瞼を閉じて
PK集団の一員である女と対峙してから、約一週間ほどの時間が過ぎた。
あれほど危機的な一夜を体験しても、時計の針は遅く進まない。相変わらず短針と長針の兄弟は、いつまでも追いかけっこを続けている。いつも通りに時間が過ぎ、いつも通りの日常が過ぎていく。
だが、あの一夜は確実に俺の日常を少しだけ狂わせていた。
「どうしたもんかな」
早朝の通学路、ふと仰ぎ見た空は曇天だった。
あれ以来、部室には近寄っていない。怪姫月とも、風上とも、会っていない。理由はなんとなく、だ。なんとなく、会えなかった。いや、違う。理由は簡単だ、二人の前であの女を撃ち殺したからだ。
殺した。それが例え仮想の殺人であっても、俺は紛れもなくあの女を殺したのだ。なのに、その翌日から何事もなかったかのように振る舞えるほど、俺は器用な人間じゃあない。それが出来るのは感情のない人形だけだ。あるいはロボット、アンドロイドの類い。
とりあえず、時間が欲しかった。心に折り合いを付けるための期間が必要だった。俺にとっても、怪姫月や風上にとっても。
「あぁー……面倒だ」
うだうだと独り言を呟くうちに、学校に到着する。
最近は教室もあまり五月蠅くない。相変わらずクラスメイトは噂に踊らされているけれど。風上の入部で一応、不純異性交遊の悪質な噂はなりを潜めつつある。その分、俺が二股を掛けているだとか、ハーレムを作っているだとか、言われ放題ではあるが。
「よう、大上。どうした? 元気ないぜ」
「あぁ、まぁな」
教室に入るとクラスメイトとの会話をそこそこに席につく。
「本当にどうしたんだ? らしくない」
「なんでもねーよ。ちょいと気分が沈んでるだけだ。そう言うのってあるだろ? 訳も無く凹んだり、やる気がでない時って」
「そりゃあなー。でも、困ったら相談に乗るから遠慮すんなよ」
「あぁ、その時は世話になるよ」
普段は騒がしいくせに、こう言う時だけ親身だよな。ありがたいことだが。
そんな風に思いつつ、授業開始までの時間をぼーっと過ごしていると、教室の入り口の方から、にわかに聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「大上先輩はいますか?」
この状況に既視感を覚えながら、ゆっくりとそちらの方を向く。すると、案の定、教室の入り口に、風上の姿をみた。相変わらずのだしない格好で、そこに立っている。
「どうした? 風上」
イスから立ち上がって風上の近くにまで歩み寄る。
「お話があります。お昼休みに屋上に来て下さい。絶対ですからね」
そうとだけ言って、風上はこの場から去って行った。
物凄く、既視感を覚える。怪姫月がこの教室を訪れた時と目的も同じだ。と、くれば、当然ながら後の反応も似たり寄ったりになることは容易に想像がつくわけで。俺は恐る恐る振り返り、教室の様子をみた。
「大上、お前……」
「気分が沈んでるって、また女絡みかよ」
「なんだ? 恋煩いかなんかか? お?」
「これは尋問が必要ですねぇ」
そう言って、にじりよってくるクラスメイト。
「もう勘弁してくれ……」
その後、昼休みが来るまで俺は耐え難い時間を過ごすことになった。
最後の最後まで怪姫月の時とまったく同じ焼き直しの展開になってしまった。疲れる。滅入ってしまいそうだ。そのうち心労が祟って死ぬんじゃあないかな、俺。
とは思うものの、人間そう簡単に死ぬはずもなく。昼休み、俺は風上の言う通りに屋上へと向かった。階段を上り切り、扉を開けると宣言通りに風上がそこに立っていた。
「どうしたんだ? いきなり呼び出したりして」
「どうしたんだ? は、こっちの台詞です。どうして部室に来ないんですか? 大上先輩の同好会でしょう」
「あー、それはだな。……色々とあるんだよ、俺にも」
返答に困り、曖昧な言葉しか出てこない。
「色々ってなんですか」
「色々は色々だ」
頑張って言い訳を考えるものの、お茶を濁すことしか出来ない。そう言う返事しかしない俺を見て、業を煮やしたのか。風上は直接的で、核心的なことを、単刀直入に切り出した。
「あの女を殺したのは正当防衛です。あたしの次は、きっと怪姫月先輩か大上先輩でした。それに……仮想の死は、現実の死ではありません」
「あぁ、そうだな」
あの女はイカレていて、狂っているサイコパスだ。
常人には理解できない思考回路で動いている。感受性もまた、異なっているだろう。あの女が一度や二度、仮想の死を味わった所で、精神が壊れることも、自ら死を選ぶことも、おそらく無いであろうと容易に想像がつく。
だが、問題は、本当の問題はそこじゃあない。
「あたしは、気にしていませんよ」
そんな俺の心を見透かしたように、風上は言う。
「大上先輩はあたしを助けてくれたんです。そのために、引金を引いた。その行動を、その行為を、あたしは必要なことだったと思っています。もちろん、怪姫月先輩も」
「そう言ってくれるのは……ありがたいな」
しかし、そうは言うものの、そうは言ってくれているものの。だが、やはり、普通の人間にたった一週間で、人を撃ったことを吹っ切れと言うのは無理な話だ。二人が何とも思ってないと知ってなお、俺があの時に作ってしまった隔たりは埋まらない。一方的な線引きは越えられない。俺はイカレていなかれば、狂ってもいないのだから。
人を殺す瞬間を親しい人間に見られるというのは、途轍もなく強烈だ。
「……ダメですね、これは」
「何がだ?」
「どれだけ言葉を尽くしても、考えを変えられそうにありません。大上先輩って、意外と頑固なんですね。いいです。分かりました。こうなったら最終手段です」
「最終手段?」
一体なにをする気だ?
「少しばかり目を閉じてください。大上先輩」
「どうして」
「あたしはあの時、大上先輩を信じましたよ」
「……分かったよ」
何をする気か皆目見当が付かないが、とにかく言う通りにしよう。
俺は風上を収めていた視界をゆっくりと閉じ、瞼で覆った。すると、今度は「両手を広げて下さい」と言われ、大人しくそれに従った。風上に「これでいいか?」と聞くと「はい」と返事が返ってくる。
「それで? 俺はこれからどうすればいいんだ? ブレイクダンスでもしてやろうか」
「それはそれで見てみたいですけれど。答えはこうです」
そう言って、その次に聞こえて来たのは、ごく短い声だった。
「えい」
胸に生じる軽い衝撃。背中に回される細い腕。何やら柔らかい感触。目を閉じていても分かる。むしろ、死角を遮断しているぶん、余計に今の状況が鮮明に理解できた。なぜかは良く分からないけれど、俺は風上に抱き締められていた。
「……おい、風上」
「なんでしょう」
「お前は何をしてるんだ?」
「抱き付いています」
「知ってる。俺が求めている答えはそれじゃない」
両手の置き場に困ったのは初めてだ。
「口で言って分からないなら、行動で示すべきだと思いまして」
「で、抱き付いたと。風上、お前、自分が女子高生だって分かってんのか?」
「はい、女子高生の武器をフル活用です。利いたでしょう」
「強烈だな」
色々と予想外のことがありすぎて、若干混乱気味だ。
「あぁ、でも勘違いしないで下さいね。誰にでもこんなことしている訳じゃあないんで。これは弟とあたし。姉弟二人の命を救ってくれたあなただから、したことです。でなきゃ出来ませんよ、こんなこと。あ、目は閉じたままでお願いします。顔、見られたくないんで」
「はいはい」
恥ずかしいなら、やらなきゃ良いのに。まったく、困った後輩だ。
「これで分かって貰えましたか?」
「あぁ、分かった。理解したよ。後輩に此処までされたんだ、今日からきちんと部室に顔を出すよ。それで良いんだろ?」
「それで良いんです」
満足そうな声音をして、風上は俺から離れた。
「絶対ですからね。あたし、待ってますから」
「あぁ。ところで、俺は何時まで目を閉じてれば良いんだ? 風上後輩」
「ふふっ、それはですね。大上先輩、あたしが此処からいなくなってからっス」
そう聞こえると、断続的で軽やかな足音が耳に届いた。
どうやら風上後輩は、最後まで赤面した顔を見られたくなかったらしい。足音が遠くなり、目を開けてみると屋上に風上後輩の姿はなく。開けっ放しの扉だけが、唯一の痕跡だった。
走り去るくらい恥ずかしかったのか。
「……さて、戻るとするか」
閑散とした屋上を一望し、風上後輩に続くように校舎に入り階段を下った。一段、一段、位置を低くしながら歩いていると、その果てでもう一人の部員の姿を見る。壁を背もたれにし、本を読む姿はもはや見慣れて久しいものだ。
「可愛い後輩に慰められた気分はどう?」
「趣味が悪いぞ。けど、まぁ、悪くはなかったよ」
「そう。なら、心配いらないわね。私も部室で待っているわ。それじゃあね」
そう言ってぱたりと本を閉じた怪姫月は、颯爽とこの場を去って行った。
二人には面倒を掛けた。しばらくは頭が上がりそうにない。とりあえず、色んなことに寛容になってみるかな。二人の要望には、出来る限り応えることにしよう。まぁ、それでもあの二人の性格上、多くは望まれないだろうけれど。
「面倒なことだ」
こうして俺は、本当の日常を取り戻すことが出来た。