お礼と謝罪
Ⅰ
時計の針を残酷だと思った回数は、今まで食ったパンの枚数よりも多い気がする。時間にして約数時間前、俺は吸血鬼の始祖と熾烈な戦いに興じていた。それで俺は疲れに疲れ切っているし、時よ止まれと何度も心の中で唱えている。
けれど、それで本当に時が止まる筈もなく。長針と短針の兄弟は、いつまでも追いかけっこを続けている。午前零時から始まった兄弟のレースは、すでに長針の兄が七周差を付けていた。そして、煩わしい目覚まし時計の音が鳴り響く。
「あぁーくっそ、うるせぇ目覚ましだな。鶏だってもうちょっと人に気ィ使えるぞ。まったくよ」
今日は全国的に平日だ。学生である俺は、当然ながら高等学校に登校しなければならない。これでも無遅刻無欠席の皆勤賞なんだ。何時までもベッドも魔力に取り憑かれている訳には行かない。
愛しのベッドに別れを告げて、朝の諸々の準備をし始める。洗顔だとか、着替えだとか、色々を済ませ、最後に食卓につく。今日の朝食はトーストと牛乳だ。いつも朝は物足りない。
「あんた、もう一回、顔洗って来たら? すごく眠そうな顔してるけど」
「大丈夫だよ、母さん。何時ものことだから。……おい、晴。牛乳そっちに持ってくなって何時も言ってんだろ」
「ん」
母さんの話を軽く流し、妹の手元にあった牛乳パックを手渡しで受け取る。
何時もと何一つ変わらない朝の風景だ。ここに父さんの姿はない。決まって俺が起床する前に、父さんは仕事先に向かっているからだ。ご苦労なことだと頭が上がらない。俺なら絶対に無理だ。布団の魔力にはそう簡単に抗えないから。
そうしてゆっくりと朝食を取り、そろそろ学校へと向かわなくてはならない時間となる。正直、今日は学校に行きたくない。けれど、今日まで守り抜いてきた皆勤賞が無駄になるのは、それはそれでなんだか嫌だ。
ぐるぐると思考の渦を巻きながら、リビングのソファーで悪あがきをしていると、家の中にインターホンの音が鳴り響く。
「あら、誰かしら。こんな朝早くに」
ばたばたと慌ただしく母さんが玄関に向かい、客の対応をする。しかし、そこで何が起こったのか、母さんはすぐに玄関からリビングのほうへと戻って来た。
「迅。あんたにお客さんよ」
「俺に? 誰?」
「さぁ。見たことない子よ。綺麗な女の子」
「女?」
こんな朝早くから訪ねてくるような女に心当たりはないんだが。けれど、名指しで俺を呼んだってことは、知り合いなんだよな。いったい誰だ? まぁ、行けば分かることか。
ソファーから立ち上がって玄関へと向かう。そうして見付けたのは、思いもよらぬ人物だった。
「怪姫月、か?」
「おはよう」
おはようって。間違っちゃあいないが、その返事はなにか違う。
「どうして此処に?」
「すこし、あなたと話がしたくて。迷惑だったかしら?」
「いや、別に迷惑ってことじゃあないんだが……」
色々と聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず家の玄関じゃあ場所が悪い。ことの追究や話なんかは、登校中にでも済ませるとしよう。
「まぁ、いい。ちょっと待ってろ。すぐに準備してくるから」
怪姫月を玄関に待たせて、自分は階段を上って二階へと向かい、自室に入る。そうして登校の準備を手早く済ませていると、唐突に部屋の扉が乱暴に開かれた。
「迅!」
「おい、ノックしろって何度言えば分かるんだ? 晴」
なんの断りもなく、づけづけと部屋に入ってきたのは、妹の晴だ。
相も変わらず、ノックもせずズカズカと部屋に入ってくる。ここ数年、何度も同じ台詞を言ってきたんだが、なんでうちの妹は覚えられないんだろうか。
「なんで!? なんで居るの!?」
「はぁ? 何のことだよ。主語を使え、主語を」
「なんで玄関に怪姫月先輩がいるのよ!」
怪姫月、先輩? なんで晴が怪姫月の名前を知っているんだ? 部活の先輩後輩関係とか? いや、二年間も吸血鬼と戦っていた怪姫月に、部活をやる暇があるとは思えないし。意外と有名人なのか? あいつ。
「俺に話があるんだとよ」
「話? 怪姫月先輩が? 死後に怠惰の罪で地獄に落ちそうな迅なんかに?」
「人を七つの大罪みたいに言うな。なにが怠惰の罪だ、まったく。俺は面倒臭がり屋なだけで、怠惰なんかじゃねーんだよ」
そうこう話しているうちに、登校の準備が整う。
「ほら、退けよ。通れないだろ」
「待って、まだ話は終わってないっ」
「まだ何か聞きたいのかよ。それなら学校が終わってからにしてくれ、玄関に待たせっぱなしじゃあ怪姫月に悪いだろ」
「ぐぬぬ……分かったわよ。でも、帰ってきたらちゃんと話なさいよね!」
「はいはい」
軽く妹をあしらいつつ、階段を下って玄関に戻る。
「待たせたな」
「それほど待ってないわ」
そうして二人揃って家を出て、学校まで伸びる通学路を進んでいく。何時もと変わらない朝だと思っていたけれど、時には思いがけないことが起こるものだ。まさか、家に直接訪ねてくるとはな。
「一応、聞いておきたいんだが、どうして俺の家が分かったんだ?」
「先生に聞いたのよ」
「先生に? 昨日の今日でか? ……ってことは、お前もしかして学校から引き返してきたのか? この時間帯に」
「えぇ」
えぇ、って。
わざわざ早朝に学校に登校して、先生から住所を聞き出したのか。それもそこから更に、俺の家まで通学路を逆走するとは。いったいどれだけ早起きしたんだ? というか、よく教えて貰えたな、俺の住所を。
「まぁ、それはそれとして、だ。話って言うのは?」
「昨日のことのお礼と、あとは謝罪の話」
謝罪? お礼は分かるが、謝罪とは。
「まず、改めてお礼を言わせてもらうわ」
そう言うと、怪姫月は俺の目の前にまで移動すると、深々と頭を下げた。
「心の底から、あなたに感謝しています。私を吸血鬼から救い出してくれて、本当にありがとう御座いました」
「あぁ、どう致しまして」
俺は昨日と変わらない言葉を返した。
それ以外に、言葉が思い付かなかったから。
「そして、ごめんなさい。私はあなたを攻撃したわ」
「攻撃? ……あー、アレか。初対面の時の」
俺と怪姫月が知り合う切っ掛けとなった、あの屋上での一件。誰も巻き込むまいと、あえて総てを突き放そうとしていた怪姫月は、加勢に入った俺を攻撃した。まぁ、実際の所は、俺の口を閉じさせようと威嚇しただけなんだが。
俺はキャラクター化を解いていたから、振るわれた剣に傷付けられることもなかったし。
「本当に、ごめんなさい」
「いいよ、そんなこと。今の今まで忘れていたことだ。気にしなくて良い」
「でも」
「俺は良いって言ったんだ。許したってことだぜ、それは」
それ以上の謝罪を許さないため、俺は怪姫月の隣を通り過ぎる。立ち止まって、謝罪を受けるのは一回だけだ。それ以降は聞く耳もたない。もつ必要もない。俺は怪姫月を許したんだ、それ以上の謝罪は不粋というもんだ。
それに過剰な感謝や謝罪は面倒だ。
「ほら、行こうぜ。遅刻しちまうよ」
「……えぇ、そうね」
そう返事をした怪姫月は、どこか微笑んでいるように見えた。
気のせいかな。
Ⅱ
「おい! 大上! お前、どう言うことだよ!?」
怪姫月と別れて自分のクラスの扉を開けると、クラスメイトの何人かが詰めかけて来た。それはもう凄い勢いで、電車に乗り遅れそうなサラリーマンの如く、押し寄せた。
「お前、恋愛なんて面倒だって行ってたじゃあないか!」「やっぱりお前も年頃の男だな! この裏切り者ッ」「ふざけやがって! よりにもよってお前……」「どうやってだ! どうやって取り入った!」「何時からだよ! 何時からそんな関係だった!」
こいつら一斉に喋り出しやがって。
「お前ら揃いも揃って主語が使えない呪いにでも掛かってんのか。訳が分かんねーよ、自分の中だけで話を完結させるな。きちんと順序立てて分かるように一人ずつ喋れ。俺は聖徳太子じゃあねーんだよ」
とりあえず言いたいことを吐き出して、その後クラスメイト達を落ち着かせる。
そうしてから場所を俺の席に移し、一人一人順番に話すことが出来る体制を整えた。何をそんなに騒いでいるのか。その原因はなんなのか。それを知るために、クラスメイトから話を聞き出した。
「はぁ……お前等って奴は、ホントにさぁ。馬鹿じゃあねーの?」
話を聞いて、思わず溜息と一緒に本音が漏れた。
「なんだ? 勝者の余裕か? それが彼女を得た男の余裕って奴ですかー?」
「つっかかるなよ。だいたいさ、話が飛躍しすぎてるんだよ。なんで今日一日一緒に登校しただけで、俺が怪姫月と付き合ってることになるんだよ。お前それ、手を繋いだから結婚しろ、とか言い出す小学生とまるっきり同じ思考回路だからな」
高校生にもなって馬鹿馬鹿しい。というか、噂の伝達速度が速すぎるんだよ。なんで教室に入った時点で、大半のクラスメイトが怪姫月と登校したことを知ってるんだよ。可笑しいだろ。
「ほー、つまり俺達は小学生なみの知能しかないから彼女が出来ないんだと、そう仰っているんですね。高校生様は」
「ああ、ありがたや、ありがたや。この身に染み渡る格言ですわー、座右の銘にしなくちゃ」
「俺、今後の人生その言葉だけを支えに生きていくわ。まるで闇に射す一条の光の如し」
「お前等、終いには本当に殴るからな」
あぁ、面倒だ。本当に、この上ないくらい面倒臭いことになっている。
しかし、何故だ。どうしてこんなに騒がれる。たかだか異性と一緒に登校しただけで、色恋の話に直結するとはどう言うことだ。こいつらの脳味噌が小学生並のお花畑なら納得もするが、そんなことは流石に有り得ない。
何か理由があるはずなんだが、それを考えることすらも面倒臭い。
「……そう言えば」
晴の奴も、怪姫月の訪問に驚いていたっけ。学年が違うのに、名前まで知っていたな。
「なぁ、ひょっとして怪姫月って有名人なのか?」
「は?」
そう問いかけると、周りのクラスメイト全員に目を丸くされた。まるで信じられないモノでも見るような目だ。その反応を見て、予想は確信に変わった。怪姫月夕は、この学校じゃあかなりの知名度を得ているらしい。
「なぁ、本当に知らないのかな? これ」
「あぁ、大上のことだ。たぶん、本当に知らない。愛とか恋とか面倒臭いって言い切る奴だぞ。こう言う類いの話にはまるで興味がないから、知らなくても可笑しくない」
クラスメイトの目に哀れみ帯びたのを、俺は見逃さなかった。
後で覚悟しておけよ。
「いいか? 怪姫月夕と言えば、この学校で一二を争う美少女だ。容姿端麗、才色兼備って奴。でも、有名なのは容姿がいいからじゃあない。周りに人を近寄らせない、氷みたいな性格にあるんだ」
「氷みたいな性格、ね」
確かに、あの時の怪姫月はそうだった。
吸血鬼の襲撃に誰も巻き込まないように、人との関わりを断ち、拒絶していたのだから当然だ。ヴァンパイア・オリジンが倒れた今、その必要も無くなった訳だが、はてさて怪姫月に変化はあったんだろうか。
「大上? 聞いてんのか?」
「あ、あぁ、ごめん。続けてくれ」
改めて耳を傾け直す。
「常に鋭くて冷たい目をしてて、誰とも関わりを持とうとしない女子生徒。女って奴は殆どが群を作るけれど、怪姫月夕だけはそうしなかった。ぼっちって訳じゃあない。あれは孤高というもんだ。まさに高嶺の花って言葉がぴったりだろ? そいつは人を惹き付ける。だから、怪姫月夕は有名で、密かな人気を誇っているんだ」
他の女子生徒にはない特徴を持った美少女。誰とも関わりを持たないミステリアスさは、たしかに人を惹き付けるだろう。人間は得体の知れないモノや、手の届かないモノに憧れ、焦がれるものだ。
俺にはまったく理解できないけれど、人間はそう言う風に出来ていると、何かの本で読んだことがある。たぶん、それこそ怪姫月がこの学校において有名な理由だ。
「ところが、だ。そんな怪姫月夕が今日になって突然、異性の男子生徒と登校したって言うじゃあないか。それも談笑しながら、笑みまで浮かべている。今まで何人もの男が挑戦しては惨敗していった不沈艦を、お前は落としたんだよ。大上!」
「だから、別に落としてないって言ってるだろ」
だが、事の経緯は理解した。
俺は鯛を釣った、と思われている。長い間、水面に糸を垂らし続けていた釣り人達の目の前で、ついさっきやって来た奴がいきなり鯛を釣り上げた。そうなれば騒がれない訳がない。例えそれが間違いであっても、舞い上がり、興奮し、暴走した奴等による噂の流布は止まらない。
まったくもって面倒臭い。こいつはなんの冗談だ。勝手に勘違いして、勝手に盛り上げて、煩わしいことこの上ない。どうにかして誤解を解かなければならない。人の噂も七十五日と言うが、約二ヶ月半もの間、学生生活が地獄と化すのは勘弁願いたい。
「怪姫月とはちょっとした偶然があって知り合ったんだ。飽くまでも知り合い。それ以上でも以下でもな――」
それ以上でも以下でもない。そう言い切ろうとした所で、俺は目にしてしまった。廊下を颯爽と歩く怪姫月の姿を、教室の窓越しに。どうしてこのタイミングで、と思ったのも束の間、よりにもよって怪姫月はこの教室に足を踏み入れた。
一同がぽかんとそれを眺めるなか、一直線にこちらに向かって来る。
「お昼休み、時間は空いているかしら?」
「あ、あぁ、空いてる……けれど」
「そう。ならお昼休みに、屋上で待ってるわ」
そうとだけ言い残して、怪姫月は踵を返して来た道を戻っていった。
水を打ったかのように、教室内が静まり返る。それは嵐の前の静けさと言うもので、クラスメイトの視線が一斉に、教室の出入り口から俺のほうへと向かう。俺はこれから起こるであろう未来を悟り、頭を抱えたのだった。
「どう言うことだ! 言ってることとまるで違うじゃねーか!」