青と赤
Ⅰ
現実世界がゲームに浸食されたのが何時だったのか、それを明確に知っている者は誰もいない。
ストレージ・オブ・ロストワールドのオンライン化は、プレイヤーにその事実を知覚させた切っ掛けに過ぎない。この作品が商品化された時点から浸食は始まっていたのかも知れないし、もしかしたらそれ以前から浸食されていたのかも知れない。
とどのつまり、事実は神のみぞ知ると言った所だ。
しかし、オンライン化から約三年が経った現在において、事の真相以外にプレイヤーが知らないことはほぼないと言っていい。以前の新種などを除けば、全モンスターの攻略法も確立されている。
主な情報源は、ストレージ・オブ・ロストワールドの攻略サイトにある。ここには俺と同じ境遇のプレイヤーが多数いて、情報共有を活発に行っている。端から見ればただの攻略サイトなので、特に怪しまれることなく堂々と話し合えるのが魅力的だ。
内容を他者に不審がられても、そう言う自由度の高いゲームだからの一言でなんとかなる。
「さて、と。面倒だが、始めるとするか」
太陽がなりを潜め、月が顔を見せる時間帯。俺は心安らげる愛しのベッドから降りて、夜空の下に出て来ていた。
本当なら一番、布団に包まっていたい時間だが、学生は基本的に一日が二十四時間では足りない。空いている時間は今しか無く、致し方なく外に出て行っている。まぁ、時間が此処まで遅くなったのは、ひとえに俺が外出をずっと渋っていたからなのだけれど。
面倒なことを後回しにすると、本当に休みたいときに休めなくなる。いい教訓を得た。
「最近サボりぎみで手持ちの金も少なくなってきたし、今日は実入りの良い奴が標的だな」
面倒臭がり屋な俺が、至福の時間を犠牲にしてまで外出したのには理由がある。
本来、ストレージ・オブ・ロストワールドをプレイしていて手に入るゲーム内通貨はリレと名付けられている。しかし、現実世界に浸食した影響からか、そのリレという通貨の単位が現実の通貨単位に置き換わった。
これは現実で実際に使用できる歴とした本物の金だ。オンライン化の際に既存データの引き継ぎで、元から所持していた金額がそのまま現地の通貨単位に変換され、個人口座に振り込まれている。個人口座を持たないものでも、作れば自動的に金額分が振り込まれるらしい。
とにかく、ゲーム内通貨に過ぎなかったものが、現実の金として手に入る。これが面倒臭がり屋の俺が、至福の時を犠牲にしてまで外出する理由だ。でなければ、俺は布団の魔力に取り憑かれ、明日の朝まで出ることはなかっただろう。
そもそも危険を冒してモンスターと戦う理由も、俺の場合はそれ一点のみだ。
「ミニマップ表示」
その言葉と共に、薄っぺらい立体として正方形のミニマップが目線の高さと同じ位置に現れる。これは実際に触れるし、掴めるし、空中に固定しながら動くことも出来る優れ物だ。
ミニマップにはこの辺の地理と、キャラクター化したプレイヤー、モンスターなどが表示されている。プレイヤーは青、モンスターは赤の点で表わされ、今もマップ内を動き回っている。
「おー、おー、ご精が出ておりますなー」
マップ上に青い点が三つほどある。そのどれの近くにも赤い点が幾つかあった。今日も今日とて張り切ってモンスターと戦いましょうって感じだ。俺にはとても真似できないことだが。
「他のプレイヤーがいない場所で、尚且つ実入りの良いモンスターの分布は……この辺だな」
適当に当たりを付けて移動を開始する。民家の屋根から民家の屋根へと飛び移りながら、最短距離を通って目的地へと向かう。移動はこの方法に限る。キャラクター化しているからこそ出来る芸当だ。
身体が軽いし、足も速くなるし、純粋に身体能力が上がる。良いことだらけだ。
「よいしょっと」
目を付けた場所の付近に到着し、ミニマップに再び目を向ける。周りに青い点はなし、だが赤い点はしっかりとある。上出来な狩り場だ。他の誰かがくる前に、ちゃっちゃと金稼ぎといこう。
屋根から道路を眺め、すぐ下にいるモンスターを見下ろした。
コガネモチという名の人型モンスターが三体ほど徘徊している。ゴブリンの一種で、タキシードを纏い、腕に高い時計を、指に宝石の指輪を付けたデザインのモンスター。通称、ナリキン。こいつを倒すと多くの金が手に入る。ドロップアイテムも、入手にかかる手間を考えれば悪くない値段になる。
今日の獲物はこいつ等だ。
「出来るだけ早く、一撃で」
右手に剣を携えて、深く息を吐く。
視線で獲物を捕え、息を止めたまま音もなく落ちる。
着地、同時に眼前のナリキンを斬り伏せ、地面を蹴った。間髪入れずに二体目のナリキンに肉薄し、その胴を剣で撫でる。振り切ったその剣のまま脇を駆け抜け、三体目のナリキンを叩き斬った。刃は上等な衣服を斬り裂いて、その肉体を消滅させる。
「よし、全部一撃で仕留め、たぁ……ぞ、と。あーあ、せっかく上手く行ったと思ったんだけれど――なッ」
背後から極太の棍棒が振り下ろされる。それが俺の頭をかち割る前に、攻撃の気配に気が付いた俺は、その場から直ぐに飛び退いた。そうして改めて敵と向かい合い、その全貌を視界に納める。
緑色の皮膚をした巨大な体格に、丸太のように太い四肢。自身の身長ほどある棍棒を携えた、他のゴブリンとは一味違うデザインの人型モンスター。名前はウデップシ。通称、ヨウジンボウ。こいつはナリキンが呼ぶ用心棒で、ナリキンに攻撃を仕掛けるとどこからともなく現れる。
こいつの厄介な所は、呼び出したナリキンが消滅しても戦闘を止めないことだ。忠義に篤いんだか、給料分の仕事はする主義なのか。どちらでも良いが、プレイヤーとしては面倒臭いことこの上ない相手だ。
無駄に体力が高いし、防御もそこそこ。攻撃モーションは遅鈍だけれど、当たると結構痛い。そして、こいつは倒しても金を落とさなければ、アイテムすらドロップしない。
「ったくよ。今夜はこれかだってのに、出鼻を挫かれたって感じだ」
ミニマップのお陰で不意打ちを喰らう前に、ヨウジンボウの存在に気付けたことが不幸中の幸いだ。
「まぁ、いい。その無駄についた筋肉、全部削ぎ落としてやるから覚悟しろ」
ヨウジンボウは諦めが悪い。どれだけ逃避を計っても、延々と追いかけてくる。デカい体格をしているぶん歩幅も広いので、移動速度もかなり速い。面倒臭がってこいつを無視すると、返ってもっと面倒なことになる。
まだ狩りを続けなくちゃあならないし、こいつは此処で処理しておくのが正解だ。
「グォオッォオォォォォォォ!」
咆哮を上げてヨウジンボウが繰り出したのは、独楽のような攻撃だった。上半身を捻るほど棍棒を大きく振りかぶることにより発生する、最大威力を孕んだ薙ぎ払い。それは風を作りながら、力の濁流となって押し寄せる。
だが、それは幾度となく目にし、体験してきた攻撃だ。故に、経験則から避けることも、反撃に転じることも容易く。その棍棒による薙ぎ払いを、道路にへばり付くようにして回避し、その状態から四肢をバネにして跳び上がる。
あの薙ぎ払いは高威力だが、攻撃後の隙がデカい。僅かだが生まれた反撃の時間、それを見過ごすことなく有効活用し、ヨウジンボウの頭上を越えて、空中にて背後を取る。
腕力に落下の勢いを乗せて振り下ろした剣は、その浅黒い緑の背中を深く斬り裂いた。アジの拓きのように縦に傷を刻みつけ、傷口から噴き出した血液が飛沫となって道路に降り注ぐ。その最中、着地した俺は直ぐさまヨウジンボウの脇を駆け抜ける。
擦れ違い様に浅く斬り付け、正面に躍り出ると続けざまに腹部に真一文字の傷を刻む。だが、連続攻撃が成功したのもそこまでだった。続く攻撃を仕掛けようとしてた際に、俺は拳による攻撃を避けきれなかった。
咄嗟に反応して両腕で防御はしたものの、数メートルほど強制的に後退させられる。
「いッ――てーな、この野郎」
自分自身の命の残量、体力が減少したのが感覚的に理解できた。防御が成功したから受けたダメージは少ないが、両腕がじんじんと痛む。攻撃を受けた箇所が、リアルな鈍痛に襲われている。
殴られたのだから当然だ。当然、痛くなる。
「棍棒にしか目が行っていなかったけれど。そういや、そんな攻撃も出来たっけな」
割に合わない。これだから、頻繁にナリキンを狙わないんだ。
実入りが良いが、ヨウジンボウが出て来るとすごく煩わしい。この煩わしさが、俺に取っては致命的。もう既に嫌になってきている。やっぱり面倒なことを後回しにするのは良くない。結局、たまったツケを払わされるんだ。
「まぁ、ドラゴンや巨人を相手するより遥かにマシか」
気分を入れ替えて仕切り直し。
ヨウジンボウの残り体力は、流血ダメージを加味して残り半分と言った所だ。けれど、すでに刻みつけた傷は塞がっている。そう何時までも流血ダメージは続いてくれない。失った体力が回復する訳じゃあないが、傷はすぐになくなり出血しなくなる。
この現実世界でも、そう言う風にモンスターは出来ている。
剣を逆手に持ち替えた。そして、踏み抜くように地面を蹴って急加速。道路上を駆け抜けて、ヨウジンボウに肉薄する。狙うは、俺の接近に会わせて振り上げた右腕の関節だ。十分な間合いに踏み込むと、その足で跳躍して自分と定めた攻撃箇所の高さを合わせる。そして、力の限り剣を振るった。
「ゴガッ!?」
刀身はヨウジンボウの腕に深く食い込み、斬り裂き、骨まで断つ。結果、その腕は握り締めた棍棒ごと宙を舞う。肘から先を無くしたヨウジンボウは驚愕の声音を上げ、血の噴水で足下を赤く染め上げる。
着地、直ぐさま斬り返す。刀身を翻して背中に二の太刀を刻み付け、更に振り上がった剣を逆手から順手に持ち替える。それを振り下ろそうとした時、背後に回った俺を攻撃しようと、ヨウジンボウはこちらを振り返った。
だから、最後の一太刀は頭の天辺から顔面の正中線上をなぞり、まっすぐ下まで通る。その一閃は致命傷となって、総ての体力を削りきった。
「あぁー……めんどかった」
眼界に収まるヨウジンボウは、徐々にその存在を失い。霞のように、幽霊のように、消滅していく。特に珍しくもない光景を前に、ただ倒したという事実確認のため、それをじっと見つめながら剣を鞘に押し込んだ。
「ん?」
後方で何か音がしたと思い、振り返る。
「うおッ!?」
瞬間、胸を打つ衝撃と、身を攫うような力の流れに押し出された。自身の身体で受け止めた何か。その勢いを殺すため、靴底で道路を滑り続ける。距離にして数メートルほど、道路上をスケート選手のように移動し、勢いを殺し切った。
「なんなんだ、いったい」
何事が起こったのか。それを確かめられたのは、身体が完全に停止した後のことだった。
「……よう、久しぶりだな。怪姫月、夕」
俺の腕の中にあったもの。俺が咄嗟に受け止めたのは、以前、屋上で会ったことのある怪姫月夕、その人だった。キャラクター化している所を見るに、近くで狩りをしていたか、もしくはまた吸血鬼に襲われていたか、だ。
「また、あなたなの……大上、迅」
彼女はうんざりと言った風に呟いた。
そんな風に人の名前を呼ぶな。
「それはそうと、お腹に手を回さないでくれるかしら?」
「こいつは不可抗力だ」
意図的に回したんじゃあない。結果的に、そうなっただけだ。
「それで? なんでお前は地面と水平にバンジージャンプなんて器用なことしてたんだ?」
「この有様を見て分からない? ……攻撃を受けたのよ」
口調は相変わらず剣呑としているが、その声音は弱々しい。相当な痛手を負ったようで、目には見えないが体力も相当削られていると見たほうがいいだろう。腹に回した手を退けろと言いつつ、成されるがままになっているのが良い証拠だ。
怪姫月夕はまともに動けないくらいダメージを負っている。何者かに、負わされていた。
「受け止めてくれて、どうもありがとう御座いました。私は大丈夫なので、手を離して下さい。そして一刻も早く私の前から姿を消してください」
突き放すように、彼女は言う。
「そうしたいのは山々なんだが、本当に山々なんだが、どうもそう言う訳にも行かないみたいだ」
表示させていたミニマップの上半分が、真っ赤に染まりつつある。数えるのも億劫になるほどの赤い点が蠢いている。この赤いのすべてがモンスター。まるで百鬼夜行にでも出くわしたみたいだ。
この女は一体どんなイベントフラグをおっ立てたんだ?
とにかく、怪姫月夕を此処に置いていく訳にはいかない。此処で見捨てたら絶対に今後の至福の時が台無しになる。途轍もなく、尋常じゃあないくらい、とても面倒なことだが、彼女を連れて逃避を計るしかないだろう。
「あぁ、もう、厄日だ……」
怪姫月夕の両足を掬い上げて抱く。
「きゃっ」
なんだかイメージに似つかわしくない声が聞こえたような気がする。が、気のせいだろう。
そうして動きやすさをある程度、確保して視線をミニマップに移す。赤い点の群衆が織り成す波が、直ぐ近くにまで迫っている。夜の視界で目視できる位置にはいないが、その輪郭が見え始めるのも時間の問題だ。
「しっかり捕まってろ。落っことしても拾わないからな」
足にぐっと力を加え、高く跳躍した。着地点は道路上ではなく、民家の上だ。此処に移動してきたように、屋根の上を移動することで逃走の最短距離をいく。
キャラクター化すれば女の一人ぐらいなら重さを特に感じることなく動くことが出来る。今なら抱き上げた怪姫月夕に、気の利いた一言でも言えそうなものだが、生憎、俺はそんなに紳士じゃあない。
「……これも、あなたの自己満足?」
その目付きは、鋭い。
「あぁ、だから大人しくしてろよ。まったく、面倒なこった」
飽くまで自分の都合だと、そう彼女に説明しつつミニマップに目をやった。
全速力で最短距離を進んでいるからか、徐々にだが赤い波を引き離せている。このまましばらく屋根の上を飛び移っていれば、振り切ることは出来るだろう。とりあえず、一息は付けそうだ。