引金
Ⅰ
「……なぜ、斬らない」
「お前こそ、どうしてそのナイフで俺を刺さない」
刃は、互いの得物は、肉体にまで到達しなかった。何かに阻まれた訳でも、妨害された訳でも無い。自分の意志で、俺達は攻撃を、戦いを止めた。
「その剣から冴えが失せたと、あの瞬間わかったからだ」
「なるほど」
だが、まだそれでは不十分だ。
「お前は何故、剣を止めた。なぜ、斬らない」
「探求者。お前はたしかに、俺のことをそう呼んだからだよ」
探求者。それはストレージ・オブ・ロストワールドに存在する名称だ。主にプレイヤーのことを指す言葉で、ゲーム内でも事あるごとに多用されている。そして、ここからが問題なのだが、プレイヤーを探求者と呼ぶのはゲーム内のNPCだけだ。
プレイヤー間でふざけ合い、そう呼ぶこともあるが、あの場面で探求者と呼ぶのには違和感がある。もしかして、と思う程度の微かなものだが、確かめる価値はある。この目の前にいる白髪紅眼の男がNPCか否かを。
「お前、やけに流暢な日本語を話しているが出身は何処だ?」
「……アウレゴウル教会跡地」
「そう、か」
アウレゴウル教会跡地。
それはゲーム内で俺達プレイヤーが幾度となく目にし、耳にしてきた地名だった。
「すまなかった。どうやら勘違いしていたみたいだ」
俺は寸前で止めていた剣を鞘に押し込み、発動中のスキルを解いた。左手から伸びていた鎖が消え失せ、奴の右腕を貫いていたフックの部分も掻き消える。装備した仮面も、此処で外して素顔を見せた。
そうして敵対の意志はもうないと、そう示した。
「俺はてっきりお前がPK集団の一員だと思っていたんだ」
「P……K……」
「あー……そうか、こっちの用語か。えーっと、つまり殺人集団の一員だと思っていたんだ。あの女性を、快楽目的で殺そうとしていたんだと、そう勘違いをした」
けれど、そうではないと先の戦いで分かった。
この男は快楽に酔って人を殺すほど狂っていない。あの時、俺がナイフで刺されなかったのが言い証拠だ。あの時点で、あのナイフを止められる奴が、理由もなく誰かを襲うことはないはずだ。
「……理解した、そう言うことか。どうやら、こちらにも思い違いがあったようだ」
「思い違い?」
勘違いと、思い違い。
「お前は言ったな。悲鳴を聞きつけてきた、と。だから、あの逃げた女を助けようとした」
「あぁ」
「しかし、悲鳴を上げたのは逃げた女ではない。俺の仲間だ。あの女が所属する組織に、俺達は襲われていた」
「……状況が読めて来た。つまり、だ。俺はお前を殺人集団の一員だと思い、お前は俺を殺人集団の一味だと思っていた。こう言うことか。テメェを襲った女を逃がそうとする奴が現れれば、そりゃあ敵だと思うよな」
奴は首を縦に振ることで、肯定した。
俺達は互いに無害な存在だったが、勘違いや思い違いにより無駄な敵対をしていたということらしい。戦う理由など、初めから存在しなかった。まったくもってマヌケな話だ。無駄な戦闘に、無駄な負傷、無意味な時間の浪費、考えるだけで死にたくなる。
「悪かったな。俺が出しゃばらなきゃ、話がこじれることもなかったろうに」
「いや、戦闘を仕掛けたのは俺のほうだ。謝る必要はない。女を逃がしたのは、痛かったがな」
「あぁ、あの女がたぶん俺が危惧していた殺人集団なんだろうな」
まさか自分が襲った相手がNPCだとは思うまい。
しかし、だが、この男をただのNPCと呼ぶのは、どこか抵抗がある。この男は、紛れもなく此処にいて、人格をもち、意思を持ち、生きている。既存のテキストを声優が読み上げるだけの存在ではないと、そう思えてならない。
「俺は逃げた女を追わなければならない。此処を通させてもらうぞ」
「あぁ……いや、待ってくれ。今ならまだ居場所が掴めるかも知れない」
そう言って先を急ごうとした男を呼び止め、ミニマップを表示する。
ミニマップの中心には俺を示す青い点と、男を示す黄色い点が表示されていた。黄色は、NPCを示す色だ。やはり、この状況においても扱いはNPCなのか。俺自身、もうそうとは思えないが。
「えーっと、移動中のプレイヤーは……ここか。あの女はここを移動している」
そう男にミニマップを見せようとして、気が付く。
この移動する青い点が向かう先に、二人のプレイヤーがいることに。そこは地理的に見て、鉄塔の麓の辺り。そこには怪姫月と、風上後輩がいる。俺の帰りを待っている。あの女が、殺人鬼かも知れない女が、そこへと向かっていた。
「不味いッ」
現状を把握した瞬間、俺は無意識に身体を動かしていた。
男を放置し、屋根へと跳び上がり、全速力で怪姫月達のもとへと向かう。いつからか俺は剣を抜刀し、すべてをかなぐり捨てるように駆け抜ける。そうして、怪姫月達の姿を捉えたとき、そこには人が三人いた。
一人は怪姫月。一人は風上後輩。一人は、あの女だった。
「そいつから離れろッ!」
その叫びが届いたか否かの瞬間、怪姫月が吹っ飛んだのが見えた。
その手から放たれた魔法かスキルが怪姫月を襲った。しかし、怪姫月自身、それが予想外の奇襲だったにも関わらず、両腕で咄嗟に防御していたらしい。吹き飛びはしたものの、大きく体勢を崩すことなく、すぐに臨戦態勢にはいった。
だが、怪姫月が反撃に転じることは出来ない。すでに、状況は最悪の様相を呈している。あの女は怪姫月を攻撃すると共に、風上後輩の背後をとって拘束していた。首元に刃物を突き付けるという形で。
「動くなッ」
女が狂ったように叫ぶ。それに抗うことが出来ず、俺は剣の間合いにまで踏み込むことなく、静止を余儀なくされた。
「迅、これはいったいどう言うこと」
「俺の失態だ。あの女がPK集団の一員だよ」
「なんてことッ」
状況は余談を許さない。風上後輩が人質に取られた。
あいてはPK上等のイカレたサイコパスだ。いつ、どんな切っ掛けや拍子で殺害に及ぶか、まったく分からない。常人にはない異常な殺人欲求に突き動かされ、人としての常識や道徳が通用しない相手の行動など、読めるはずもない。
「あら、その装備とその声、さっきの仮面の坊やじゃない。あの時は助けてくれてありがとね。んんん? なに? この子、坊やのお仲間?」
「あぁ、そうだ。出来れば、解放して欲しいね」
女との距離はざっと十数メートルほど。当然、剣は届かない。
スキルを使ってフックを飛ばすか? いや、速度が足りない。十数メートルは、攻撃を見切り回避行動を取るには十分すぎる距離だ。さっきのように不意を突かなければ、まず当たらないだろう。
それにスキルの名前を口にした段階で、喉を斬られてしまう。
「あっははは! それは不運だったわね、同情するわぁ。助けた相手に仲間を殺されるなんて、ちょっとロマンチック。ねぇ、そうは思わない? あっははははは!」
けたけたと笑う。狂ったように、イカレたように、女は笑う。
「お、大上……せんぱい」
「あっと、勝手に喋るんじゃないわよ。ログアウトされちゃ堪んないわ。死にたくないでしょ? 殺すけど。殺すけど、一秒でも長く生きていたいでしょ? その怯えようからして、すでに一回死んでるみたいだし。んふふ、次は耐えられるのかしらねぇ。楽しみだわぁ」
女は手に持った刃物を風上の首に押し当てている。風上がログアウトしようとしたり、俺達が此処から一歩でも動けば、女は風上の首を掻っ捌くだろう。どれだけ体力が残っていても、即死攻撃を食らえば一撃だ。一撃で死に至る。
首を斬られると、回復など間に合わない。
「やだ……やだっ」
「しゃべんなっつってんでしょ? 言葉がわかんないの」
ぐっと、刃物が今よりも強く押し当てられる。
その所為で刃が食い込み、肌を浅く斬った。首筋から少量の血が流れ、それを皮切りに風上の限界がくる。今の風上にあの女の声など聞こえていない。頭にあるのは恐怖と畏怖だけだ。あのままだと叫んでしまう。首を、斬られてしまう。
風上の、口が開く。
「風上!」
なんとしてでもそれを阻止するため、叫ぶように、怒鳴るように、風上の名前を呼んだ。その大声で悲鳴を止め、今度は努めて優しく、そして冷静に言葉を投げ掛ける。
「今は喋るな、そいつに逆らうんじゃあない。じっとしているんだ。俺が……俺が必ず助けてやる。だから、今は大人しくしていろ」
言い聞かせるように、目を見ながら言う。そうすると幾ばくか冷静さを取り戻したようで、風上は涙目になりながらもゆっくりと口を噤んだ。
「あはッ! 必ず助けてやる、ですって! 私の前で同じ台詞を吐いた奴が三人くらいいたけど、有言実行した奴は一人もいなかったなぁ。みーんな失敗して、膝を付いたわぁ。噴水みたいに血どばどば流したお仲間の前でね。坊やもそうなるのかしらぁ」
「ならねぇよ。そうはさせない。……こいつは警告だ、いますぐ風上を離せ。さもなくば、お前を殺してでも取り返すぞ」
「へぇ……」
女は酷く歪んだ笑みを見せた。目は薄く、口角を釣り上げ、唇をなぞるように舌が動く。
あの女の一挙手一投足が薄気味悪く写るのは、きっと気のせいじゃあない。
「それじゃあ試してみるぅ? 坊やの剣が私に届くのが早いか、この刃物がこの子の首を
掻っ捌くのが早いか」
この上なく楽しそうに、女は言う。
「あぁ、いいぜ。やってやるよ」
「迅!」
「お前は黙ってろ」
怪姫月の静止を振り切るように、握り締めた剣で空を斬る。
引き下がるつもりは毛頭ないと、この場にいる全員に知らしめるように。
「風上。すぐに助けてやるから、それまで目を瞑っていろ」
風上はぎゅっと、強く瞼を下ろす。
「御話は終わったかしらぁ? いいわよね、青春って感じがするわぁ。私にもそんな時代が……あったかしら? 残念、学生生活は退屈すぎて記憶からなくなっちゃった。だって、兎の生皮剥いだだけで停学になるんですもの」
「御託はいい。お前の話は耳障りだ」
「んふふ。ま、これもまた一興よね。人生、楽しんだ者勝ちとは、よく言ったものだわぁ。あぁ、楽しい。本当に楽しい。私は愉快でならない。この子の断末魔は、どんな声音で奏でられるんでしょうねぇ」
女は実に弾んだ声で、叫んだ。
「坊やはどんな顔を見せてくれるのかしら!」
その刃物に力がこもる。肌に押し当てられた刃は、引き抜かれると同時に喉を掻っ捌く。
そう言う未来が、女には見えていた筈だった。けれど、その幻想はたった一発の銃弾に
よって打ち砕かれる。
「あぐッああああああッ!?」
一発の銃声が鳴り響いた。一発の銃弾が放たれた。それは女が風上の喉を掻っ捌くよりも早く、彼女の肉体へと到達する。銃口から射出されたそれは、女の肘関節を抉り、穿ち、撃ち抜いた。
「あり……えないぃッ! あの状況でッ……くぅッ、左手でぇッ!」
地面を転がり、痛みに悶える女のもとへと、ゆっくり近付く。
右手に剣を、左手に銃をもち、その銃口を女の額に押し当てる。
「悪いな。俺は両利きなんだよ」
人質を取ったという絶対敵な優位に立つということは、それだけ油断を生むということだ。俺はその油断に付け入った。
根拠もなく助けると言い、味方の助言を蔑ろにし、剣で空を斬ってみせる。そうしてあたかも考え無しに、威勢だけで物を言っているように見せ掛けた。単純に剣で特攻を仕掛けると思わせた。
日本人なら深く考えることもなく、目の前の人間が右利きだと思い込む。だから、女の注意は完全に剣にだけ向いていた。その状況で、左手に銃が現れても対応できるはずがない。ましてや、油断していたのなら、なおさら。
故に、銃を装備する一瞬を得られた。引金を、引くことが出来た。
「くっ、くふふッ。殺す気? この私を殺そうって言うの?」
押し当てた銃口に怯むことなく、むしろ押し返すように女は言う。
「いいわ。殺してみなさいよ。その引金を引くだけでいい。あはッ、坊やに出来るのならねぇ。私にとっては軽い引金だけれど、心優しい坊やには重くて仕様がないでしょう?」
「すこし黙れ」
左手に力を込め、改めて額に銃口を押し付ける。
それを受け入れ、女は素直に押し戻されたが、しかしその表情は薄ら笑いを浮かべたままだった。利き手の肘関節を撃ち抜かれ、片腕が完全に死んでいるというのに、こんな表情を未だに作ることが出来るとはな。
「どうしたの? 殺さないのぉ? 早くしないと、反撃しちゃうわよぉ」
その耳障りな言葉を聞きつつ、横目で風上の様子をみる。
俺が女を撃ち抜いた拍子に地面へと倒れ込んでいた風上は、すでに怪姫月によって保護されていた。抱えられるように移動しており、此処から十分な距離が取れている。これなら例え反撃を許してしまったとしても、被害は最小限で済む。
引金にかけた指に、神経が集中する。
「これで坊やも私達の仲間入りね」
「残念だが、そうはならない」
指先に力がこもる。
「警告はした。無視をしたのは、お前のほうだ」
引金を引いた。
「ふふっ」
女は最後に不気味な笑みを浮かべ、額を撃ち抜かれた。
銃声が鳴り響き、銃口が煙を吐く。眼下の女は額で息を吸いながら、仰向けに倒れていった。体力が尽きたその身体に消滅が訪れ、徐々に存在が消えていく。いまここに、女の死亡が確定した。
いずれ完全に消え失せ、そして死と同等の苦しみを味わい、再びこの世界へと帰ってくるだろう。
俺はプレイヤーを殺した。
「……すまないな。お前の仇は俺が撃っちまった」
表示したままだったミニマップに目を向けると、黄色い点が映り込む。それはあの男の存在を意味し、俺は後ろを振り返りながらそう告げた。どうやら俺の後を追って、いま駆け付けてきたらしい。
「構わないさ。誰が殺そうと結果は同じだ。むしろ、礼を言う」
「そっか」
右手に剣を、左手に銃を。それぞれを携えて見上げた空は、いつもより暗いように思えた。それが何故なのか、理由には見当が付いている。まったくもって面倒な話だ。後味が悪いったらありゃしない。
かくして夜は明けた。いつもと変わらない日常が、また始まりを告げる。




