溺水
ボートは、中からオールで漕げる構造だ。
漕ぎ出して早々に、転覆してしまう。だが、上下で同一の構造をしているので、ひっくり返っても平気だ。勿論ひっくり返ったわけだから、首などを捻らないように注意しないといけないが。
唯一の出入り口から多少の海水が入ってくる。せっせと哲さんが掻き出している。
漕ぐのは俺と無道寺だ。
漕いだ所で進んでる気がしない。気休めでもいいから漕いでいるといったところか。
「漕ぐ方向あってるか心配だね……」
哲さんの肉体に宿る方は幼すぎて、健十郎はぐったりしていて応答がない。
「そもそも、渦潮が多すぎて何処に進んでるのか検討もつかんがな」
無道寺が答えてくれたおかげで独り言にならずに済んだ。ここで反応が皆無だったら、陰鬱とした雰囲気に飲まれていただろう。
「それなら俺が外を確認しようか?」
「や、めた方が良い……」
健十郎が苦しながらも俺の身を案じているようで、病人のような顔で俺の肩を掴んできた。
「もしかしたら、逆方向に漕いでるかもしれないよ? 誰かが確認しないと……」
「俺は……お前が、心配、なんだ……」
息を切らしながら、時折吐きそうにもなりつつも言い切る。
「俺は健十郎の方が心配だよ……」
俺等は見つめ合う。意見の対立というものだ。
俺は健十郎を、健十郎は俺を考えているからの事だ。少し嬉しい。まだ温か味は残っている。俺はそう信じて、健十郎の意見を聞くことは出来ない。
「分かっ、た…。でも…、命、綱は、つけろよぉうっ……」
暫く沈黙はあったが、健十郎が折れた。最後まで言おうとした時に俺も気持ち悪いと感じる揺れが起き、健十郎は念の為に持っていた袋に内容物をぶちまける。
どんな匂いがするんだろうか……。
……。
最近、突発的な得体の知れない衝動が込み上げる。変な気持ちを振り払い、紐状の物を探す。
ロープが一本だけだった。それを体に巻きつけていると、健十郎も自分の腰にもう一端を結びつけようとしていた。
「何してるの!?」
「括りつける場所がないから……」
確かに見当たらないが、それじゃあ落ちたら健十郎まで道連れになるじゃないか!
慌ててロープを取り上げる。健十郎に力はなく、簡単に奪えてしまった。
弱々しくも、奪い返しに来る。
「ここにあるぞ」
無道寺に隠れて見えなかったが、引っ掛ける部分が確かにあった。
ロープを結びつけに行くと、覆い隠すものがある。隠れて見えないのではなく、収容されていて見えなかったようだ。他にも何かあるのでは? そう思うには十分なものだったが、他には特に無いようだ。
念には念をと、固く固く結んだ。俺が漕がない分を哲さんに漕いでもらう事になるが、致し方無いだろう。俺が外を見るという事は重心がズレるという事。健十郎には最奥で横になってもらおう。俺も安心できるし、俺の安全具合も上がるのだ。
心配なのか、繋がれたロープを掴んでいる。ロープに体を預けているようにも見える。
それ程に、衰弱している。早く陸地に着かなければ……。
俺は薄い扉と捲り、外を見る。
青黒い海には無数の蟻地獄が見える。水面だけが安全だよ、と暖かな光を返してくる。
顔を出さずに見える範囲には灯台は見えない。最短経路かは分からないが、少なくとも近づいている事ろう。
顔を出して上を見ると、僅かな窪みがある。これに指を引っ掛ければ登れるのでは?
更に身を乗り出して登り始める。奥から声が聞こえるが、出てきはしない。これ言ったらそれこそひっくり返るのが分かっているのだろう。悪いな、健十郎。
灯台は……、うおっ!? 一瞬体が宙に浮いてしまった。相対座標は変わらなかったために着水しなかったが、場合によっては落ちていた。
原因は渦潮に嵌った衝撃だった。非常に丈夫かつ軽いので渦潮の中央に吸い寄せられた後に弾け飛び、その衝撃が気持ち悪さの出処だった。
「どうだった?」
返ってきた俺に問いかけるのは無道寺だ。何も言わないが、健十郎は安心したようで少し目を閉じる。苦しくて寝付けもしないのだろうか、汗だくで呼吸を荒げるのみである。
「大体は合ってた。少し右のオールを強めに漕いで欲しい」
俺は指を指し、灯台がある大凡の方向を示す。巨躯の2人はその方向をイメージしながら漕ぎだす。哲さんも、体はほぼ大人だからか呼吸は整ったままだ。
弱り切っているせいで可愛く見える健十郎と、元気に逞しく無邪気な哲さんを見ていると、触れ合いが少ない俺は無性に欲が湧き出す。それを静止する自分との葛藤のせいで、ぼーっとしてしまった。
「閉めないの?」
哲さんの声で我に返る。完全に入り口を閉じ忘れていた。
俺の真後ろはドッスン便所の如く穴が空き、水洗トイレの如く水が渦巻く。
閉めようとした時、その渦に飛び込み跳ね上がる。ボートと共に落下し始めるが、ひっくり返りはしない。しかし、ひっくり返ってないとも言えない。横向きに墜落したのだから。
足元は……開いたままの入り口だった。
俺はそのまま排泄物としてボートの中から追い出される。
落ちる瞬間、健十郎が哲さんに掴まれ、放出されずに済んだと思われる。
海水に落ちた。苦しい……! 慌てて藻掻き、海面から顔を出す。
命綱のおかげで、ボートと離れずに済んでいる。開いた口からは健十郎が顔を出している。目があったと思ったらすぐに引き戻された。弱った奴が顔を出すのは2次災害につながりかねない。
腹部が痛み始める。強烈な海水の威力によって、俺とボートを引き離す力が加わっているようだ。引かれた紐は結びが更に固くなり、腹に食い込んでくる。このままでは溺死する前に、圧迫死してしまう……。
両手でロープを必至に掴み、それだけは回避する。
両手が塞がった事で、口に海水が入りやすくなった。息が苦しい……。腹も痛いせいで大きな呼吸が出来ない。
水温は高い。だが、体温を奪うには十分だ。長時間の着水はまずい。
あらゆる事が俺の死までの猶予を告げる。もう間も無くだ、と。
塩水が染み、目までも痛い。苦しさのせいで必至にボートに片手を伸ばす。
届きもしないのに、哲さんが手を伸ばしてくる。巻き込みたくない。
その思いが勝り、手を引っ込めた。
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片手で泳ぎ、反対の手でロープを掴む。体感時間のせいで長く感じるが、所詮は僅かな時間なのだろう。灯台が近づいたようには見えない。なのに、腕はもう限界だ……。
渦潮が近づいてくる。ボートにではなく俺の方に。
渦に飲まれた瞬間、両手どころか両足も自由を奪われた。
呼吸が出来ない。肺に海水が入って咽る。空気はない。従って海水が更に入ってくる。
その苦しみは一瞬だった。首に痛みが走り、意識が途切れたる。




