#3
よく見ると、翼に見えたのは木枠に布を張った大掛かりな仕掛けで、左右が完全に固定された状態で一体化していて羽ばたけるようにはできていない。しかし高い所から勢いをつけて飛ばせば、風に乗ってかなり遠くまで飛んでいくのではないだろうか。しかもこの大きさなら、人間一人分の重量を載せたまま飛ぶくらいのことはできそうだ。
などとのんびり考えていたのがいけなかったのだろう。女の子はこちらに気付き、慌てた様子で振り返ってきて――そしてしっかりと目が合った。
その瞬間、俺は全く動けなくなってしまった。
こちらを恐れるでもなく、むしろ心の中までをも見通すような視線を向けてくる女の子の目は、どこまでも深い紫色をしていた。短めの髪の色も瞳と同じような紫色で、染めているのでなければかなり珍しい色だ。
歳は十六である俺に近いか、やや年下に見える。まるで寝巻のような服に包まれた身体は細く小さい。その上に皮のベルトのようなものを巻いており、更にそこにつけられた金具から伸びる数本のロープが『翼』に繋がっている。
この状況を見れば、女の子が何者でこれから何をしようとしているのかは明らかだが、しかしそれに対して取るべき行動を思いつく前に、俺は突然背中を襲った衝撃に吹っ飛ばされていた。
一回転半しながら床に倒れ込む間に見たのは、板金鎧に身を包んだ兵士たちが屋上になだれ込んでくる姿だった。なるほど、あんな装備で突撃されたら小柄軽量の俺の身体なんてひとたまりもなく吹っ飛ぶしかできないだろう。
「いたぞ! 何としても止め――」
「目標確認! 斬り殺せ!」
「おい、貴様何を言って――待て! 一体何のつもりだ!」
入って来るや否や、兵士たちは互いに言い争いを始めてしまった。
しかしそんな中から突然一人の兵士が飛び出し、抜身の剣を構えたまま女の子に向かって突進していった。
当然、女の子もそれに反応して逃れようとするが、『翼』を背負ったままの状態で機敏に動けるわけもなく、兵士の掲げる刃は瞬く間にその背後へと迫る。
この時、俺はとっさに動いていたようだが――この時点では、自分が何をしていたのかに気付いていなかった。
そして、女の子に向かって無慈悲に刃が振り下ろされるが、女の子がギリギリで身体をひねったことも功を奏したのだろう、切っ先は女の子の身に着けた寝巻のような服の表面を切り裂いただけで、そのまま床へと突き刺さる。
同時に前のめりになっていた兵士の身体のバランスも崩れ、やかましい金属音を立てながらその場に転がり込んだ。
「……あ」
そこで俺はようやく、今まさに投擲を終えたばかりの姿勢のまま、自分が何をしていたのかに気が付いた。
女の子に斬りかかったはずの兵士が脚を抱えてのた打ち回っているのは、俺が半ば無意識のうちに投げ飛ばしていた五寸釘が膝の裏側に深々と突き刺さっているせいだろう。騎士用の全身板金鎧と比べると兵士用は隙間が多いとはいえ、それでも走っている相手の鎧の隙間を狙うのはかなりの難度だったが、どうにかうまく行ったらしい。
いや、しかしこれはまずい。確かに教会の任務的にも人道的に考えても俺の咄嗟の行動は間違ってはいなかっただろうが、今の行動で完全に兵士たちの視線が俺に向けられる――
と思いきや、事態は想像とは異なる方向へと転がり始めた。
「何故殺そうとした! 貴様は学院相手に戦争でも引き起こすつもりか!」
「これも任務だ。邪魔をするなら誰であろうと排除する。人数はこちらが上だ。大人しくした方が賢明だぞ」
「一体誰が下した任務だ! あの娘に関する処遇は宰相閣下が直々に――」
「話す権限は与えられていない。いいからそこをどけ」
「そこの少年は教会から派遣された食事係だ! 彼の目の前で事を起こすつもりか! 敵は学院だけでは済まなくなるぞ!」
「暗器術を使える食事係などいてたまるか。大方、修道士の皮を被った教会の密偵か何かだろう」
「なお悪いわ!」
どうやらこの兵士たちは二つの勢力に分かれているようで、互いの隊長格と思しき二人が殺気立った様子で言い争っている。両陣営の兵士たちは皆が武器を構え、今にも斬り合いが始まりそうな雰囲気ではあるが、人数差はざっと見た感じ十一対六。もちろん女の子を殺したがっている方の陣営が多数派で、いまだに脚を抱えてのた打ち回っている奴を入れれば十二人。この人数差ではさすがに勝負にならないだろう。
何とかして彼らの隙をついて行動を起こすべく、俺は固唾をのんで見守っていたが、不意に横から服を思い切り引っ張られる。
危うく転びそうになりながらも何とか体勢を立て直してそちらを見ると、そこにはいつの間にか『翼』を身体から取り外していた女の子の姿があった。
一体どうするつもりだ、と思わず口に出して言いそうになったのを、女の子は視線だけで制してきた。そして無言のまま俺を『翼』のところへ引っ張って行くと、そこから伸びるロープの先についた金具をを素早くベルトに固定し、さらにそのまま流れるような動作で俺の腕を握り、そのまま荷物でも背負うような感じで俺の身体を背負い上げた。
「……え?」
「全身でしっかり捕まって下さい。飛びます」
「…………は?」
女の子の言葉の意味が全く頭に入ってこない。理解できるのは、俺の身体が女の子に背負われていることくらいだ。そしてその女の子の身体は『翼』と繋がれていて――
そこまで考えたところで、女の子は立ち上がり、そして屋上の縁に向かってまっすぐに走り始めた。もちろん大した速度は出ていないが、俺の体重と『翼』全体の重さを支えた状態で「走る」などといった芸当をやらかす時点で相当無理をしているのではないだろうか。
それでも徐々に力強く加速する感覚が、女の子の細い背中から、やや汗ばんだ寝巻のような服越しに伝わってくる。
速度を上げるにつれて『翼』に張られた布が風を受けて大きく膨らむ。言い争いをしていた兵士たちがこちらの様子に気づき、何事か声を張り上げているが、既に今更止まろうにも止まれないところにまで来ていた。塔の縁まであと三歩、二歩、一歩――
そのまま縁の段差に足をかけ、女の子は最後の力を振り絞って俺と『翼』の重さを持ち上げ、そのまま縁の壁を後ろに向かって蹴り放った。
やはり速度が足りなかったのか、急速に落下する感覚――そして身体の一部がひゅんと縮み上がる感覚に襲われる。しかし落下による加速はそのまま風の力となって『翼』を持ち上げる力となった。
ほぼ垂直に近かった軌道はやがて斜めになり、そして徐々に水平に向かって行く。同時に『翼』にかかる負荷が増したのか、木製の枠組みの軋む音が徐々に大きくなっていく。
思わず下を見下ろしてしまうが、うっすらと靄がかかっていて地面の様子がいまいちよくわからない。しかしとんでもない高さを飛んでおり、しかも自分は女の子の背中にしがみつく形でぶら下がっているだけであることを思い出し、今度は身体の一部のみならず全体が縮こまる。
「できるだけ落ち着いてじっとしていて下さい。思ったより機体を安定させるのが難しそうです」
俺の動きを察したのか、女の子はそう話しかけてきた。
「無茶言うなよ……そもそもどうして俺を連れ出してきたんだ? この機体は、」
そこまで言いかけた瞬間、横から強い風が流れ、機体が大きく煽られる。木の枠組みがミシミシと音を立て、俺の心臓も同時に縮み上がる。
「……こ、この機体はどう見ても二人用には見えないんだけど、どうしてそんな危険を冒してまで?」
「もちろん、少しでも生き延びられる可能性を高くしたかったからです。一人より二人の方が望みはあります」
「つまり俺は思いっきり巻き込まれてうわあああっ!」
また横風が吹いて、木枠はいよいよ派手に音を立て始めた。
「少なくとも、あなたは私に死なれたくない立場の人でしょうから。お互いにお得な関係です」
「いやまあ君に一人で死なれるよりはマシかもしれないけど……そういやまだ名前すら知らないんだった」
「私もあなたの名前を知りません」
つまり、人の名前を訊ねるならまず自分から名乗れ、と遠回しに言っているのだろう。まあ今回の任務は別に名前を隠して活動するものでもないので、普通に名乗っておこう。
「俺は修道士のピエトロだ」
「なるほど。確か食事係がどうこうと聞こえた気がしましたが、あの食事もピエトロさんが?」
「相棒と二人で作ってたけど、まあ大体は俺だな。あと呼び捨てで構わないぞ」
「わかりました。ちなみに私の名前はリュネットです。エリタージュ魔法学院生をしています」
「学生? いや、まあその若さなら当然そうだよな」
あんな施設に仰々しく封じられているくらいだから、てっきり講師だの教授だのみたいな化け物かと思っていたが、そういうわけでもなかったらしい。
しかし逆に言えば、たかが学生があんな仰々しい施設に閉じ込められているなど、よほど特別な事情があったということだろう。何としても探らなければならないが、この状況では難しい。
塔の前に残してきたディーノと連絡を取りたいところだが……そう思って振り返ると、既に塔はかなり遠ざかっており、薄靄の向こうにかすかにその姿を覗かせる程度にまで小さくなっていた。
下に視線を転じると、ようやく地面の様子がはっきりと見えるようになっていた。近くに人里の類はなく、林や荒れ地を縫うように続く街道がひたすら伸びているだけだ。太陽の向きから考えると、どうやら西に向かって飛んでいるようだが――