上陸
気づいたら水を泳いでいた。舐めても塩っぱさは無い。
薄暗い紫の空の中、水が仄かに紫のような青のような光を発している。
水面は穏やかで、渦潮どころか俺が作る波紋でしか波打たない。
陸地には光る樹木がある。あれが灯台の本体だろうか?
目指し藻掻くも、スイスイと近づいていける。水泳は学校ではやらないし、泳ぐげる施設はほぼない。大浴場で辛うじて出来る程度で、俺は泳ぐなどという大層な事は出来もしない。水流は無いのに、どうやら体が勝手に流されているようだ。
あっと言う間に上陸すると、ゴツゴツした岩場に出た。砂場ではないようだな。
黒っぽい……所々が光っている。鉱石だろうか?
採った1つを空に掲げて見ていると、遠くが目に入った。台風など何処にもない。
そう言えば、得体の知れない倦怠感が全身を襲っている。全体的に俺の行動トロいのは、それが原因だろう。気分がフワフワする。
何処か、寄りかかれる所に行きたい……。誰かに操られるかのようにゆっくりと、誰かに催眠されるかのようにフラフラと樹を目指す。
光る樹には丁度いい感じに寄りかかれそうだ。凭れ掛かり、見上げると枝を撓ませる何かが実っていた。
喉が渇く。腹も減った。頭もボーっとする。栄養失調と脱水症状だろうか?
手を伸ばそうとするも、服を引っ張られ止められた。
何処かで見たことがある……。
「百合……さん?」
コクコクと頷きながらも、手を振って去っていく。
樹に隠れて見えなくなったので追いかけると、今度は俺が憧れた体の持ち主が居た。
彼は指を差す。見た先には海があるのみ。振り返り意図を聞こうとするも、既に裕さんは居なかった。
海岸に行くと、そこは砂浜に変貌していた。
出所不明の怒りがこみ上げ、その辺を歩いていたヤドカリを思いっきり蹴った。
それは海に向かって綺麗に飛んでいったが、睨んでいたら足元を滑らせ後頭部を強打した。
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「痛たたたた……」
打ったはずの後頭部は平気だが、首が痛い。打った時に捻りでもしたのだろうか?
「ねー! 飛鳥お兄ちゃんが起きたよー!」
浜から少し離れた所で、哲さんが向こうに向かって手を振っている。
誰かを呼んでいるようで、微かに他の人の声も聞こえる。
待っていれば勝手にやってくるだろう。俺は首を抑えながら、海を見渡す。
やはり台風はあった。森で直接は見えないが、灯台の光りが空気中でチンダル現象を起こし、光の通り道がはっきりと見える。
海は相変わらずざわめき、グルグルと塒を巻いている。
風が吹いた。ちょっと寒いな……。
よく見ると、上半身が裸だった。海で揉みくちゃにされた時にでも脱げたか?
「飛鳥! 大丈夫か!?」
男の子が嬉しそうにやってくると、俺の事を心配してくれた。目尻が僅かに煌めいた。
「うん、大丈夫。それより、俺の事知ってるのか?」
「はっ?」
「えっ?」
何を言ったか分からないと言った顔をしている。俺もそんな男の子の反応が分からずに、つい声が漏れてしまった。
「ここに来てまで冗談はよせよ」
笑顔を向けてくるも、動揺は隠しきれていない。俺は対照的に冷静だった。
「あっ、哲くんに……無道寺さん。状況が分からないんだけど……」
遅れて2人がやってきた。女子が居ない所を見ると、合流はまだそうだ。
無道寺が言うには、俺は溺れて死にかけていたらしい。
健十郎という男の子が必至で俺に心臓マッサージと人工呼吸を施したようで、息を吹き返したとの事。つまり、百合さん達が居たあそこは三途の川の向こう側、若しくは彼岸という事だったのだろう。
「前にも記憶障害があったんだよな……」
ぼそっと男の子が漏らす。確かに記憶障害はあったが、それは俺自信が失ったわけではない。
「ならば、単純に脳細胞の壊死かもな」
俺も男の子もブルっとしてしまった。
「それって治る見込みは……」
「もしそうならまず間違いなく快復はしない」
きっぱりと断言される。俺の方がダメージは大きいはずなのに、男の子は顔面蒼白だった。
「健十郎……?」
あまりの血の気の無さが心配になり、いつも通りを装って声をかける。
しかし、俺は彼を泣かせてしまった……。原因が分からない。
「ごめん。俺が記憶を手放したばっかりに……」
「違うっ!」
言い訳を最後まで言えず、彼は泣きながらも肩を掴み俺の瞳の奥を覗いてくる。
俺の中に記憶があるかを確かめるようにだろうか?
「俺が船酔いなんかで足を引っ張ったから……」
止めどなく溢れ出る涙で目尻は既に赤くなってきている。涙を拭ってやろうと手を伸ばすも、払い退けられ何処かへ行ってしまった。
「放っておけ」
無道寺は突き放す。俺も彼も平等に、だ。
彼は本当に船酔いで、ボートの中ですら沈んでいたらしい。
記憶を思い出しても靄がかかっている。顔を思い出そうとすると真っ黒に塗りつぶされた写真のように、特定の部分が見えてこない。
本当に壊死してしまったのだろうか……。俺は俺で心配になった。
「これでも食って元気をつけろ」
リュックに入っていた非常食が配られた。
「そういえば、俺の服が無いんだだけど……」
無道寺は無言で樹の上を指差す。何やら布がヒラヒラと……。俺の着ていた服だった。代わりに乾かしてくれたのだろう。近くには焚き火がメラメラと燃え盛っている。俺の体を温めてくれたのは、きっとこれだろうな。
日付は分からない。恐らく8月31日だろう。
俺の心の中の日記に日付をつけ、今日の出来事をそっと仕舞う。
今日とても大事な物を無くしてしまった気がする。きっと彼との思い出のはず。
ここが最後の楽園だと信じて、少しずつでも快復させたい。
何処に行ったのか心配だが、彼の事はさんに任せよう。
乾パンと栄養食品を食べて、リュックから寝袋を取り出して潜る。
寒い、怠い、眠い。本当に冗談抜きで。起きて間もないが、再び夢に飛び込む。
あるはずの記憶を探しに。




