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後編


 しかし今の岡本には、反論する気力も、感謝する心遣いも無かった。荒い呼吸を繰り返しながら、ただ、甘いものを欲していた。具体的にはプリンなど。

「このスケールだと、バイクより、走って追いかけた方が速かったね」

 そんな常識的なセリフを、まさかバイク本人の口から聞かされようとは。岡本は寝返りを打った。

「おや、そろそろ動きがありそうだぞ?」

 古井が岡本の気を引こうとするかのような声で言った。何の動きか。心当たりは一つしかない。中村VS植田である。

「......マジすか?」

 岡本は再び寝返り、首を持ち上げた。目がかすむので、何度も瞬きをした。

「ふぬぬぬぬ......!」

 目を離していた間に、中村はヨロイ姿になっていた。黒いヨロイに、赤いワンポイント。

「おお! あれが噂の!」

 古井が嬉々としている。本気の中村を見られると。

「噂の! ......何ですか?」

 岡本は上半身を起こしながら聞いた。あのヨロイは何だろうか。

「変身してらあ。あのモードになると、強くなるんですか?」

 古井に、その「噂」の内容というのを聞こうとした。

 刀の大きさや長さは変わっていない。兜には、シンプルなツノが一本、真っ直ぐな金色のが伸びている。顔も装甲で覆っていて、目だけが見えている。

「僕も見るのは初めてだから何とも言えないね。あんなに格好良く変身してるのに強さはそのままってことはないと思う。それはあんまりだと思う」

 腕とか手とかが特にゴツい。刀の柄をガッチリとロックして、いかにも「叩き斬る」という雰囲気を出している。殴られても痛そうである。

「防御力は上がってそうですね。差し違えを狙ってるにしても、植田さんの一発では倒せないかも」

 岡本は、古井から渡されたチョコバーをほおばった。疲れている時は甘いものが美味い。古井の細やかな心配りが嬉しかった。こういうタイプのリーダーなのだな。

「......植田さん側から語らないでよ」

 古井にやんわりと注意された。岡本はハッとした。

「ずっとあのヨロイ姿でいるのは精神的に疲れるだろうから、中村さんから動いて、短期決戦を望むんじゃないでしょうか」

 岡本はあぐらの姿勢にチェンジして、それっぽい解説を入れた。

「そうだね。僕らも西村君を追いかけなきゃいけないから、早めに終わってくれるといいね」

 あのまま延々とにらみ合っているなら置いていっても未練は少なかったが、もうすぐ終わりそうとなればなんとなくもったいなくなっている。岡本はショルダーバックからペットボトルのお茶を取り出して一口飲んだ。

「もし、無名の新人が、あの『天才』に土をつけたら大したもんですよ」

 岡本は、隣に腰を下ろした古井に言った。古井もチョコバーをかじっている。完全に観戦モードだ。

「『まだ』無名なだけで、これからは我々のエースとして、メキメキ有名になっていく、はずなんだけど」

 古井の発言には過分に願望が含まれているだろう。それは古井本人も分かっているはずだ。サングラス越しの目は、遠くを見ているというか、儚い夢を思い描いているかのようであった。

「ふぬおおおおっ!」

 中村のうなり声のトーンが変わった。二人はそちらに目を向ける。

「いよいよ! 行くのか?」

 岡本は場を盛り上げようと元気よく声を出した。中村が短期決戦を望むなら、中村の側から仕掛けなくてはならない。

「肉を切らせて骨を断てるか? 今後のエースの有り様を占う意味でも、見物ですね」

 古井は解説者のようなスタンスでいたいらしい。


「そりゃーーーー!」

 ついに行った。長い精神戦であった。心理戦と言うには駆け引き的なことは特に行われていない。

「中村のシンプルな振り下ろし!」

 岡本は技の名前を知らない。名前が付いているかどうかも知らない。

「速い! が!」

 古井の解説も熱を帯びる。

「なにぃ!?」

 中村の踏み込んでくる右足を植田の左足が止めた。つっかい棒の要領だ。前進する勢いがいともたやすく削がれた。

「なんてスピードだ......!」

 岡本も息を飲む。一瞬、なんてものではない。編集した映像のごとく、一続きの動きのまま、中村の懐に入っていた。

「あのゼロ距離では、長い刀は逆に不利なんですね。そして、短刀はものすごく有利なんです」

 古井の解説から熱が奪われた。言外に「勝負あった」という無念さが滲んでいる。

「腕一本で止められて、振り下ろせないなんて」

 植田の左手が、中村の左手首を握っている。あのゴツいヨロイの腕を、植田の可憐な手が押さえてびくともしない。出足をストップした効果か。

 そして、植田の右手はフリーになっている。短刀が、逆手に握られている。

「............」

 短刀の切っ先は中村の顔面に向けられている。兜で覆われていない、目を狙っているようだ。

「いかん!」

 岡本は片膝を立て、とっさに盾を投げようとした。さすがにこのまま見ているのは本能的に許されなかった。

「ぐはぅ!」

 立ち上がろうとした岡本は何物かに後ろから襟首をつかまれ、のどを締められた声を上げた。そのまま仰向けにひっくり返る。

「いたいいたいいたい!」

 左手を後ろにひねり上げられ、岡本は足をバタつかせた。

「悪魔同士の決闘、手出しは無用!」

 古井の意見も理解できるが、痛めつけすぎではないだろうか。

「ごめんなさい! 分かったから離して!」

 すっと力を抜いてくれた。慌てて起き上がる。中村の無事が気になっている。

「な、なんで......」

 中村の目からは闘志が失せていた。替わって恐怖心が支配している。これはもう試合続行は不可能だ。心が負けてしまった。

 目を狙っていた短刀の切っ先は、ゆっくりと下がって、ヨロイの胴の、一番装甲が厚い部分で止まった。血生臭いシーンを見なくて済みそうで岡本はほっとした。

 スローモーションで短剣の刃が水平になる。右手で逆手に持っているから、植田の体の左側で構えている。中村の視線もゆっくりと落ちていく。ただ見ているしかない、という絶望。

 ッパァアアンッ!

 至近距離でカミナリが炸裂したような、強烈な破裂音。中村には、防御のいとまも、祈る時間も与えられなかった。植田の体が黄色に発光したかと思った次の瞬間、残像を残し、中村の後ろへと走り抜けていた。

「ぐぎゃああああっ!」

 中村の断末魔。悪く言えば、可愛げがない。良く言えば、媚びず、力強い。

「あの技は! 『斬影極殺ザンエイゴクサツ!』」

「知っているんですか古井さん!」

 解説にも力が入る。

「通り抜けざまに、何発もの斬撃を叩き込む、植田さんの超必殺技だよ!」

 はた目には、通り抜けた後から、時間差で何発も叩き込んでいるように見えた。

「どぅお! ぐは! げふ!」

 植田が短剣を逆手に構えた状態で、顔を伏せ、格好良く立っている。その後ろで、中村は連続で悲鳴を上げ続ける。五発、六発......。まだ終わらない。

「も、もう、いいんじゃないか?」

 岡本は堪らず、我知らず一歩踏み出した。また古井に腕をひねられないよう、盾は出さずにおいた。

「む?」

 近づいた岡本の目に、ひるがえる光りの筋が映った。いく筋も煌めいている。

「これは、遠隔攻撃!? 短剣が飛んでる! 何本も!」

 正確には、短刀の形をした光のかたまりのようだ。それぞれが自由自在に宙を舞っている。

「こんなの、避けられるわけがない......」

 中村が自信たっぷりに「よける!」と言い切っていたのを遠い昔のように思い出す。目の前ではキラキラと光の波が踊っている。

 もちろん岡本にも、この攻撃は防げない。盾を何枚用意しても、いずれ破られるし、反撃の術がない。攻め疲れを待っている間に盾が砕かれるだろう。

 中村のヨロイも、黒光りしていた格好良さは、今では見る影もない。小手も、胴も、具足も、ことごとく粉々に砕かれている。しかし一滴の血も流れていない。手加減までされていて、圧倒的な実力差を見せつけられている。

「むぐぐぐ!」

 中村は歯を食いしばって耐えている。ヨロイは悪魔ならではの「精神力」で具現化されたものなので、それが砕かれているのだから、精神的なダメージはかなりのもののはずだ。

「おや? 刀が?」

 古井も気がついた。岡本はさっき気がついた。

 ヨロイをあらかた破壊した後、植田の今度の標的は、中村の刀である。完膚無きまでに完全に勝ちきって、今後の対戦においても「こいつには勝てない」という印象を刻みつけようとしている。

 だが、先ほどから刀身に横方向からの遠隔攻撃を何発も食らっているが、中村の刀に、ヒビとかキズが入る様子は見られない。それどころか、刀の内側から、青白く発光し出したようにさえ見える。

「意地を見せるか?」

 勝負が着いたのは中村本人も分かっているだろう。首筋とか狙われたらそれまでだ。岡本は自分でも気がつかない内に見入ってしまっていた。

「どっせーーーーぇい!」

 刹那、振りかぶっていた刀は、振り下ろされた。

「きた!」

 古井も歓声を上げる。

 パキーン! という金属音。植田の浮遊する短剣を、三本ほどまとめて打ち砕いた。すごい動体視力だ。

「うあえ?」

 格好良く決めていたポーズのまま、植田は驚いたような声で首を振り向けた。植田と中村、背中合わせの状態で、中村は振り返らず、そのまま短剣を狙ったのだ。

「うわ......」

 岡本は感嘆した。心の芯の強さが、折れない刀に象徴されていると感じた。中村の刀は、まだ青白い光を発しながら、重量感を湛えている。

 中村は、振り下ろしの際に片膝をついていた。左膝で立ち、右足を前に出して、やや前傾した体勢で静止している。目を細め、焦点は定まっていない。無表情である。

「倒れない、か。意地だなー」

 古井が晴れやかに言う。天晴れといった風だ。

 植田は構えを解いて中村へと向き直った。後ろを向けている中村は隙だらけである。だが植田に攻撃の意志は感じられない。

 植田の顔からは、驚きと、少しの興奮が見て取れた。宿敵ともに巡り会えた喜び、というのは岡本の行き過ぎた想像だろうか。

 中村が戦闘続行不能なのを確認し、植田は岡本らの方を見た。軽く短刀を振る。「やる?」というジェスチャーだ。

 岡本と古井は、二人揃って、笑顔で、首を前後に動かした。「とんでもございません」というジェスチャーである。あんなものを見せられた後で戦う気なんか起きない。

 植田はつまらなそうに唇を尖らせた。そして「あ!」と言って辺りを見回す。おそらく西村を探しているのだろう。岡本は少し心を痛めた。

 すでに西村が姿を消してから大分時間が経っている。あずきに至ってはもうずっと見ていない。岡本は嫌な予感がしている。怖くてあずきのことを古井に聞けないでいる。聞いたらろくな事が起きないと経験から学んでいた。今日が初対面だったけれど。

「ん!」

 植田が何らかの覚悟を決めたようだ。プイっと顔を背け、ドアの方へと走っていった。先程の戦闘中のスピードとはかなり開きがある。テケテケテケっと駆けていく。これが本来の走り方で、残像を残すタイプのダッシュは特殊技にカテゴライズされるべきものなのだろう。岡本と古井は小さく手を振って、植田の後ろ姿を見送った。


「さて、と」

 古井は腰に手を当て、首を振りながらため息をついた。視線の先には、片膝をついたままの中村がいるのだろう。重苦しい空気を岡本も感じた。

「中村くん、大丈夫かなあ」

 あろうことか、古井は岡本に振ってきた。それでもリーダーか、と思ったが言葉にはしなかった。

「大丈夫ですかねえ」

 とりあえず様子を見ようとした。二人は少し黙った。

「......ちっ」

 古井が舌打ちをした気がした。岡本が顔を向けても目を合わせなかった。

 やむを得ず、岡本から中村へ歩み寄ろうとしたその時、気配を感じたのか、中村は音もなく立ち上がり、岡本達に背中を向けた。岡本は無表情のまま静止した。完全に拒絶された。

 中村は何も言わず、砕けたヨロイをササッと払った。そして一呼吸ついた。

「......」

 やはり何も言わず、刀を振り上げ、ピュっと振り下ろす。岡本達には背を向けたままである。

「う、ん?」

 困惑した岡本は古井の方を見る。古井も何も言わず、肩をすくめた。

 中村は一歩踏み出しては振り下ろし、一歩下がってはまた振り下ろす。肩の力の抜けた、何ともスマートでチルアウトなアクションである。

 ああ、素振りか、と岡本は納得した。力は抜けているがスナップが利いていて、『ビューン』というより『......ピッ』という空を斬る音がする。あれが人体に食い込んだら尋常じゃないダメージを食うだろう。

 テロリストが人質をとって立て籠もっていて、その突入オペレーション中にも関わらず、堂々の素振りである。岡本は惚れ惚れと見入ってしまった。どんな芸能にせよ演武にせよ、一流というものは人の眼を惹きつける。悪魔の眼も惹きつけられる。

 人目もはばからずの素振り。それだけ植田に負けたのが悔しかったということだろう。言い訳も負け惜しみもなく、一言もなく、精神的体力的にヘトヘトにも関わらず、黙々と刀を振っている。岡本は彼女の性格に尊敬の念を禁じ得なかった。自分だったら、さっさと帰ってビールを飲みながら録画した海外ドラマでも見ている。

 もしかしたら、岡本達から涙が見えないように、背中を向けているのかもしれない。ここは無粋なことをせずに、そっとしておこうと思った。

「無理しないで、何かあったら連絡してくれ」

 携帯の番号なんかお互いに知るわけもないのだが、何となく格好つけて言ってみた。素振りが止まった。

「......」

 思いっきり睨まれた。そして全然泣いてない。全身に鳥肌が立つのを感じ、岡本は視線を逸らした。

「よ、よし! 我々も西村・植田を追おう!」

「そ、そうですね!」

 二人、小走りでその場を離れた。尋常なダメージを受ける前に逃げ出した。後ろからの振り下ろしの音が遠くなっていく。


 廊下に出ると岡本に、古井に色々質問できるチャンスがやってきた。急ぎ足だが聞いてしまおう。

「古井さんちょっといいですか?」

「なんだい?」

 立ち止まって振り返った。歩きながら話すと思っていた岡本はつんのめった。

「急がないでいいんですか?」

「そっちが呼び止めたんでしょうが」

 古井の意見はまっとうなものであったが、岡本には納得がいかなかった。二人は再び歩き出した。

「古井さんは、この会議の内容って、知ってたんですか?」

 ずっと気になっていた。なぜ植田達は人間のテロを支援するのか。

「うーん。うーん」

 唸りながら首を掻いている。知らなかったのかな?

「依頼文書には会議の名前も書いてあったかもしれないけど、よく読んでないんだ」

 正直に言ってきた。細かいところまで読まず、特に気にせずにいたのだろう。気持ちは分からないでもない。

「そうですよね。人間どもがどんな会議しているかなんて、興味湧きませんよね」

 念のためにフォローしておく。また血を吐かれても困る。

「そういうわけでもないんだけど」

 面倒くせえな。

「何て言うのかな。別に何でもいいから、とにかく急がなくちゃ、って思っちゃうんだ」

「ああ、分かりますわー」

 自動的に同意した。先程、立て続けに盾を出して、正直疲れている。

「で、何の会議だったんだろうね」

 古井のあまりの素な表情に、吹き出しそうになった岡本は顔を背けた。

「どうかした?」

「いや、あの、植田さんが言ってたような気がするんですが......」

「気のせいじゃない?」

 自信たっぷりに言うので、岡本も少し不安になった。

「話は変わりますけど、何か、人間を進化させるのさせないの、みたいな計画があるって、聞いたことあります?」

 遠回しに言って古井に気がつかせようという作戦に出た。

「ああ、何か聞いたことあるような気がするね」

 それは気のせいじゃないぞ、と心の中で突っ込んだ。

「どんな弊害があるんでしょうね」

 わざわざ植田・西村が反対派に荷担するのだから、何かあるはずだ。

「弊害あるって決めつけるのは良くないよ」

 経緯を説明するのが非常に面倒くさく感じられた。話を変えたふり、という姑息な手段を使ったバチが当たったか。

「反対派がテロを起こすくらいですから、なんかあるでしょ」

 さりげなく話を繋いでみた。

「え、これって、このテロって、そういう趣旨?」

 脱力感と共に、わずかに希望が湧いた。やっと通じた。

「植田さんとか西村さんが参加してるから、かなりのもんでしょう」

「そう言われればそうだね! 最初からそう言ってくれればいいのに。回りくどいな」

 壁とか、自分の太ももとか殴りたくなった。唇を歪ませることでガマンした。

「あれ、何か、事故らなかったっけ? 進化しすぎた、みたいな」

 古井は宙を見上げて、記憶を絞りだそうとしているような顔をした。

「ああー。何か、ありましたね」

 岡本は適当に合わせた。

「いや、違う実験だったかな」

「違うかもしれないですね」

「実験体が暴走したんだっけか」

 それくらいまでヒントが出たところで、岡本の脳裏にも閃くものがあった。十年前くらいに、どでかい事故があった。都市が丸ごと吹っ飛ぶような。

「あれですか! 何かの実験体が逃走して、暴走して、事故ったやつ!」

「ほぼそのまま言ったよ俺」

 古井のサングラスに、ちょっとずつ不信の光が差し始めてきた気がする。疲れているとはいえ、もう少し真面目に対応しないと、そのうち本気で怒られる。

「人間なんか何人が事故ろうが勝手ですけど、こちらも巻き込まれるのはかなわないですな」

 そもそも、どんな事故で都市が吹っ飛んだかは岡本は知らない。帰ったらネットで調べようと思っている。

「植田さんも西村さんも、そんな実験を止めさせようとしてるのかもね。みんな優しいから」

 自分が巻き込まれるのが嫌なのではなく、人間も含めて、悲しい事故から守りたい、ということかも知れない、という可能性を古井に示唆された。岡本は自分のことしか考えなかった自分の狭量さを恥じた。

「優しさ、ですか」

 人間が自ら滅びの道を歩きたいなら、そうさせるのも優しさではないだろうか。いつまでも天使の下で支配されているのは、例え平穏無事だとしても、生きているとは言えないのではないか。

「彼女らが守ろうとしているものが、人間なのか、悪魔なのか、気になるところだね」

 岡本も、また今度会ったときに聞いてみたいと思った。今日はちょっと聞きづらい。敵同士だし、なんとも気まずい雰囲気になってしまった。

「今度、日を改めて会ったら、それとなく聞いておいてよ」

 岡本は古井に心を見透かされたような気がした。いや、考えることは誰も同じ、ということか。そんな機会があるとは思えなかったので「ハッハハ。まあ、そのうち」というような、承諾するフリしての拒絶を臭わせておいた。


「それにしても、うちのエースは心配だなあ」

 古井がぼやき始めた。そこを掘り返しますか。

「俺はまだ、あの人をエースだと認めていませんから」

 こう言うと、やがていずれは認めることになりそうな気がする。

「まあ、色々思うところはあるかもしれないけど、あると思うけど、表面上だけでも仲良くしてやってちょうだいよ」

 古井の発言から、ようやくリーダーらしきものを聞けた。

「まだ仲の良い悪いというところまでも行っていないですよ。もちろん大人ですから、わざわざ自分からトラブルを起こしに行くようなことはしたくありませんがね」

 岡本は肩をすくめて首を小さく振りながら応えた。自分では格好いいと思っている仕草だ。

「そこを何とか、仲良くやってよ」

 あまり聞いてないというか、興味がないようだ。

「何と言っても、最初からエースという扱いなのが分からないですね。デビュー前から大人気、みたいで、納得しづらいものが......」

 はっとして古井の口元を見る。まだ血を吹き出す兆候はない。苦虫を噛み潰したような顔で思案している。

「そんなこと言ったって、ストライカーは彼女だけだし......」

 消去法ということか。消極的な理由だ。

「他の悪魔をオーディションとかしないんですか?」

 もっと良い人、いや悪魔が見つかるかもしれないのに。

「やったよ! 何回もね! でもロクなの来やしないのよ!」

 古井が抑えていた感情を爆発させてきた。

「何なんだあいつら! 悪魔の皮をかぶった鬼か!」

 そして廊下の隅に吐き捨てるように怒鳴り続ける。何があったか聞ける雰囲気ではない。

「やっぱりコネだよ。コネが最高だよ。縁故。うん。縁故」

 腕を組んで頷きだした。古井なりの結論に達したのだろう。困難や障害を乗り越えてたどり着いた結論は「コネ」ということらしい。

「はあ。まあ、知り合いの紹介なら、安心できる部分もありますか」

 岡本は視線を落として歩き続ける。

「ははは。知り合い、ねえ」

 古井は困ったような、自虐なような笑い声を出した。

「知り合いじゃない、ってことはないよ。うん」

 古井もうつむきがちで歩いている。

「ただ、知り合いにも色々あるから。はは。善意の付き合いだけ、ってことは、現実には、なかなかね......」

 岡本は嫌な予感がしている。素早く横目で古井を見た。まずい。どんどん顔色が悪くなっている。青くなっている。

「オープン公募なんてのがそもそも間違っているんだよ。そんなに広い社会じゃないんだから、それぞれのコミュニティでよろしく楽しくやってりゃいいのを、わざわざワールドワイドに、せっかくの壁を自ら壊そうとして、結局、自分で苦しんでいる。価値観ちがうわー、とか言って。何がしたいんだか」

 熱くなってきた。血を吐くような、ストレスフルな展開には行かなそうだ。

「ほんと、そうですよね。どいつもこいつも、単に文句を言っていたいだけなんですよ。自分の責任は棚上げにして、他人のあら探しばかりしている」

 岡本は、これ以上ないというくらい同調した。吐血を回避できるなら安いものだ。

「分かってくれる? 君はいい奴だな。公募でも、たまには良いの引くこともあるんだな」

 おみくじみたいに言われて岡本はムッとしそうになったが、表面には出さないように気を遣った。

「分かる分かる。めっちゃ分かりますわー」

 酔っぱらいを軽くいなすような相づちを岡本は放った。

「それに比べて......」

 古井は、そこまで言うと、歩みを止めた。廊下で突然立ち止まった。二~三歩進んだ後で岡本は首だけで振り返った。身体は慣性で進み続けようとしているので、首に不自然な圧力が加わった。くねっとなった。

「おっつ! とと、どうかしましたか?」

 岡本の靴が土煙を上げる。

「ちょっとゴメン! 先行ってて!」

 そんな言葉を残し、古井は横道へと消えていった。

「え、あの......」

 取り残された岡本は戸惑っている。一人で行くのが怖いのではない。全然怖くない。ただ、まずは古井が色々と、紹介というか、段取りをしないままで、岡本一人が出てきて、テロリストたちに「何ですか?」と聞かれたら、どう返していいか見当がつかないのだ。曖昧な微笑みしか思いつかない。

 仕方なく、古井が消えていった方向に岡本も行ってみる。気まずさを天秤にかけるとこっちの方がマシな気がした。あまり近づきすぎず、古井が戻ってきたら「おお! 遅いんで、戻って来ましたよー。さ、行きましょうか!」くらいで復帰できるだろうという計算であった。

「あごあ! ごごあがーっ!」

 突如、廊下に響き渡る、古井の絶叫。岡本は目を見開いてその場に停止する。うん、吐いてるな、血を。このまま進むと、その先にあるのはおそらくトイレだろう。よそのオフィスの廊下を血だらけにすまいという気遣い。彼なりに神経をすり減らしながら日々を戦っているのだ。

「うごおおおあー! うがあああああー!」

 ちょっとボリュームが尋常でない。子供なら泣き出すレベルである。テロリズム中なので辺りは静まりかえっているから、殊更に際だって聞こえる。

 疲れてきた。岡本は壁により掛かり、腕を組んで目を閉じた。何だかおかしな事になってしまった。巻き込まれていると言うべきか。もっとドライな、簡単な仕事を期待していたのに、ずいぶんと面倒で、そしてかなり疲れる。

「ふおううああ! ふはははわわわ!」

 まあ、そもそも簡単な仕事など無いのだろう。岡本も何種類かアルバイト経験がある。書店や、スーパーの裏方とか。どこに行ってもイマイチ馴染めず、何となく辞めることになった。悪魔だということもあるが、やはり人付き合いが苦手なのだった。

「ひゅうあほう! ひあっほほう!」

 今回、悪魔だらけの職場ということで、期待感があった。もっと親密な人間関係(悪魔関係)が築けるのではないか、と。そして期待通りになった。結論を出すのは早すぎるかもしれないが、親密な関係は、とても疲れる、ということを学んだ。経験してみないと分からないことは多い。

「あれ? 待っててくれたの?」

 不意を突かれて岡本はビクッとした。どんなタイミングで出てくるんだ。トイレから。

「だ、大丈夫ですか?」

 思わず口をついて出てきたのは、そんな言葉だった。

「何が?」

 古井は爽やかに微笑んでいる。虚勢を張るとか、無理をしているという感じは受けない。

「い、いや、なんでもないです......」

 もはや面倒くさいという次元ではない。怖くて目を合わせられない。

「あ、聞こえてた?」

 もう許して欲しかったのに、古井の方からぶつけてきた。いや、ぶつかってきた。

「え、いや、まあ、ちょっと、はあ」

 岡本は全力でごまかそうとした。

「最近、調子悪くてさあ。のどが」

「分かります、大変ですよね......。って、のど?」

 血を吐いてたんじゃないの?

「思いっきり咳払いをすると、いくらかマシになるんだよね」

 さっきのは咳払いだったとぬかす。岡本はあくびをかみ殺した。


 長かった廊下もようやく終わった。エレベーターの電源は静かに落ちているので、岡本達は非常階段で、慎ましくも階を上がろうとしている。

「ああ、事務所の屋上にも、階段で上がったのだったなあ」

 岡本は独り言をつぶやいた。遠い昔のことのような気がする。実際は、数時間前のことだ。

「あそこもエレベーター無いもんね」

 古井は他人事のように、どうでもいいことのように返事をした。事実、どうでもいいこと名のだが。

「前と同じく、嫌な予感がするんですよね」

 岡本は横目で古井を見て薄く笑った。自虐的な笑いだ。

 嫌な予感、それは階段を一歩一歩上るたびに強く濃くなる。どんどんと息苦しくなってくる。黒い煙のように漂い、岡本の胸をムカつかせる。これ以上階段を上ってはいけないと強い説得力でもって訴えてくる。

「奇遇だね。僕もしてるよ。悪い予感」

 古井はニッコリと笑った。達観しているのか、それとも馬鹿なのか。岡本はありったけのリスペクトでもって後者の意見を否定した。

「その原因は、やはり......」

 声に出すのもためらわれる。続きを古井に言わせようとして岡本は言い淀んだ。

「うん。あずきさん、だね」

 古井は数回首を頷かせながら言い切った。岡本は「えっ?」などとおどけてみようとも思ったが、みっともないので止めることにした。

「妙に静かですよね。植田さんも西村さんも戻ってこないし」

 岡本からすればナチュラルにさん付けするのが当たり前であった。

「うん。前にも似たようなことがあってね......」

 古井は怪談話でも始めるかのような口ぶりで言う。

「あれは、そう。今日みたいに、静かな日だった......」

 斜め上の遠くを見ている。サングラスも心なしか色が薄くなっている。意外に細い、眼光鋭い眼差しが垣間見えた気がした。

「いなくなったあずきさんが、いつまで経っても戻ってこなくてね......」

 心底困って、そして怖そうである。当時を想像するだけで岡本も背筋が寒くなる。

「その時は、古井さん一人で解決したんですか?」

「いや、あの時は、もう一人居たんだ。それがキッカケかどうかは定かじゃないけど、次の日の朝、いくら待っててもそいつ出てこなくて、電話も繋がなくて」

「へー! 心配ですね」

「しばらくしたら、メールで『辞めます』だけ来てさ。件名が。本文は何も無し」

 そいつも精神的に相当追い込まれたんだろうな、と岡本は同情した。

「ままま、遅かれ早かれ、っていうのは思ってたんだけど」

 古井は淡々としゃべる。問題は、辞めたそいつじゃなく、もっと他にいる、ということだ。

「そいつは、今、どうしてるんですか?」

 結論を吐かれる前に、気になるところを聞いておきたかった。

「ふふふ」

 古井は軽く笑った。そのまま誤魔化すのか。続きを話し始めるのか。

「知りたいかい?」

 とても言いたがっているように思える。

「うん? う、うーん」

 岡本は首を縦に振りながら、口では曖昧な声を出した。古井本人が良い方に解釈してくれることを願った。

「そいつも、岡本君くらいの年頃だったんだけどさ......」

 古井は話す方を選択したようだ。岡本は頷き続ける。

「だった、って過去形で言っても、今も元気だけど」

 岡本は目を細めて、わき上がる自分の感情をやり過ごした。

「この前、そいつと偶然、駅のホームでばったり遭遇したんだ。いや驚いたね」

「元気だったんでしょ?」

 あまりネガティブな話は聞きたくなかった。岡本は努めて明るく言った。

「何て言うのかな、うん、元気は元気なんだけど、ひどく変わっていた。以前は、もっと地味というか、スタイリッシュな感じだったんだけど」

 古井は言葉を慎重に選んでいるようだ。

「地味な男が、急に変わったんですね?」

 どう変わったか、予想もつこうというものだ。派手になったんだろう。

「めっちゃ太ってた」

 違ったわ。

「リュックから巻いたポスター的なやつが飛び出してて。アンテナみたいに」

「そっちの方向ですか」

 岡本は頭を抱えた。彼に何があったかは分からないが、少なくともあずきとは関係ないのではないか。

「やっと夢中になれるものを見つけたって、すごい嬉しそうにしてたよ」

 もしかしたら、自由すぎるあずきの姿を見て、何か吹っ切れたのかもしれない。

「その後、喫茶店に連れて行かれて、二時間くらい、そのアイドルがいかに素晴らしいかご高説賜った」

「それは災難でしたね」

 アイドルおたくの悪魔に一方的にしゃべられて、苦笑いしながらも身動きが取れない古井の姿を想像した。

「それきり、そいつは、戻らず、ですか?」

「うん。戻ってくる気配はこれっぽっちも感じないね。今ではその筋で、ひとかどの名のある悪魔になってるって噂だし」

 古井が言った「ひとかどの悪魔」というフレーズに、岡本は何故か嫉妬を感じた。

「アイドルおたくとして、ひとかどに?」

 岡本の発言には、意図せずに侮蔑のニュアンスが込められた。

「いいんだよ。本人が幸せなら、周りにどう思われても」

 古井は一般論を言ったのだろうが、妙に岡本の心には引っかかった。


 岡本は歩みを止め、古井に向き直った。

「僕のやりたいことって何でしょう」

 古井はプッと吹き出し、口元を右手で押さえた。

「僕に聞かないでよ!」

 そして至極当然のリアクションをした。

「僕だって見つかってないのに」

 謝ろうとした岡本をさえぎってポソッと付け加えた。

「そうなんですか?」

 嬉しいと感じた。それは、自分と同じ境遇の人がいたからか、それとも、古井が心を開いてくれたからか。

「一生を通して夢中でやりたいことなんて、見つかればラッキー、くらいで。一生探し続ける人もいるだろう」

 今までちょっと馬鹿にしていたのを改めようと思った。年長者なことはある。

「大切なのは、探し続けるっていう姿勢さ!」

 古井は少し調子に乗って決めぜりふのように言った。

「なるほどなるほど。ふーん」

 それでも岡本は感心したので深めに頷いた。

「何をしている時が自分が楽しいと思っているか、自分の心を注意深く観察することだね」

「うーん。ゲームとか?」

「そういうのじゃ駄目だよ。人から与えられるのじゃ本当に楽しいとは言えない。自分から積極的、能動的に行かないと」

「めんどくさいんですね」

「そこを乗り越えないと、なかなか『楽しい』『気持ちいい』というふうにならない。達成感を得るためには行動あるのみさ」

 あんまり調子に乗るなよ? と言いたかったがガマンした。説教して気持ちよくなるタイプのようだ。気持ちいいままに、そっとしておこう。

 楽しいこと、気持ちいいこととはなんだろうか。古井の演説を受け流しながら、歩きながら考えた。やはり古井の言うとおり、今まであまり自分から行動して来なかったので、これといって楽しいという思い出がない。ただ流されるままに生きてきた。

 今回この募集に応募したのも、無意識で何か変化を求めていたのかもしれない。期待していたような劇的なものは無かったが、それも行動してみなければ分からないことだった。もちろん、まだ結論を出すには早すぎるだろう。これからはあまり期待せずに、行動と結果と、それから自分の心がどう反応するかを意識的に見ていこうと思った。

「僕の若い頃は、まだこの国ができる前で......」

 古井の語りは熱が高まってきた。そろそろ階段を上りきりそうだ。


「んん、ここも閉まってるか」

 バリケードで塞がれた扉を前にして、古井が腕を組んでつぶやく。

「大会議場。ここですよね」

 岡本の悪い予感はマックスレベルに達している。バリケードというか、木の板などが、コンサートホールのような両開きの豪勢なドアに打ち付けてあり、悪魔といえども開けるのがめんどくさそうになっている。

「植田さんたちが入っていったはずだから、どこかは開いていると思うんだけど」

「やっぱり、逆回りだったんじゃないですか?」

 会議場はホールになっていて、出入り口は等間隔に八カ所ほどあるようだ。階段を上がって、そのまま真っ直ぐ行ったところにあるドアに行きそうなものだが、古井は「裏をかいて、後ろから回り込もう」と言い出した。そしてドアが塞がれているのを見てガッカリしている。

 岡本は異議を唱えなかった。悪い予感がひっきりなしに続いていて、中に入りたくなかったのだ。両開きのドアは濃い紫色のベルベットで、威圧的なオーラを放っている。

「この臭い......」

 ドアの隙間から、今の岡本にとっては嫌な臭いが漏れ出ている。中で何かが行われている。何も考えたくない。

 結局、一週近く回り込んで、開いているドアを見つけた。やはり逆方向だったのだ。

「見張りもいないのか」

 人の気配はあるが、攻撃的ではない。少なくとも、テロリストが人質を取って立て籠もっている、という雰囲気ではない。

 古井は、ササッとドアの横に背中をつけ、銃を持っているような手の形をした。銃を持ってもいないのに。どこまでふざけているつもりなのだろうか。もちろん岡本に付き合うつもりなど全くない。普通に立っている。

「どうしたの? 早く開けなよ」

 口の動きだけで訴えてくる。

「俺が開けるんですか?」

 露骨に嫌な顔をしてみた。嫌な予感がしていると、何回思えば分かってくれるのか。

「早く早く」

 手をパタパタさせてくる。何で今さら急がされなければならないのか。

「はあ。行くしかないのか」

 やはり自分で行動するしかない。扉を開けなければならない。先程の古井の話に感化されたのか、普段からは考えられないほど行動的になっている気がした。

 だがドアの取っ手に指が触れた瞬間、そんな受け売りのポジティブさは吹き飛ばされてしまった。残ったのは、青白い顔をした哀れな一人の悪魔だけだ。

「うわっ!」

 岡本は手を引っ込めた。脇が締まり、小指が立ってしまった。可愛らしい仕草になってしまった。

「どうした?」

 古井が銃の形の手つきは解かずに心配してきた。どうしたのか、自分でも分からない。

「いや、何て言うか、テンションが一気に下がって......」

 岡本は手を振り、頭を振った。真っ白だった心に、少しずつ、色が戻ってくるようだ。

「なんと! それは、あずきくんの仕業だね!」

 岡本にとっては意外な発言であった。

「え、それってもしかして......」

 岡本は、恐る恐るうかがった。

「あずきさんって、意図的に、別行動してたんです、か?」

 そしてテロリスト達の中に入り込み、特殊能力を発動させている、というようなことだ。てっきり、ふらふらしているだけだと思っていた。

「当たり前でしょうが。どっかでふらふら遊んでるとでも思っていたかい?」

 図星だったのでギクリとした。

「ハハハ。まあ、ミステリアスだから、しょうがないか」

 いつの間にか古井の突入ポーズごっこは解かれていた。そして「ミステリアスだから」というのは理由にならないと思った。何回目だろう。

「あずきさんって、そういう能力ですか? 精神的な面の」

 それならば、あの奇行の数々も納得できる気がする。いや、できない。

「いやー、どうだろうね。すべてがミステリアスだからね」

 どうしても「ミステリアスだから」で片付けたいらしい。深入りするのが面倒くさいという風にも受け取れる。疲れ果て、テンションの落ちた岡本には、斬り込んでいくだけの気力は無かった。

「ただ、さっきみたいな、周りのやる気を減退させる、みたいなのは、たまにやる」

 そんな能力がある、ということだと思いたい。人間性(悪魔性?)の問題ではなく。

「味方もやる気を無くしちゃって戦闘中に帰ったりするから、諸刃の剣なんだよね」

 先程の古井の話で出てきたアイドルマニアになった悪魔というのもその影響なのではないか。一度ゼロまで行ったから、本当に好きなことに気がついたのかもしれない。

「古井さんは大丈夫なんですか?」

 さほどテンションやモチベーションが減退しているようには見受けられない。サングラスのせいかもしれない。

「僕だって、いつも元気なわけじゃないよ」

 そういうことを聞いているのではない。

「でもまあ、彼女と関わるのに、コツが無いわけでもない」

 思わせぶりな古井であった。あからさまな「聞きたいかい?」という表情に多少の怒りも覚えたが、岡本の精神界の全体を占める気だるさに比べれば、かわいいものだった。

「ど、どうするん、ですか?」

 知りたい。どうしたら、あずきの奇行を見ても動じなくなるのか。

「こうするのさ!」

 バシーーン!

「痛い!」

 岡本は、ビンタされた左の頬を押さえ、信じられない、という表情で古井を見た。いきなり頬を張られて、思考が停止した。そのままナヨナヨと膝がくだけ、頬に手を当てた女の子座りになった。

「ぶったね! 父さんにはぶたれたことないのに!」

 母さんにはしょっちゅう殴られました。愛情が込められていた、と思いたい。

「ハハハ。こうして気合いを入れれば、あずきくんの揺動にも動揺しないってもんさ」

 そう言って古井は自分の頬を両手でピタピタと叩いた。自分にするのと他人にするのとで全然パワーが違うんですけど。

 気合いが入ったのかどうかは分からないがとりあえず目が覚めた。無言で差し出された古井の手に捕まり、岡本も無言で立ち上がった。

「で、やっぱり俺が開けるのね......」

 古井が腕を組んで微動だにしないので、やむを得ず再び立ち向かった。指先でドアノブをちょんちょんしてみる。今度は精神攻撃は来ない。不意を打たれなければ大丈夫なようだ。

「開けますよ?」

 ノブに手をかけたままの姿勢で、首だけで古井を見る。古井は軽くのけ反って、顔を後ろに引いたまま、顔をしかめ、細かく頷いた。

「ほんとに開けますよ?」

 頷くスピードが更に上がる。もう何回か繰り返したかったがガマンした。


 指先に力を込める。思ったより扉は重い。ノブの引っかかる部分が、指の腹に食い込む感覚。そして、ゆっくりと扉は動き出す。下のゴムが床とこすれる音がする。

 気圧の差ができて、風がおきる。会議室の中の空気が漏れ出てくる。何かの肉が焼けただれる臭いが岡本の顔に当たった。

「もう始まってるよー!」

 廊下で感じた臭いがより強くなる。割烹着を着たあずきが忙しげに動き回っている。トレイには追加の肉が乗っている。

「こ、これは......」

 いつの間にか後ろに立っていた古井も言葉を失っている。

「ジンギスカン......」

 閉まろうとするドアを支えながら岡本は目を見開いた。広い会議場はさながら披露宴のように丸いテーブルが並び、それぞれのテーブルの真ん中にはカセットコンロ、その上には、独特なフォルムの、円盤状の鉄板。

 そっと扉を閉じようとした岡本の肩を古井がつかんだ。

「どうしたの」

 それはこちらが聞きたいこと、と目で訴えた。

「早く行かないとお肉なくなっちゃうよ」

 ああ、こいつもか、と岡本は絶望した。

「こんなことしている場合では......」

 露骨な嫌な顔をした岡本を、古井はさえぎった。

「シッ。あれを見てごらん」

 古井が指差したのは一番奥のテーブル。真っ先に植田の姿が目に入った。

 隣には、軍服を着た、髪がソバージュの男。身なりからしてコイツが頭らしい。植田は鉄板のラム肉に箸を伸ばしながら、眉間にシワをよせて何事か話している。

 席を一つ空けて西村が座っている。こちらは誰とも話さず、無心でジンギスカンを食らっているようだ。

 植田と西村が隣同士で座ってないのを見て、岡本は男としてとても安堵した。恐らく植田がトップ(仮に将軍と呼ぼう)の隣にまっすぐ座り、間を置いて、西村が一つ飛ばした席に着いたのだろう。西村の性格に岡本は共感と好感を覚えた。やはり見かけで判断してはいけないね。思慮深くてパンクな悪魔もいてもいいだろう

 無言でトレイが差し出される。シャンパンが注がれたグラスを乗せている。おしゃれなジャケットで決めているあずきがウインクしていた。古井は慣れた仕草でグラスをつまんで持ち上げ、ウインクし返した。サングラスをしていても分かる。岡本にも差し出された。細ーいグラスだ。小さい泡が見える。発泡ワインではなく本物のシャンパンだろう。思わず「何してんすか」と言いそうになるのをぐっと堪えた。顔の前に手をかざした。「いりません」という意思表示である。あずきはクスッと笑い、何も言わずに去っていった。

「何をしているんですか?」

 岡本の頭の中には数限りない疑問が浮かんでいるが、そう言うのがやっとだった。

「おいしいよ」

 シャンパンを飲み干した古井が言う。少ししか入っていないので一口だろう。

「あ、いや、あずきさんが」

 主語が入っていなかったので後から付け足した。

「僕に聞かれても困るけど、多分だけど、シャンパンを配ってるんじゃないかな」

 立食パーティーの料理が置いてあるテーブルに、古井は空のシャンパングラスを置いた。

「うまそうだけど、やっぱりジンギスカンからだよね」

 誰にともなくつぶやいている。確かに豪華な料理が並んでいるが、どこか画一的で、テーブルでジンギスカンを焼きたくなる心理は理解できる。

「この料理とか、いつのまに用意したんだ......」

 テロリストにジャックされた会議場が、一転、和やかなパーティー会場になっている。岡本は目眩を感じるほどに違和感に襲われている。

「幻覚とかでは無さそうだよ」

 古井はローストビーフを手でつまみながら言った。しっかり食べている。

「会議の後に会食でもあったのかもしれないけど、ジンギスカン鍋は? どこから持ってきた?」

 とても和やかに、穏やかに歓談が続いている。操られていたり、精神を支配されているという風でもない。

「これは、あずきさんの得意技が決まったな」

 そうだろう。それしか考えられない。自発的にジンギスカンパーティーをするように仕向けられている。

「で、鍋は?」

 他にも、食材とか、いろいろ不審な点はある。

「細かいことはいいじゃない」

 古井に軽く流された。彼は気にならないのだろうか。

「どこか、飲食店から運んだか? いや、こんな厳戒態勢で、食材の搬入なんかできるはずなし......」

 岡本には、一人でも気になり続ける覚悟があった。

「このビルにジンギスカン屋さんが入ってたんじゃないの?」

 そんなバカな話があるか。

「そこまで気になるなら、あずきさんに聞いてみればいいじゃない」

 古井が出してきた案は、とうてい意欲が湧きようもないものだった。

「どうせミステリアスでしょ?」

 解決どころか、謎が深まるだけに決まっている。

「お、どったん?」

 古井が手を振ったのに気付いたあずきが近づいてきた。テーブルに野菜を補充するところのようだ。

「お疲れ様」

 笑顔で古井が言う。

「食べないの?」

 そう言って、あずきは首を振って会場を見回した。空いているテーブルを探してくれているようだ。

「あ、まあ、我々は、ね」

 ホスト側だからガマンします、的なテンションで古井が遠慮した。

「それより、ほら」

 そして古井にひじでつつかれた。あずきが小首を傾げてこちらを見ている。

「あ、あの、すみません」

「はい何でしょう」

 告白するみたいな展開になっている。

「早く言えよー」

 古井に冷やかされている。とても居心地が悪い。

「あの、なんで、みなさん、ジンギスカンを食べているんですか?」

 岡本の問いかけに、あずきの動きが止まった。みるみる笑顔が消えていく。

「あ、聞いちゃまずかった?」

 あずきは大きなため息をついた。あからさまに不機嫌な顔になり、あごで古井を呼んだ。「来いや」という動作だ。岡本から少し離れ、二人でヒソヒソと話し始める。

「どういう教育をしているの?」

 小声な分、シリアスな感じが伝わる。感情を押し殺している分、怒っている感じも出ている。

「ごめんなさい。ほんと、ごめんなさい。後でよく言っておきます」

 古井は手を合わせ、何度も頭を下げている。

「今後はこんなことが無いようにお願いしますよ」

「ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」

 この二人は、どういった上下関係なんだろうか。頭の後ろで手を組んで、岡本は二人の話が終わるのを待っている。

「頼みますよ」

 吐き捨てるように、息のスピード速くあずきが言い捨てた。古井は岡本を手招きし、「君も謝りたまえ」というような表情をした。

「ジンギスカン鍋はどこから持ってきたんですか?」

「まだ言うか!」

 あずきが激高し、飛びかかってこようとするのを、古井が羽交い締めで取り押さえた。

「あずきさん! 落ちついて!」

「前もって用意できたわけないし」

「いいかげんにしろ! 岡本君! 死にたいのか!」

 必死であずきを制止しながら古井が声を飛ばす。殺されたくないからそれ以上は適当なことを言わないようにした。岡本の自由な言論は封殺されてしまった。

「ふん。ま、その、命知らずで向こう見ずな肝っ玉に敬意を表して、少しだけ教えてあげよう」

 乱れた髪を撫でながら、あずきが呼吸を整えている。

「良かったね! 運がいいよ岡本くん! こんなことはめったにないんだから!」

 今日来たばかりの岡本には、システムやレギュレーションが分かっていないので、そのありがたみが実感できなかった。

 あずきは、すっと目を閉じる。室温が二度ほど下がった気になる。古井が一歩下がる。岡本は思わず息を飲んだ。おちゃらけていた今までとは趣が急に異なった。

 あずきは胸の前で静かに手を合わせた。空気が澄んでいくようだ。和やかなジンギスカンパーティーの一角で、悪魔三体が緊迫している。会場に薄く流れているBGMのクラシックも、紙一枚隔てているように聞こえる。

 あずきの合わせた両手がゆっくりとずれていく。右手が上に、左手が下に。まったく動きにもスピードにもブレがない。油圧で動く機械のように、無機質で無慈悲な正確さである。人間の動きではない。悪魔だけど。

「すごい。身体言語だ......」

 古井から感極まった声が漏れる。岡本はそのような素養を持たずに今まで生きてきたが、なにやら大層な、とんでもなく高度なことが行われているような気はしている。ルールは分からなくとも、レベルの高さというものは、見ているものの胸を打つということだ。中村の素振りしかり。

 あずきの右腕が上がっていくにつれ、腰から上が右方向に回転を始めた。磁力で浮く磁石のように、ひねる動きもよどみがない。

「うう、なんですか、これは......」

 岡本も声を上げざるを得ない。すさまじい迫力を感じる。先程までの茶化すような気楽な発言はもはやできなくなっている。実際の戦闘力は未知数だが、すでに精神的に飲まれてしまっていた。戦意喪失というやつだ。

 あずきの頭上から、ヒラヒラと、薄い布のようなものが舞い降りてきた。薄いイエローの、タオルか手拭いのようだ。どこから落ちてきた?

「あれがあずきさんの得意武器だよ!」

 古井が興奮気味に囁いた。あまり武器っぽくない。マフラーくらいの長さである。

「あれで戦うんですか?」

 首を絞めたりするのだろうか。

「まあ、見ててごらん」

 古井はゆっくり頷いた。さっきからそうしている岡本も渋々従った。

 落ちてきた布をあずきは右手で受け止めた。ふわっと掴んだ。あらかじめその位置に右手が来ることを知っていったかのようなタイミングで落ちてきた。あずきが自分の意志で出現させたのだから、それほど驚くことでもなかった。

 布を握った手を目の高さに下ろしながら、あずきは薄く目を開き、岡本へと向き直った。岡本はドキッとして半歩後ずさった。刺すような、貫くような視線だった。布は岡本に突きつけられている格好だ。

「言い残すことはあるかい?」

 古井が言う。少し笑っているのは、冗談だからか、それとも憐れみからか。

「ええっと、それは、なんでですか?」

 あずきの視線から逃げられず、走って逃げることもできず、岡本は古井の方へ問いかけた。

「いや、あるかどうか聞いただけ」

 危うく恥ずかしいことを言うところだった。「家族に、愛してると伝えてください」とか。

「お別れを言うなら、今の内よ」

 あずきに心を読まれた。岡本の動作も思考も、そっと完全に停止した。

「さあ、力を抜いて、楽にして」

 古井の声に、岡本は我知らず目を閉じた。ひとしずくの涙が頬を伝った。しかし、なんでお別れを言わなければならないのだろうか。

「あの、僕、まだ死にたくないんですけど......」

 何も主張しないで殺されていくのは耐えられない。ダメ元で言うだけ言ってみようと思った。二人は「フフフ」と低く含み笑いをするのみで、なにも具体的に応えない。

 岡本の顔の前にマフラーが突きつけられている気配を感じている。動く気配はない。岡本の眉間に緊張感が弾ける。十五分くらい経過しているように思うが、実際には、数十秒のことなのだろう。

 つぶっていた右目だけ、少しだけ開いてみた。ぼやける視界の中、薄い黄色の布がフワフワと舞っている。顔の前でマフラーを振られているのだ。パタパタと。直接のダメージを与えようという意志は無さそうなので、岡本は両目をゆっくりと開けて、踊る布を見た。動きがあるのでつい目で追ってしまう。右に、左に、糸を引くような残像を残し、幻想的に漂っている。半透明の黄色い残像が幾重に連なり、描かれたサイケデリックな模様が、岡本をトランス状態へと誘った。口が開き、目が半開きになる。脳の奧が痺れる。指先がジンジンする。

『ぐぐぐぅー、ぐきゅるるー』

 その音は唐突に鳴り響いた。岡本自身の耳にもはっきりと届いた。慌ててお腹を押さえ、腹筋に力を入れももう遅い。顔が赤くなるのを感じる。

「あははは。お腹空いてたんだねー」

 古井に笑われた。しかしその途端、古井の方からも『きゅきゅきゅー』という音がした。はっとして手で腹を押さえているがもう遅い。

「そういう古井さんだって......」

 言いかけて、言葉が続かなかった。恐ろしいほどの虚無感。腹から忍び寄ってくる。立っているのもつらい。力が入らない。とにかく空腹で仕方ない。

「たはは。ジンギスカンのいい臭いをかいでたら、僕も堪らなくなってきたよ」

 古井も膝に手をついてつらそうにしている。二人して急激な飢餓感に襲われている。

「って、おおっと」

 岡本は膝から崩れた。自分の脚ではないかのようだ。まったく言うことを聞かず、右膝が地面についた。両手もついた。

「さすがに、ちょっと疲れたかな」

 古井の声が意外なほど近くから聞こえたので振り向くと、同じように床にへたり込んでいる。何度も変身を繰り返していたので疲労が溜まっているのかもしれない。飄々と振る舞っていたので気がつかなかった。

「へへ、お腹空きましたね」

 どちらが先に「ジンギスカンを食べさせてください!」と言うか、ギリギリ最後のプライドの勝負になっている。

 二人は跪いた状態であずきを見上げる。そこには割烹着姿の女神がにっこりと微笑んでいた。滂沱の涙を流しながら二人同時に力強く頷いた。そして声を合わせて叫んだ。

「ジンギスカンが食べたいです!」

 心の底からそう思った。操られている感覚はない。実際、盾を出しすぎて疲れているし、お腹は減っている。自分の心に素直になったというか、解き放たれたという感覚である。あずきがきっかけを与えてくれたのだ。仕組みは分からないがおそらくそうだ。

 あずきは左腕を後ろ斜めに逸らし、テーブルを指さした。席が空いているということだろう。先に古井がヨロヨロと立ち上がり、フラフラと歩き出した。先を越されてしまった。岡本は他に空いている席が無いか探す。

 空席なら、先程パーティー会場に入った直後に見つけていた。植田と西村の間だ。あそこに入っていける勇気はあるか? あずきに後押しされたとはいえ、恥ずかしがりの岡本には高いハードルであった。

 気がつけば立ち上がっていて、気がつけば歩き出している。もちろん植田と西村の間の席を目指している。あずきの横を通り過ぎた。マフラーを振ってくれている。特に精神に影響は感じられなかったが、嬉しかった。素直になれた気がする。

「ここ空いてますか?」

 植田にも西村にも聞こえるように言ったつもりだ。

「......」

 西村が軽く何回か、目を合わせずに頷いた。無言なのはジンギスカンを頬張っているからだろう。傍らには空になった皿が積み重なっている。ずいぶん食べている。一人で。

 植田はリアクションしなかった。向こう隣の将軍風の男と話し込んでいるためだ。二人ともジンギスカンを焼きながら、食べながら話している。笑顔はない。だがそれほど険悪ということもない。

 岡本がそっと椅子に座っても植田も将軍も視線を向けなかった。とにかく腹が減っている。余計な気を遣わなくてすむのは岡本にはありがたかった。横から白ご飯が差し出される。あずきだった。焼けた肉をご飯に乗っけてかき込む。もう夢中である。


「結局、悪魔には、人間の気持は分からないでしょう」

 将軍の声が聞こえてくる。食べるのに集中していても耳から脳へと入ってくる。

「分かるよ!」

 植田が鋭く否定する。杏仁豆腐を食べている。デザートらしい。

「いやいや、ないない」

 将軍は首を振って長い髪を揺らした。ダメージヘアである。

「分かったもん!」

 言葉は鋭いがそれほど怒っているようでもない。幼さを残しつつ、意志の強さを感じる。

「わかんないわかんない。分かったフリしてるだーけー」

 将軍はかなり上からの口調で植田を馬鹿にした。腹立つ言い方だ。

「いーや。分かる。佐藤さんが自分からそんなことしないことは分かってる」

 佐藤、岡本は初めて聞いた名前だ。植田の知り合いらしい。

「彼女の意志ですよう」

 落ち着き払って目を閉じた将軍が言う。さっきからかんに障る。

「信じない」

 植田は杏仁豆腐を見つめている。将軍の方はほとんど見ない。

「佐藤さんって誰か知ってます?」

 岡本は我慢できず、横に座っている西村に聞いた。植田達に聞こえないよう声をひそめた。

「......」

 西村は口いっぱいのジンギスカンを咀嚼しながら頷いた。岡本はその咀嚼が終了するのを待たなくてはならなかった。

「人間ですわ」

 飲み込んだ西村が低い声でボソリと言った。

「......」

 今度は岡本が無言で頷く。それは分かっている、と続きを促す目をした。追加のジンギスカンが焼けてきたので食べるペースを上げようとしている。

「男かね」

 聞かずにはいられなかった。

「女性だと聞いています」

 西村は同情するような目をして応えた。

「佐藤さんってのは、私の恩人なんだ」

 植田が首を巡らせて、岡本と西村の間あたりに声を放ってきた。聞こえていたらしい。

「昔、やさぐれてふて腐れてうらぶれていた私のモチベーションを、佐藤さんが回復させてくれた」

 岡本は目を大きく開けて大きく頷いた。口がふさがっているのだ。

「何がモチベーションだ! 悪魔のくせに!」

 向こうで将軍がかん高い声で叫んでいる。黙れ人間のくせに。

「いや、ほんと酷かった。あの頃は」

 西村が言う。昔の植田のやさぐれぶりを知っているようだ。

「いつ頃の話?」

 岡本は再び西村に聞く。一度会話が成立したら気楽になった。

「五~六年?」

 西村は植田に確認するかのように言った。岡本が植田に直接聞けば早いのだが。

「そんくらいだねー」

 植田はぶっきらぼうに応えた。

「そんなに昔でもないか」

「悪魔にとってはね!」

 岡本の感想に将軍がケチをつけてきた。そろそろ本気でうざい。

「我々人間は、悪魔みたいに何百年も生きられないの! 寿命が短いの!」

 もちろんそんなことは言われなくても分かっている。人間の寿命は悪魔の十分の一程度だ。悪魔にとって五年前とは、人間でいうと六ヶ月くらいの感覚である。

「人間には、五年って、長いよー」

 かん高い上に早口なのが腹が立つ。つい聞いてしまう。耳障りなのである。

「彼女は私を信じてくれた。嬉しかった。それまでは誰からも信じてもらえなかったから」

 植田はうっとりと遠くを見ながら話している。植田の言葉は漠然としていたので、岡本にはイマイチはっきり伝わらなかった。

「五年前はまだデビューしてなかったっけ?」

 植田は「天才」と呼ばれ、悪魔では知らぬものはいないほど活躍している。

「それくらいにデビューですわ」

 横から西村が教えてくれる。岡本の声は将軍と植田に届いているのか不安である。

「二年ぐらいしてから、僕がサポートに入るようになりましたね」

 聞いてないことまで教えてくれる。いい人のようだ。それとも自慢か。

「さ、サポートって、どんなことするのかな?」

 無意識で口走ってしまった。認めたくないが、動揺してどもってしまった。

「知らないんですか?」

 西村は敬語で話してくれる。実力はともかく、岡本の方が年上なのを認めてくれているらしい。

「あ、ううーん、知らない訳じゃないけーどー?」

 語尾が自然に上がる。

「悪魔によっても、どんな形態でサポートするか、違いがあったりしない?」

 素直に知らないと言えなかった。

「違わないでしょ。制度なんだから」

 西村は薄く笑った。まずい。敬意が薄まっていく。

「ああ、あああ。制度ね! サポート制度! あったね、なんか、そういえば」

 たまにパンフレットなどに書いてあるのをチラと見た記憶がある。孤独癖の強い岡本には無縁のものだと気にとめなかった。

「多分それですわ」

 完全に笑われている。あまり偉ぶりたくないので、これくらいで良いのだと自分に言い聞かせた。

「っていうか、植田さんあんなに強いんだから、サポートとか要らなくない?」

 自分で思っていたより言い聞かせられなかったようだ。

「ですよねー。『もうサポートはいらないでしょう』と言っても、なぜか継続の申請をされるんですよねー」

 明らかに自慢だ! 岡本は心の余裕を失った!

「なんで?」

 余裕がない岡本は急き込んだ。

「僕に聞かれてもねえ」

 対照的に西村は余裕たっぷりである。視線で植田の方を指す。「自分で直接聞けば?」とでも言いたげだ。

「うん、うははは、なんでだろうねー!」

 岡本が聞けるはずがない。余裕ないなりに笑ってごまかそうとした。

「ま、雑用がメインですけど」

「あ、そうなんだ」

 ほっとしたような、でもやはりうらやましいような。

「他には、やっぱり、銃だからでしょうね、ええ」

 そう言うと、西村は意味深な笑みを浮かべた。確かに西村の武器は銃である。

「植田さんも遠隔攻撃できるのに」

 短剣を何本も飛ばしていた。自在に操っていた。

「そんなに遠くまでは届かないみたいですよ」

 知った風な口をききやがって! 知ってるんだろうが。

「その、佐藤さんという人を助けるのには、遠距離攻撃が必要ということか」

 岡本はつぶやいて植田の方を見た。佐藤がどのような状況なのか分からないが、植田の方では色々と考えているのだろう。

「やっと見つけたと思ったら、変な実験に巻き込まれて、かわいそうに」

 植田はテーブルにヒジをつき、頭を支えている。頭が大きく左に曲がっている。

「変な実験って言い方はないでしょ! 人類の未来、最後の希望なんですから」

 将軍がかん高く反論する。怒っているようにも笑っているようにも取れる。

「いつまでも天使に頼ってちゃダメなんだよ。かといって、あいつらみたいに、急進的な? 拙速なことをやっててもダメ。こつこつ積み上げてきたプロジェクトなんだからさー。邪魔されると困っちゃうわけよ」

 将軍というのは岡本が勝手にそう呼んでいるだけだ。話し方の軽さからすると、それほど重役でもないのかもしれない。

「あいつらって?」

 岡本は西村に聞いた。

「あいつらっすわ」

 西村は一つ向こうのテーブルを指さした。赤いマニキュアを塗っている。パンクである。

 岡本はジンギスカンを焼く手を休め、そのテーブルに眼を移した。


 迷彩服を着た、いかにも戦闘員といった風情の男たち。全部で十五人くらいいるだろうか。その中でもリーダー風の男がいる。無精ひげを生やし、目つきは鋭い。

「まあ、どうですか、シュトウさん」

 古井がビールのビンを差し出す。リーダーの名前はシュトウというらしい。

「あ、いただきます」

 そのシュトウはグラスを差し出して応える。ビールが注がれる。

「古井さんもどうぞ」

 さらに隣のテロリストが、別のビンを古井に注ごうとした。なんとも空々しい光景である。

「やや、これはありがとうございます。ええと......」

 古井は、隣の、アゴに特徴のあるテロリストの名前を思い出そうとしているようだ。いわゆるエラが張っているというやつである。

「あ、スギオです」

「スギオさんね。シュトウさんに、スギオさん」

 名刺でも配り出しそうな勢いだった。

「スギオさん! どうもごちそうさまです!」

 うれしそうにビールを注がれている。古井はこういうのは苦手ではないようだ。

「久しぶりのビールは、うまいなぁー」

 古井はとても楽しそうである。

「普段は飲まれないんですか?」

 スギオが、しかたなく、といった感じで話を合わせる。テロリスト達は基本的に不機嫌そうである。

「家ではね、発泡酒ばっかりなんですよ!」

 悪魔なんだから家庭での経済的な話をしないで欲しかった。夢が無くなるじゃないか。

「......悪魔も、金出して、発泡酒買ってますの?」

 シュトウが食いついた。積極的な自己開示が、他人からの理解を呼ぶということか。

「箱買い!」

 古井は言い切って自分で笑っている。岡本が目を離していた間に結構なアルコールをきこしめしているようだ。

「悪魔は金払わんでもいいんじゃなかったっけ?」

 シュトウがスギオに同意を求めている。

「ええ、ええ。オラオラーって、ぶんどって行きよるでしょ」

 スギオが言う。人間による悪魔への偏見である。紳士的な悪魔もいるということをこれから古井が説明してくれるだろう。

「多いよねー。そういう悪魔」

 すんなり流した!

「なんで、金、払うんすか?」

 シュトウは不思議そうに聞いた。タダでいいのにわざわざ支払うというのが人間には納得しづらいらしい。岡本にも上手く解説できる自信はない。

「悪魔割引ってのがあるんですよ。あ、これ言っちゃまずかったかな? 内緒ね!」

 古井は茶目っ気タップリに人差し指を口の前で立てた。「なぜ払うのか」の質問に「割引があるから」というのは答えになっていないと思った。

「マジすか! いくらくらい安くなんすか?」

 シュトウの声は大きい。会場中に響く。悪魔でなくとも聞こえる。

「内緒だってば! ......知りたい?」

 古井の問いかけに、二人のテロリストは揃って頷いた。

「これくらい」

 そして古井は、右手をパッと開いて見せた。すぐしまった。

「ご、ご、ご、五割引!」

 シュトウの絶叫はまたしても会場に鳴り響く。それほど物騒な内容の言葉ではないのが救いだった。他のテーブルでも楽しげな歓談が続いている。

「毎日が半額セールすか!」

 スギオも声を上げる。音量は普通である。

「いわゆるクマ割だね」

 古井が、求められていない補足情報を開示する。「お店に無理やり割り引かせているんだから、強奪するのと、システム的には変わらないんだよなあ」と、岡本は心の中でつぶやいた。

「そんなに安く買えんのに、なんで発泡酒で我慢してはりますの?」

 シュトウから至極まっとうな疑問が発せられた。

「え?」

 調子の外れた、無駄に明るく、無駄に大きな声で古井が聞き返した。

「聞こえてるやろ」

 シュトウが冷たく突っ込んだ。

「何に、お金を、使ってるんですか?」

 スギオが、嫌味なくらい明瞭な発音で古井に圧力的に聞いた。

「何に、使ってるんですかねー? いつの間にか無くなりますよね?」

 必死に誤魔化そうとしている様子が見て取れる。

「そんな、僕らみたいな貧乏レジスタンスと同じようなこと言わんでくださいよ」

 シュトウらは自分たちのことをテロリストとは思ってないようだ。レジスタンス=抵抗勢力。何に抵抗しているかと言えば、もちろん天使に対してである。

「貧乏なの?」

 古井は真正面から行った。

「貧乏だよ!」

 シュトウが声を荒らげる。そりゃ怒るだろう。

「スポンサーは?」

 デリケートな部分にズバズバ斬り込んでいく。

「いや、いることはいるけど......」

 シュトウが急に弱気な声になった。あまり触れられたくないようだ。

「依頼人の名前は、例え殺されても言わねえ、じゃないの?」

「そう! それそれ!」

 スギオのフォローにシュトウが乗っかる。

「こういうのって、だいたい前金はちょっとだけだから。後は成功報酬で」

 スギオの解説に古井は腕を組んで「どこも大変だなー」と何度も頷いた。

「成功することってあるの?」

 どうしたら、古井のように恐れを抱かなくなれるのだろうか。

「ああ?!」

 当然の反応である。古井は涼しい顔である。

「天使にはどうあがいても勝てないでしょ?」

 古井は単純な事実を言った。テロリスト(レジスタンス)は悲しげな顔になった。

「いや、まあ、直接戦わないミッションもあるし......」

 スギオが小さな声で言った。

「おう。兵器工場を襲撃したりな!」

 そういった小さい破壊活動を繰り返している。岡本も新聞やニュースでたまに目にする。当局で手に負えなくなってきたから、古井のような悪魔に外部委託するようになったのだろう。

「まあ、若い内は、なんでもやってみることだネ!」

 テロを容認するかのような発言だが、古井は大分酔っているので、酒の席のこととしておきたい。

「いや、そんな小規模なことを繰り返していても、体勢に影響ないのは分かってるよ。でもね! 何とかしなきゃいけねえんだ!」

 ひときわ大きな声でシュトウが吠える。周辺の室温が上がっている。

「わかる!」

 古井は首をガクンガクンと縦に振った。

「わかるか! 悪魔に人間の気持ちがわかってたまるか!」

 シュトウという男は恐れを知らないようだ。あるいは、相当に酔っている。

「その、わかんない、っていうのが、わかる!」

 古井もムキになって反論したりしない。感情的になられたら岡本にとっても困るから、いや、さほど困らないが、愉快に飲んでもらってる方が安心できる。

「だいたい、さっきの話が終わってないぞ!」

 古井が怒らないのをいいことに、シュトウはつけあがっていく。楽しいお酒も善し悪しである。毅然とした態度が必要な時もあるだろうに。

「何の話?」

 聞き返したのはスギオだった。

「使い道や! 金の! なんで悪魔が発泡酒を飲んでんのか!」

 それは岡本にも興味があることだったので、心の中で「ナイス」と言った。

「なんでもいいじゃない」

 古井は素っ気なく突き放した。どうやら隠したいようだ。

「ヒントくださーい」

 スギオがさも当然の権利といった感じで言った。

「ん......。ヒント、ねえ」

 古井は考え出す。言ってみるもんだ。

「何か買うんですか?」

 スギオは尋問口調で追いつめようとしている。

「いや、特にこれといって、買うからっていうんじゃ、ないな」

「買わない? じゃあ何?」

 シュトウがそのまま聞く。

「使うとか? 旅行とか」

 スギオは自分でたどり着こうとしている。

「自分で飛んでいけるからなー」

 古井は飛行機にも攻撃ヘリにも変身できることをシュトウ達は知らないだろう。

「ああ、悪魔ですもんね」

「住む世界が違うなー」

 二人ともすぐに納得した。空を飛べる悪魔というのは実は少数派なのだが。

「じゃあ、貯める、とか?」

 スギオの推理は続く。

「何のために? なんも買わんのに」

 シュトウの言葉に古井は眉をしかめる。正解に近づきつつあるのかもしれない。

「もうちょっとヒント」

 スギオが更に畳みかける。有無を言わさない強さを感じる。

「う、ん......。困ったな」

 なにを困ることがあるだろう。やはり勢いとか気持の強さとか重要だ。

「募金......」

 マジか?!

「マジで?!」

 岡本もテロリストたちも同時に驚いた。

「何の募金ですか?」

 そしてスギオはストレートに聞く。当然の疑問である。岡本も二回目の「ナイス」を思った。

「何でもいいじゃん」

 古井は逃げるように言った。

「災害の義援金とか?」

 スギオはさらに探りを入れる。追及の手をゆるめない。

「いや違う」

 ノータイムで古井は否定した。

「身体が不自由な方に?」

 スギオの質問は嘘発見器のようだった。

「違う違う」

 不機嫌そうに、つまらなそうに、古井は首を振った。

「恵まれない子供たちに」

「ぐわっはう!」

 聞こえるや否や古井は盛大にむせ返った。こんなに分かりやすかったか?

「えー! そんなキャラなんすか?」

 シュトウは目を見開いて驚いている。岡本にとってはそれほどの衝撃は無かった。裏の顔は相当にまともそうだと思っていた。

「まさかロリコンだったとは!」

 スギオからの予想外の切り返しに、今度は岡本が吹き出しそうになった。

「それは違うけど」

 古井は素に戻って否定した。岡本としても違うと思いたい。

「子供、好きなんですか?」

 シュトウがトーンを戻して聞く。

「あ、まあ、好きだけど」

 古井はオドオドと応える。

「じゃあロリコンですか?」

 スギオが引き継ぐ。大したコンビネーションだ。

「そういう方向の好きじゃないよ! 僕にも社会的なプロフィールがあるんだから、むりやり変な言いがかりをつけるのは止めてちょうだい!」

 古井がついにキレた。人間なんかの挑発に乗っているようでは、そのプロフィールとやらもまだまだだな。

「シュトウケンイチ、悪魔に物申す!」

 急なタイミングでコーナー名を怒鳴った。悪魔イヤーでなくともビンビンに聞こえる。周りのテーブルの人間達も振り向くほどだ。

「おう。いけいけ」

 おざなりにスギオが励ました。シュトウはどこか弱気そうな感じがする。

「......僕に?」

 古井はキョロキョロした。物申される準備が整っていないようだ。心当たりもないだろう。

「この、クロイカヅチ奪還計画、百歩譲って天使に止められるなら分かる。なぜ悪魔が邪魔をする! なんで悪魔が天使の味方をするんですか?」

 このテロは『クロイカヅチ奪還計画』というプロジェクト名らしい。テロっている本人がそう呼んでいるだけで、世間から見たらただのテロなのだが。

「ねねね、クロイカ、ってなに?」

 岡本は小声で西村に聞く。完全に頼り切っている。

「......兵器っすわ」

 西村はジンギスカンを飲み込みながら応えてくれた。さっきから食べ続けている。相当な量だ。

「ははあー。さては、天使の命令で人間が開発した超兵器を、テロリストが奪いに来たのだな」

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