後姿に手を伸ばす
1枚の紙が僕の間の前に差し出された。どこかひんやりとした紙を受け取る。文字は性格が出る。下線が無いにもかかわらず、きちんとまっすぐに並べられた文字。それが、僕にもっと残酷を与える。
『あの子が伝えたかった事を知っているかな?』
真っ直ぐ見つめられたその目に、逸らすなと伝えられているようだった。
『僕は、何も知りません』
その下に、そう書くのが、辛い。
*****
変わらない日常だった。
毎朝、幼馴染のすず音と一緒に近くの高校に通っていた。彼女は長い黒髪と、時折見せる笑顔が魅力的な女性だった。中学生の頃から次第に彼女の人気に火が付いた。それは、高校生になった今、さらにヒートアップしている。その所為で、彼氏でもない、ただの幼馴染の僕は煙たがられている。すず音本人は全くそんな事思ってもいなくて、周りのそんな目も気にしてはいなくて、ただの幼馴染の僕と通っている、という感じである。
僕はそんな彼女に何となく複雑な感情を抱く。これはあくまでも僕の予想でしかない。すず音はポーカーフェイスを気取っているだけかもしれない。心の中では僕の事をただの幼馴染として見ていないのではないのか、と。
しかし、前述の通りに僕が思ってしまうほど、彼女は周りを気にはしていない。周りにも「ただの幼馴染」と伝えているらしい。という事は、僕の淡い期待は残念ながら打ち砕かれる。
それはそうかもしれない。第一、彼氏に見えるわけがない。
ほら、今、すず音は赤や黄色の秋色に染まっていきつつある木の下にいる。風に舞って落ちる、紅葉が紙吹雪のように彼女に色を添える。彼女の黒髪を風が撫でて、彼女が笑顔でその木を見つめる。まるで、動く絵画。
それに比べてこの僕。大きな眼鏡に天然パーマの髪の毛。朝の寝癖は天然パーマに埋もれ、寝癖だか、天然パーマだかわけがわからない。身長は僅かに僕の方が上だが、それでも、それだけ。隣に立って一緒に登校するのが、中学生の頃から少し辛くなっている。
でも、それでも、僕は彼女の隣に居たい。
これは、すず音にとって多大なる迷惑かもしれない。それでも、この気持ちを抑える事なんてできそうにない。伝える勇気はないくせに、こうやって、彼女の隣を死守しようとする。すず音に好きな奴が出来たら、彼氏が出来たら、対抗する事もなくその場を譲るくせに。まだ、すず音からそれを伝えられた事は無いから、それまではこの場所に居たいと願う。
本当は、僕がすず音の隣にずっと居られる人でありたい。
僕はどんな顔で彼女を見ていたんだろうか、すず音はとても心配そうに僕の顔を見つめる。手に持っていたタブレット端末に文字が映る。
『具合、悪いの?』
僕は顔を左右に振った。
『何でもないよ。行こう』
彼女のタブレット端末を持っていない手が僕の目に映る。ここで手を取って歩ける勇気を僕はどうやら持ち合わせていないようだ。そのまま、彼女の視線を背中に感じたまま歩く。すず音は置いて行かれまいと小走りになって僕の隣を歩く。
青い空と、秋色に染まる、木の葉たち。それが、風に舞って僕の目の前を通り過ぎて行く。落ちていくその葉を僕は追いかける。さっき僕は彼女がいると絵になると思った。だけれども、僕と彼女が並んだ途端、この画は美しい絵画とはかけ離れたようになってしまうかもしれない。
ちらりと、すず音の顔を伺う。彼女は前を向いて落ち葉を見送っていた。
ああ、もう学校に着いてしまったのか。
その日の授業も何となく受ける。
特進クラスのすず音とは違い僕は一般クラス。僕の成績は上に行けるほど良くはなく、だからといって、先生から怒られる程悪くもない。何とも中途半端。
幼馴染から恋人になろうとするが、結局何にも行動できていない、こんな僕にはぴったりなものだ。
黒板の脇に置かれたスクリーンに先生が解説の文字を並べている。黒板の文字と、スクリーンに映る文字の中で大切そうなものを選んで書き写す。
淡々とした作業か、と自分で自分にがっかりする。少しは、勉強の事も考えろ、と自分に活を入れる。しかし、それもまた、中途半端だった。
ホームルームが終わり、帰ろうと荷物を詰めた。立ち上がって教室から出ようとすると、見慣れた人物か立っていて、心臓が大きく跳ねる。
『一緒に帰ろう?』
周りの視線が痛いほど突き刺さる。
精神面がそんなに強い方ではない僕は何もできずに固まっていた。それを見ているすず音は首を傾げている。
お願いだ、そんな可愛いポーズはやめてくれ。
思わず、そうタイプしそうになった文字を消して、新しい文字を打つ。
曖昧な笑みと共にそれを彼女に見せる。
『そうだね、早く行こうか』
僕は素早く教室を出る。隣に居るすず音の気配を感じ、足早に校舎を出た。
だいたい、羨ましそうな目で見るが、彼女はどうせただの幼馴染としか思っていない。そんな彼女と帰るなんて、僕の方が辛い。周りはもっと僕の悲しみを理解してほしい。
しかし、一緒に帰ろうと伝えてくるなんて、何かあったのだろうか。こんな僕と一緒に帰ろうとするなんて、先生にでも怒られたのだろうか。
『僕と帰ろうって、珍しいね』
横を歩く彼女の肩を叩いて、その文字を向ける。タブレットで一瞬彼女の表所が伺えなくなるが、すず音の手が握られる。
『それは、』
彼女の手が次の文字を打つところで宙を舞っている。
何が起きているのか分からず、僕は彼女の反応を待つために、何でも無い風を装って歩く。横ではまだ悩んでいるようで、僕との歩幅が合わなくなってきてしまっている。
横断歩道に差し掛かり、信号が青になっていたので渡ろうとすると、その動きを止められた。
『好きな人はいる?』
何事かと振り返ると、動きだけでなく、思考まで停止させられた。
突然何を伝えてくるんだ。好きな人はいるかどうか、だと。これは何か、何かの伏線なのか。周りに誰かいて、ドッキリをしようとしているのか。
僕があたふたとしていると、彼女はまた何か文字を打ち始める。
『今日、同じクラスの子に聞かれて。いつも一緒にいる人が、気になるって』
僕はポカンと間抜けに、半分口を開ける。
随分と珍しい人が居た者だ。僕の事を気にする人は親くらいだと思っていたのだが。普通こういう事は嬉しいものだが、すず音を通して伝えられるとどうも、複雑だ。
何となく下を向く。
彼女はまた何か文字を打っているようで、手が動いている気配がある。僕は改めて思う、すず音が好きなのだと。動きを止められた時、掴まれた裾の感覚がまだ残っている。こんなにも、自分は意識してしまっているのかと、頭を抱える。
その時彼女が動いている気配が消える。僕は少し顔を上げた。
ガシャン
タブレット端末がアスファルトの上に落ちる。
僕は顔をしっかりと上げて彼女の様子を見ようとするのだが、彼女は僕の横を通り過ぎていく。黒髪が視界の端を通り過ぎていく。
僕は振り返ると、目に映るのは跳ねるボールを追いかける小さな男の子の姿。ボールが跳ねる先には赤信号のままの横断歩道があった。車は男の子に気が付くはずもなく、通り過ぎようと、勢いをそのままに走る。男の子はボールを追いかける事に夢中だ。
そして、その男の子に、すず音は走って行った。
止めてくれ。そんな事をしたら、すず音も。すず音も、もしかしたら……!
揺れる黒髪が、僕の瞳に映る。手を伸ばして、すず音を止めようとするが、出遅れた僕の手は彼女の黒髪さえも掴めない。
行くな、すず音!!
クラクションと、タイヤがアスファルトと激しく擦れる音。
宙に、彼女の黒髪が舞った。
すず音は優しいから。
*****
画面の割れたタブレット端末をその人物から手渡される。
それは、間違いなく彼女が持っていたものだった。
『画面は割れてしまったが、僅かだけなら起動するようにしてもらった。電源を入れてみると良い』
僕は恐る恐る、電源のスイッチを入れる。
あの時、僕がもっと反応していたら、彼女を止める事が出来たのかもしれない。もし、彼女の行動を足止めできるような事が出来たのなら。あの時の男の子は救われたけど、僕の心も、彼女自身も救われてはいない。辛すぎる。こんな事。
暗かった画面が明るくなり、割れた画面に文字が並んでいる。割れている画面ではあったが、文字ははっきりと読み取れた。
『好きな人がいなかったら、付き合ってください!』
ああ、僕はまた中途半端だ。
クラスの子に聞かれたのはそういう事なのか。突然僕と一緒に帰りたかったのは、僕と毎日一緒に学校に通ったのは。
僕は、中途半端に彼女を知っていた。伝えなくちゃいけなかった。全部、全部を。
震える手で、その文字の下に文字を打つ。
『喜んで』
画面に並んだその2行は、すぐに暗くなって見えなくなった。
新しく始まりました、短編集です。
この短編集は各話ごとに違う世界を書いていこうと思います。その世界は何かが欠けています。何が欠けているのか、考えながら読んでみるのも面白いと思います。不定期更新となってしまいますが、よろしくお願いします。
ちなみに、今回のお話は「声の無い世界」でした。
読んでいただきありがとうございました。
2015/10 秋桜空