別に黙って風呂に入ってた程度で怒ってなんかいない……ぞ?」
そこで、俺はようやく気付いた。リュネットが、何かを必死に隠そうとしていることに。
どうやら身体を隠そうとしているようだが、それにしては様子が変だ。肝心な場所が全く隠せていないので、細くて薄いながらも不思議と均整の取れた美しいシルエットが露わに――なんてことを気にしている場合じゃない。
脳内から雑念を振り払ったところで、ふと何かがおかしいことに気付いた。
本人がここまで怯えているのをまじまじと見るわけにもいかないので視線を外したが、それでも目の裏に焼き付いた光景はそう簡単には離れない。
特に違和感を覚えたのは脚だ。最初は光の当たり方の問題かと思ったが、あれは実際に肌の色が変色していたのではないか。特に膝から下の色は、あからさまに他の部分の色とは違っていた。
それに加えて、手首より少し上の腕の部分だ。これは湯の中に沈んでいた脚よりもはっきりとわかる。まるで何かに強く縛られたことでできた痣のような――
そこで俺は思い至ってしまった。異端審問官として、何をどうした場合にこのような状態になることがあるのか、という知識を持っていることに。
教会で古くから知られ、しかし実際に行使されたことは数えるほどしかないという最上位の処刑方法。そして多くの国や組織が模倣し、世界のあちこちで行われていると言われる。
俺の表情を見て、こちらが感づいたことに気付いたのか、リュネットは自分の身体を隠すのをやめた。そして、感情が完全に抜け落ちた声で語りかけてくる。
「やはり、異端審問官ならご存知のようですね。そうです。これは火刑に処されかけた跡です」
わかってはいたが、実際に本人の口から言われてしまうと息を呑まざるを得ない。
やり方は非常に簡単だ。木でできた十字架に脚と腕を縛り付け、それを起こした状態で足元に薪を積んで火をつける。
最初は足元から焼かれていくが、やがて十字架そのものも燃え始め――しかしリュネットの状態から考えると、そこまで行く前の段階で中断されたのだろう。
教会の異端審問によって火刑に処せられた例といえば、俺が全て思い出せるくらいに少ない。各地の教会に火を着けて回った放火魔や、その地位を利用して数多くの少女を自室に連れ込んで犯した高司祭など、あまりにも極端な例だけが火刑の対象となっている。そこまで行かない例、たとえば人を一人二人殺した程度では、大抵は二番目に重い『破門』止まりとなる。
「一体……」
誰がそんなことを、と言おうとしたが、リュネットは別の意味に捉えたようだ。
「洪水を引き起こして大量虐殺。それが、私が犯したとされる罪です」
「……はい?」
思わず間の抜けた返事をしてしまったが、はっきり言って意味がわからない。
火傷や痣の具合を見る限り、ここ最近でついたものとは到底思えない。少なくとも数年は経過しているだろう――それに、新しい傷であるならば、そもそもリュネット自身の魔法でも跡が目立たない程度には治せるはずだ。
今のリュネットの力があれば、あるいは魔法で洪水を引き起こすことも不可能ではないのかもしれない。しかし、おそらく十歳にも満たなかった少女にそんな真似ができたのだろうか。
「私は、学院の比較的近くにある農村で生まれ育ちました。しかし私は当時から気味の悪い子供として、村人たちからは避けられていました」
「えっと……なんで?」
今の俺はよっぽど呆けた表情をしているに違いない。
「他の子供が言わないようなことを色々言ったり、誰も気づかないような予兆に気付いたり……それと、珍しい紫色の髪も影響していたかもしれません。変わった色の髪の者には、高い魔法の才能を秘めている者が多いという説もあるそうですが、地域によっては不吉なものとして扱われていることもあります」
「無茶苦茶だなぁ」
「……九歳の頃のある大雨の日、私は一つの予感に囚われました。川が溢れて村が沈む――その予感を抑えきれなかった私は、まず両親に伝えましたが取り合ってもらえませんでした。村の皆にも告げたのですが、不吉なことを言うなと殴られました。それでもどうしても怖くて私一人で逃げ出したのです」
「まさか、それで本当に洪水が……」
リュネットは頷くと、淡々と説明を続けた。
「村の半分近くの土地と、私の両親を含めおよそ五十名ほどが亡くなりました。私が嘘をついて騙そうとして、それに失敗して殴られた腹いせに本当に洪水を引き起こした――村の大人たちの会議では全会一致でそう決められました。そして、即座に処刑されそうになったのです」
さすがにここまで来ると、もはやかけるべき言葉が見つからない。
「星の美しい夜でした。脚を焼かれながら、私はただひたすらに願いました。こんな死に方は嫌だ――すると、夜空で眩しい光が輝き、それはそのままこちらに向かって来たのです」
「……星が、落ちてきた?」
俺の問いに、リュネットは表情を変えぬまま頷く。
「閃光と衝撃が私の全身を襲い、気が付くと私は陥没した地面の中で倒れていました。十字架や縄はどこかに消え失せていて、私は村の人たちがパニックになっている隙に、ひたすら走って逃げました」
九歳の少女が、故郷の村を追われて身一つで逃げ延びる。
そんな目に遭えば誰だって『神に大事にされていない』という考えにもなるだろう。
「私がまず知りたかったのは、洪水を引き起こして村の人たちを殺したのは本当に私だったのか、ということです。それを知るために、私はとある高名な魔法使いを訪ねました。そして、私の置かれた状況について話したのです」
「……その人は何て?」
「『それを知りたければ魔法を学べ』と言われました。私はその人に後見人になってもらい、魔法学院に入学しました。学費は私自身を質に入れて借り入れました」
「し、質!?」
教会の戒律により、人身売買は基本的に禁じられている。ただし、自らの意志で身売りをした場合だけは例外とされている。
しかしこの抜け穴により、金に困窮した者が最後の手段として自らの身柄を抵当に入れ、返済が滞った場合は奴隷として売買の対象となる、というやり方が横行しているのだ。
「ああ、そこは御心配には及びません。返済の目途は概ね立っています。もっとも、今回の学院からの任務を受けた理由の一つが、この借金を早く返すためだったりもするのですが」
「そ、そうか……で、結局洪水が自分のせいじゃないって確証は持てたのか?」
俺の言葉にリュネットは何故か驚いていたが、やがてぽつりぽつりと語り出した。
「正直に言うと、まだわかりません。人が極限状態に置かれた時、まるで魔法のような現象を発動して暴走させる、という例は、実はそう珍しいものではないそうです」
「それは……」
話を聞いている限りでは、むしろ火刑の最中に星が落ちてきたことの方がその現象にぴったり当てはまるような気がするが、しかし残念ながらこれだけでは洪水がリュネットのせいではない、という証明にはならない。
いや、状況的にもちろんどう考えても違うのはわかりきっているが、わずかな可能性でも残っている限り、本人は決して疑うことをやめないだろう。
他にかけるべき言葉が何かないか、俺が必死に考え始めたその時――
「はは……ははははは……あーっはっはっはっはっはっはっは!」




