2人なら怖くないよ?
森に飛び込む直前に、一瞬だけ空が曇っていたように見えた。
ずーっと晴れていたのに急に曇るなんてあるのかな?
林冠に覆われた森の中では確かめようがない。
そんなどうでもいい事を無視して今は走るべきだ。
靴を履いたことが幸いしたのか、もう一つの足音が僅かに聞こえてきた。
哲さんが走っていった方向は正しいと確信する。
足元からは、虫が潰れる音がする。裸足の彼等が心配だ。毒でもあったら……。
あれ? 聞こえてくる足音がまた1つ減った。
『なんで哲が!?』
立ち止まっていたらしく、哲さんが追いついたと思われる。
『離せよ、ほっといてくれ』
近づくにつれ、水の音も近づいている。蛇行していた川と再び接触した場所なのだろう。
川で簡単に沈んだ健十郎なら、容易く溺れ死ねるだろうな。
『健、落ち着け』
『離せって言ってるだろが』
揉み合っているのか、小石が擦れる音がする。
健十郎の背中に乗る哲さんが、自由を完全に奪っていた。
「おい、あんな事言ったから俺を殺しに来たのか?」
「えっ? ち、違うよ」
出したままでは話が全く進みそうにないから、護身用に取り出していたサバイバルナイフをリュックに仕舞う。
川は見えない。しかし音は聞こえる。それも下からだ。崖だな。
リュックを哲さんに放り投げ、健十郎の拘束を解く。
しかし逃しはしない。力いっぱい抱きしめる。
「離せよ。さっき言った事が理解できなかったのか?」
「勿論。理解できたし出来なかったよ」
「何わけ分かんねー事を……」
拒絶の余り、俺を突き放そうとする。力は拮抗しているため、先に抱きついた俺が主導権を握っている。
「そんなに苦しんでるなんて分からなかったんだ」
「だろうな。俺なんでどうでも」
「どうでも良くない。だけど、俺も自分の事で精一杯だったんだ。
目の前の出来事を1つ1つ考えるだけだったんだよ。だから哲さんを庇ったんじゃないか」
「裕兄の事は見捨てたくせにか!?」
それについては言い訳しきれない。でも最後のチャンスだ。
「それは事情があって」
「よくわかりもしねー事情のために殺したっていうのか!?」
言い出すチャンスなのに、聞いてもらうための上手な筋道が立たない。
話を聞いてもらうことがこんなに難しいだなんて……。
悔しい。言葉を見つけられない自分に憤りを感じる。
「苦しいのが苦しいんだ。もう放っといてくれよ」
「ねぇ健十郎。そんなに死にたいなら、どうして俺も誘ってくれなかったの?」
健十郎だけが苦しいはず無いよね?
「何故ってそりゃお前……」
「俺だって苦しいのを我慢してたんだ。助け合うべきじゃないの?
苦しいならもっと吐き出してよ。俺じゃあ頼りなかった?」
「哲はいかれてるし、お前はお前でおかしい。もう限界だよ。
頑張って押し殺してたけど、親友に殺される危険を感じてたんだぞ?」
そっか……。抱きしめるのをやめて、立ち上がった。
「……。じゃあ俺も苦しいから一緒に逝ってあげるよ。さぁ立って?」
手を引いて立ち上がらせると崖と思われる場所へと歩き出す。
「どこに行く気だ?」
川の音が大きくなるにつれ、抵抗力が強くなる。
「一緒に飛び込もうよ。2人なら怖くないよ? きっと向こうではまた分かり合えるよ!」
哲さんは止めはしない。本当は止めたいのかもしれないが、見守ってくれている。
もしこのまま逝っちゃったら、本当に申し訳ないけど……。さよならだね。
伝わっているかは分からないが、合った目でそう伝えたつもりだ。
「嫌だ、死にたくない!」
良かった。本当に飛び込む前に本音を出してくれて。
「じゃあ……」
俺の手を払い退けると、自分の体を大事そうに縮こまってしまった。
「俺が居なくなれば軽くなる?」
「あぁそうだよ」
俺の顔は見てくれない。
「俺が死ねば多少は良くなる?」
「……かもな」
泣いているのか、声も小さくなってきた。
「そっか。じゃあ先に逝くね?」
健十郎は止めてくれない。最期にしては十分かな。きっと、後で落ち着いたら分かってくれるよね?
今はそれで十分だ。手詰まりの現状では妥協点と言えるだろう。
「何十年後になるかわからないけど、向こうで全員が揃ったらまた巨大プリンでも作ろうよ」
「えっ……?」
5年生の時に3人で作った形状も定まらない巨大なドロドロプリン。
あんな他愛もない事が最も幸せだったんだな。
崖ギリギリまで歩いて行くち、思った以上に高かった。
これでは溺死の前に、転落死になるな。最悪ミックスになってこの上なく苦しそうだ。
あのワイワイした感じが一番幸せだったよ。振り向くと、俺の笑顔と親友の泣き顔が鉢合わせする。
「じゃあね」
でもね、苦しい全てを手放せるならと思うと死ぬのがワクワクしてきたんだ。
健十郎の気持ちが本当の意味で今理解できたように思う。
仕方のない事だが、嬉しさの余り顔が綻んでしまった。
「……行かないで」
小さくて聞こえないはずの声は、しっかりと俺の耳に届いた。
「そうじゃないんだ。そうじゃないんだよ……」
一体どんだけ泣くんだよこいつは、と思わなくもない。不謹慎にも笑っていた俺は何も言えないが。
「右も左も分からない。飛鳥まで俺を忘れてしまって心細かった。怖かったんだ。
本当は居なくなって欲しくなんか無い。死にたくもない。“皆で”生きていたい……」
真剣な赤い顔を見て、俺の方が顔を背けてしまった。
「もう手放さないから」
記憶も2人共、ね。
「俺を忘れないで。覚えていて。俺は未だここにいるか……」
「分かってるから。だから、俺をおいて行ったりしないで欲しいな」
膝に顔を埋める健十郎に覆いかぶさるようにくっついた。
少し落ち着いたようだから、裕さんの事を話しておきたいな。
「裕さんの事だけど……」
「納得出来るだけの事があったんだろうな?」
直ぐに怒鳴る。そう思いたいだけかもしれないが、もう危なっかしさはないように見える。
「健、黙って話を聞け」
健十郎の代わりにリュックを抱いている。
「哲……兄……!?」
「あぁ」
驚きを隠せない、隠さない、隠したくない。目が潤んでいるからすぐに分かる。
「いつから……?」
「ついさっきだ。いいからお前は飛鳥の話をちゃんと聞け」
「そんな話はどうでもいい……」
哲さんに飛び込んだ。親子のような状態になっている。
哲さんの胸に鼻水や涙がぬちゃっとくっついている。
「よしよし。怖かったな。これからは俺がちゃんと守ってやるから」
俺も非常に心強い一言に聞こえた。
「裕さんの事は……」
視界に入ってきたそれのせいで言葉を忘れてしまった。
「そんな顔して何を……」
見ない方が良い。いや、見た方がいい。
「うわああああ」
森から沢山の牙が覗いている。
川の音、俺らの声、風向き、視線。その全てが彼等の接近を容認してしまっていた。
俺は驚愕のあまり硬直、健十郎は発狂しかかっている。
哲さんだけが冷静に武器を取り出して対応している。




