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前半


 岡本は一度、そのビルから離れた。建物全体の写真を撮ろうと思ったのだ。夕焼けは、赤というよりも紫というか、薄めた赤ワインのようだ。ビルを主役として、背景としての夕焼けはしっとりと、その役割を無言で全うしている。

 携帯に写真を収め、そのままの流れで、もう一度、住所を確認する。GPSの画面。間違いない。メールで送られてきた住所も、ビルの名前も、間違っていない。

 イメージとは大きく隔たりがあった。いや、別に、そんなに立派な建物を想像していた訳ではないけど、天を衝くとか、摩天楼とかいうビルディングに自分がこれから通えると期待していた訳ではないけれども。

「雑居ビル、だよなあ......」

 隣のビル、その隣のビル、完全に調和している。あるいは埋没している。住所の番地だけではたどり着けなかったかもしれない。一軒ずつビル名を見ていって、ようやく見つけた。「え、あ、これか」と思わず口に出てしまった。

『悪魔調整局 第三分室』という表札の前で、また写メを撮る。第一分室、第二分室はどこにあるのだろうか。なんとなく、存在しないような気がしている。単なるノリで第三分室にしたかっただけじゃないのか。根拠もなく思った。

 開けっ放しの玄関ドアを抜ける。人の気配はない。受付なんかある訳がない。エレベーターがあって、その奧はトイレらしい。管理人室らしきものの窓は電気が消えていて真っ黒である。全くの無音。拒絶されているような気はする。歓迎は絶対されていない。なにせ暗い。

 隣のビルの一階がコンビニになっている。僕は最初からコンビニに入ろうとしていましたヨ、という素振りで目当てだったビルを通り過ぎる。小さくため息をつきながらコンビニに入った。自分のこういうところが嫌いだ。変に意識せず、堂々と入っていけばいいものを、どうでもいいことをこまごまと考えてしまう。雑誌の並び具合を見て、お菓子コーナーを見て、飲み物コーナーでペットボトルのお茶を手に取った。まったく持って普通のコンビニである。これから昼休みにはここで弁当とか買うのだろうかと思うと、何ともやるせない気分になってきた。通りの向こうに牛丼屋が見える。無いよりはマシかな、とも思う。

 お茶だけじゃ物足りないな、甘いものも買っていこう、と思って振り返った時だった。

 その時に店内にかかっていた音楽を今も覚えている。この曲を聴けば、いつでも脳内でリプレイされる映像だろう。表情だろう。どことなく感傷的な曲だった。激しさの中にも切なく、それでいて堂々とした歌声だった。

 自動ドアが開き、一人の女性がコンビニへと入ってくる。

 悪魔だ。一目見てそれと解った。悪魔同士はお互いに感知しあう。岡本は思わず身を固くし、お茶を体の前で構えた。

 赤い帽子、黒いジャケット。帽子の丸いつばに隠れて顔は見えない。黒いズボンのすそから黒いヒールが覗いている。カツンカツンと鳴り、止まった。

 右手で帽子を少し上げた。左目だけがギリギリで見える。はっきりと、間違いなくこちらを見た。驚いているような、めんどくさそうな視線。

 いくぶん、身長は小さい。そして細い。若い女性タイプ。岡本は心当たりがない。悪魔は絶対数が限られているから大概は顔も名前も知られている。黒が主体だからといって、若い女性タイプのチェックが漏れていたとは我ながら意外だった。向こうはこちらを知っているだろうか?

 彼女は無言で帽子を戻すと、そのまま雑誌コーナーへと進んだ。すなわち無視された。悪魔同士だからといって挨拶しなければいけない決まりもない。しかし、あまり良い気もしない。年齢はそれほど変わらないように思った。

 岡本も、自分では悪魔としてはメジャーだという自覚はない。知る人ぞ知る、というタイプだ。中の上くらいの実力だという自負はある。無視したくなる方の気持も分からないではない。繰り返しになるが良い気はしない。気付けば目で彼女を追っている。雑誌をざっと見た後で、お菓子コーナーへ向かってくるようだ。無視して去っていくならともかく、まったく恐れる素振り無く近づいてくる。もはや不快である。

 棚に一つだけのチョコレート。板チョコ。二人の視線を一身に集める。女性が取ろうとしている感覚が伝わる。悪魔だからといってそんな能力はない。何となくである。そのチョコは前から岡本も買おうと思っていた。本当だ。位置は岡本の方が近い。先に取れる。

 その刹那、青白い雷光が閃いた。伸ばした岡本の右腕を切り落とそうとする刃。いわゆる日本刀である。右手で上方向に抜き上げ、そのまま片手で切り下ろした。抜き打ちというやつだ。先ほどは日本刀で武装しているようには見えなかった。悪魔は無から武器を生み出せる。

 まさか。いきなり。

 岡本も中の上の悪魔として、黙って右腕を切り落とされる訳にはいかない。得意武器は盾。武器ではないという意見もよくいただく。左手の甲に丸いシールドを発生させ、青白い閃光を弾いた。衝撃でコンビニのお菓子コーナーが吹っ飛んだ。レジで店員が叫び声を上げた。

「なに?!」

 そして岡本も驚きの声を上げた。

 絶対の自信があった盾が、半分切れかかっている。

「これは! スタンダード・シールド!」

 女性悪魔も目を見開いて声を出した。盾の形状で識別してもらえたようだ。

「ご存じのようで光栄です。そういうお宅様は......」

 日本刀、というのは知識では知っている。だが改めて、このような古風なものを得意武器にしている悪魔は聞いたことがない。まして女性ながら近接攻撃型。印象に残らないはずがない。

 ガッと音がして二人は離れた。それぞれ横に一回転して距離を取り、構え直す。

「......なんて切れ味だ」

 岡本は油断を見せずに盾の傷口を調べた。真っ黒い盾に、赤く焼けて一直線の筋が光る。

「岡本。噂どおり、硬い盾だ。あたしの刀を止めるなんて」

 彼女はつまらなそうに、それほど感心した風でもなく、刀を鞘に収めた。そして隙はない。岡本が一歩近づこうものなら、その刃は一瞬で抜き付けられるだろう。

「本気を出されたら盾ごと切り落とされたかもな。なんつって。はあ!」

 気合い一閃、岡本は地面を蹴った。衝撃で、倒れたコンビニの棚が起き上がる。散らばった商品も元の場所に戻っていく。悪魔だからこれくらい簡単である。

「中村」

 ぼそっと名乗った。

「あたしは悪魔が嫌いだ。あんたは悪い噂は聞かないけど、次に見かけたらこの刀でバラバラにしてやる」

 バラバラにされたくない岡本は肩をすくめた。

「見逃してくれるんだ。やさしいんだな」

「これは警告ではない。未来を言っている」

 中村はチョコレートを見せつけるように持ち直した。いつの間に?

「そのお茶、ちゃんとお金払いなさいよ」

 そう言い捨てて、中村はレジへと歩き出した。

「ああ、もちろん......。ん?」

 悪魔は人間を遙かに凌駕している。気ままに店のものを持って出たとしても、文句を言える人間はまず居ないのだが。

「うわ!」

 ペットボトルのお茶に切れ目が入っていて、いつの間にかちょっとずつ吹き出していた。岡本のズボンがしっとりと濡れていたのだ。いつの間に? そして、なんでこんな目に?

 慌ててハンカチで拭こうとしている岡本を尻目に、黒い女悪魔はコンビニから出て行った。店内放送の曲も終わった。


 次に見かけたらバラバラにされる恐れがあった。でも次に見たのはすぐ後だった。隣のビルの一階フロア。エレベーターが来るのを待っていたのだ。

「......」

 ちらっとこちらを見た。さすがに気まずいようだ。

「悪魔調整局?」

 奇遇ですね。運命でしょうか。などのニュアンスでおどけて言った。

 中村は応えずにエレベーターに向き直った。肯定のようだ。お互いに無言になる。あまり性能の高いエレベーターではないらしい。なかなか来ない。

「わざわざ悪魔が、調整されに来るわけはないから......。調整する側で呼ばれたんだよなあ」

 独り言のように言う。

「なんか用?」

 こちらを見ないで言う。

「こっちが聞きたいね。紙一枚で呼び出せるなんてさ」

 岡本はカバンに目をやった。あのチラシ。無視できないパワーが込められていた。

「あんたこそ調整されるんじゃないの?」

 中村はエレベーターに乗り込みながら言った。岡本も体を滑り込ませる。後ろに人がいるのに、すぐに「閉じる」ボタンを押さないでほしい。


 最上階。すなわち八階。二人がエレベーターを降りると、ドアがあるだけだった。看板が掛かっている。『悪魔調整局 第三分室』。表札のまま、聞いていたまま。真新しいし、安っぽい。なんとも心許なく、そして嘘くさい。うさんくさい。

 中村は歩き出さない。少し横に避けるような仕草をした。目の前には電話機。『御用の方はこちらを』の文字。受付に人を置かず、内線電話に済ませようとしている。中村は『お前がかけろ』と無言で主張する。岡本のテンションはみるみる下がる。

 男性型の悪魔として、女性型に恥をかかせるわけにはいかない。ため息をつきながら受話器を取り、書かれている内線番号をプッシュした。四九八九。なめてんのか。

 なかなか出ない。だれも電話を取らない。留守か? 岡本はちらっと中村を見た。見られても困るだろう。壁の向こうから、電話の鳴る音が聞こえる。岡本が受話器を置くと音も途切れ、もう一度かけると鳴った。悪魔の聴力でなくても、まる聞こえだ。

「すみませーん」

 中村がドアを開けて呼びかける。早く電話に出ろと直接呼びかける。本末転倒とはこのことだ。

 岡本の背後で物音。エレベーターの扉が開く音。受話器を持ったまま、いつでも盾を出せる体勢になる。また新たな勢力が増えるとややこしくなるな。

「うわっ!」

 エレベーターから降りてきたのは長身の男だった。牛丼屋の弁当をビニールに入れている。危うく取り落としそうになっている。いつもは人など来ないのだろう。完全に油断していた。

「誰?」

 こっちが聞きたいね。

「あの、チラシの......」

 岡本は受話器を置いた。ドアの向こうで呼び出し音が止まった。

「あ、面接?」

 想像を遙かに超えた回答が返ってきた。

「いや、チラシ見まして......、え、面接? ですか?」

 慌ててカバンを探り、紙切れを取り出す。


『来たれ! 意識の高いめの悪魔! この度、天使庁直轄の悪魔対策室と夢のコラボレーション"悪魔調整局"を立ち上げるにあたって、オープニング悪魔を大募集します! 悪魔だったらだれでもOK! ぜひお気軽にオフィスへお立ち寄りください! 君も、人間のエリート並の収入とステイタスをゲットしよう!』


 面接があるとはどこにも書いてない。もしかして、詳細がまだ何も決まってない内から募集をかけたのではないだろうか。

「こんにちはー」

 中村が先ほどとは打って変わった、やさしげな挨拶を男に送る。すでに知り合いなのか? 不公平ではないか?

「おお、中村さん! いらっしゃい!」

 長身の男はサングラスをかけている。それでも顔がほころんだのが分かる。

「知り合い?」

 手のひらを岡本に差し出す。中村は無言で首を何度も振った。すごいスピードで、何度も。

「ズボン濡れてるね。緊張して漏らしちゃった?」

 悪い悪魔ではなさそうだ。悪魔同士だから分かる。

「面接するって聞いてなかったから、緊張のしようもないですよ」

「うん。だから、今聞いて、漏らしたのかなって」

 初対面でこんな下らないネタを引っ張られて、岡本は心から困惑している。

「お茶ですよ。さっきコンビニで、そこのなかざ......」

「まあまあ。立ち話もなんですから!」

 にこやかにカットインしてきた。強引な笑顔だ。

「そうだね! 立ち話もなんだしね!」

 男もテンプレートなこのセリフが気に入ったようだ。思い出した。古井。相当レベルの高い悪魔だ。幹部クラス。何でこんな所に、牛丼弁当を持って現れるんだ。


「岡本くん、だね。ありがとうね応募」

 古井は先ほど書いた岡本のアンケートを読みながら言う。履歴書も渡した。

「確か、いい盾してたよね」

「え、ご存じで?」

 高レベルの悪魔に知られていたのは嬉しかった。「特技」の欄に「かたい」と書いてあったのを見ただけかもしれないが。

「こっちからもスカウトしようとしてて、インディーズもいろいろ見てるんだよー」

 メジャーじゃない悪魔はインディーズというのか。初めて聞いた。

「ああ、じゃあ、さっきの中村って人は......」

「いや、あの人は、コネ」

 あっさり言ってのける。

「じゃなくて、紹介ね。ハハ」

 パーテーションが真っ二つに切られ、ゆっくりと倒れた。


「はい。では、なんで悪魔調整を目指そうと思ったんですか?」

 面接は続いている。古井は、岡本が見てる前で牛丼をあっという間に食べ終えた。

「ええと、別に、何も目指してないですけど......」

 面接会場というより打ち合わせスペースである。小さめの会議室というべきか。六人程度で一杯になるだろう。

「困るなそんなことじゃ。これから一緒にやっていこうって気にならないよ?」

 こちらも困る。あんな投げ込みチラシみたいなのにどんな思い入れで臨めというのか。

「そもそも、どんなことをするのか書いてなくて......」

「自分で事前に調べなきゃ! どんな会社か知らないで就職するなんて、怖くないの?」

「ホームページが『建設中』のままだったので......」

「かー! 情けない! ホームページくらい自分で作ってやる、みたいな気合いがないと、この先やって行けないよ?」

「調子のりすぎじゃないですか?」

「ごめんなさい」

 圧迫面接でもやりたかったのだろうか。いまいち迫力がないのは、古井の持ち前の人の良さだろう。

「確かに、僕も、どんな感じで、何をやるのか、よく分かってないんだよねー」

 古井がつぶやく。岡本は帰ろうかとドアの方を見た。

 そのドアがノックも無く開く。堂々と、一人の女性が入ってきた。中村ではない。もっと落ちついた感じの、髪の短い、そして悪魔。

「あ、ごめん、あずきさん。今、面接中だから」

 古井は遠慮がちに声をかけた。それほど親しい間柄ではないようだ。本当に出来たばかりの組織なんだな。

「オッケー」

 あずきは、さらっと言い、椅子に腰掛け、テレビをリモコンでつけた。昼の連続ドラマがギリギリで始まった。

「いや、あの......」

 古井が言いよどむ。『面接中だから』は普通『出て行ってくれ』と受け取るだろう。それに対して『私は気にしないから続けて』と言うかのような『オッケー』だった。あずきはテレビの画面に見入りながら、プリンのビニールを開封する。食後のデザートに違いない。

「......」

 それ以上、関わる気力を失ったように、古井は黙って、岡本に向き直った。

「甘いものは好きかい?」

 圧迫面接のモチベーションも低下したようだ。

「好き......、ですかね......。そんなに自分から食べには行かない、かな......」

 岡本が話している間に、あずきがテレビのボリュームをどんどん上げた。とても申し訳ない気持でいっぱいになった。

「和菓子と、洋菓子だった、どっち?」

 古井が顔を近づけて、小声で聞いてくる。

「え、洋菓子ですかね。ケーキとか」

「日持ちしないじゃない」

「おみやげには和菓子ですね。ようかんとか」

「モナカもいいよね」

「何の話ですか?」

 古井の視線は、あずきが食べているプリンへと注がれている。

「さっき下のコンビニに寄ったら、お目当てのチョコが売り切れてたんだよ」

 渋い顔をして首を横に振る。最後の一個をゲットしたのは誰か、岡本は知っていたが言わなかった。

「プリン買ってきましょうか?」

 こびを売るつもりはなかったのだが、自動的に言ってしまう。

「冷蔵庫にまだあるよ!」

 突然あずきが大きな声を出した。

「え、でもあずきさんのでしょう?」

 古井が遠慮たっぷりに言う。

「いや」

 それだけ言ってまたドラマに集中する。二人は放り出されたままどうすることもできない。

「確かに、コンビニでは見かけないプリンですね」

 岡本があずきの手元をのぞき込む。あずきはさっと隠す。なぜ隠す?

「もしかして、あずきさん、お客さんが持ってきたとか?」

 古井は遠慮が取り払えないまま、果敢に立ち向かった。

「そう!」

 こちらを見ないで応える。そうか。差し入れか、おみやげか。高そうなプリンを持ってくるくらいだから、そこそこ重要な来客だろう。

「......そう、なの......」

 古井は希望と絶望の間にいるようだ。なんとか自分を奮い立たせて欲しい。

「取ってきます?」

 再び出るパシリ癖。自分が怖い。場所も知らないのに。


 古井と二人で給湯室に来た。目下のタスクは『冷蔵庫の中にある高価なプリン』をゲットすること。報酬はプリン。

 ああしかし、冷蔵庫の前に立つ前に、岡本は気付いてしまった。流しの横、洗い物のコーヒーカップに混じって、高価そうな、いかにもプリンの容器っぽい、ガラスの半円が打ち捨ててあるのを。

「あれー。ないなー」

 冷蔵庫をのぞき込んでいる古井の、悲しげな声。

「ストックしておいたジャスミンティーも無い......」

 そして絶望的な声が続く。

「あの、これ......」

 岡本は三角コーナーを指さす。プリンの容器が静かに転がっている。古井も一目見るなり、大げさなため息をついた。あずきは『まだある』と言っていた。すなわち、他の人間が食べた。一気に三つのプリンを平らげ、ジャスミンティーで一息ついている人間が犯人だ。

「ちょうど人数分あったのに、どうしたら一人で全部食べられる? あり得る?」

 岡本は、僕に言われても困る、と思った。言わずにいられない古井の気持も分からないでもない。

 ペットボトルのジャスミンティーを飲みながら、中村が給湯室に入ってきた。男二人が先着していたのに一瞬ぎょっとしたようだが、すぐに落ち着き、ジャスミンティーをぐーっと飲み干し、ゴミ箱にポイと投げ入れ、無言で去っていった。古井も岡本も、一言も発せなかった。

 チャイムが鳴る。室内放送で、昼休みの終了を告げている。鳴り終わるまで、岡本は古井にじっと見られた。サングラス越しでもはっきり分かった。


「プリンを差し入れてくれた人を突き止めて、お礼を言わなくていいんですか?」

「いいんじゃないかな。お礼は。言わなくても」

「いいんですか?」

 そういう立場なんだろうか。

「だって僕食べてないもん」

 確かに、味の感想を聞かれても応えられないもんね。

「そういう問題かい!」

 声はあまり大きくなかったが、鋭く発声した。古井は『おっ?』という顔をして、「なかなか良いツッコミするね」と言った。なんなんだ、この職場は。

「おごるよ」

「あ、いいんですか?」

 自動販売機の前で古井と二人。プリンもジャスミンティーも奪われ、面接場所から追い出され、リラックススペースに救いを求めた格好だ。百円玉を入れ、『どれでも好きなボタンを押しな!』とばかりに手で示す。紙コップでコーヒーが出て来るやつである。高いのは百五十円なのでボタンが点灯していない。岡本は九十円のコーヒーを黙って押した。おつりは古井がすばやく回収した。

「いやー、でも、ほっとしたよ。このまま誰も来ないんじゃないかって、心配してたんだ」

 古井は高いコーヒーを買った。

「え? 僕が初めてですか?」

 道理で段取りがつたないはずだ、とは口には出さなかった。

「やっぱり、悪魔なのに、天使に使われるのは、嫌な人多いのかな」

 天使に使われる? 岡本は再び手紙を取り出した。

「そんなこと書いてました?」

 古井はコーヒーを吹き出した。『信じられない』という目でサングラス越しに見られた。

「ここ」

 手紙のかなり上の部分、冒頭を指さす。

「天使庁直轄......」

 そのまま読んだ。


 古井による簡単な講義が終わった。天使庁とは、天使が人間を支配するための機関である。悪魔の立場で、天使の命令で、人間のために活動する、それが悪魔調整局、らしい。

「そんなの天使で勝手にやればいいじゃないですか」

 応募してきた立場も忘れ岡本が突っかかる。

「僕に言わないでよ」

 正論で立ち向かってきた。

「そう言う古井さんは、なんで天使なんかに使われてんすか?」

「使われてる訳じゃないよう」

 口をとがらせた。

「いろいろあるんだよ。話せば長いのが」

 サングラスで遠くを見ながら、ブラックコーヒーを苦そうに口に含んだ。窓の向こうは汚いビルばかりだ。

「短くできないですか」

 食い下がってみた。

「う......。なんだろ。腐れ縁、かな?」

「もうちょっと詳しく」

「......」

 古井は黙ってしまった。しまった。怒らせたか。岡本は冷静さを取り戻し、古井に謝罪しようと向き直った。

 口の端から、一筋の、赤い液体が垂れている。

「血!」

 岡本が叫ぶが早いか、古井は大量の血液を口から吹きだした。

「古井さーーん!」

 岡本は頭を抱えて叫んだ。脳内は白黒のビジュアルに切り替わる。吐血はマーライオンのように景気よく噴出し続ける。

 赤黒い地獄絵のなかで岡本が呆然としていると、清掃員の格好をしたあずきが無言で入ってきた。水色のゴム手袋。マスクに三角巾。何時の間に着替えたのか。

 まず、ハケのようなものを血液にチョンチョンとつける。それから一気に、ガラス窓に「HELP!」と書き上げた。ちゃんと外側から読めるように鏡文字になっている。かなりの達筆である。

 心の底から困惑している岡本を尻目に、今度はミニ掃除機のようなものを取り出した。けたたましい駆動音と共に、おびただしい血液を、ぐんぐん吸い取っていく。カーペットの染みもすいすい落ちる。どんな仕組み? ていうか、どんだけ高性能なんだ。

 「HELP!」の文字を最後にさらっと吸い取り、あずきはまた無言で出て行った。理解不能この上ない。一切の説明もないし、岡本と目を合わせることもなかった。

「ゴメンね、いつも」

 出て行くあずきに、古井が声をかけた。こんなことが度々おこっているのか。

「驚かせてすまない、って言ってもらえますか?」

 岡本はふわふわした心で言った。なんでこんなセリフを吐いたか自分でもわからない。

「あずきさんに?」

 なんでだよ。

「ストレスとか、プレッシャーがかかると、出ちゃうんだよねー。昔から」

「で、腐れ縁って、どういうことですか?」

 また細かく震えだしたので、岡本は「冗談です! ジョークジョーク!」と慌てて付けたした。


「古井さんって、悪魔の中じゃかなり有名じゃないですか」

 岡本でも知っている。あずきという悪魔も、名前だけは聞いたことがある。

「知る人ぞ知る、のカテゴリだけどね」

「そんなことないですよ」

「本当?」

「僕でも知ってるくらいなんですから」

「なぜか素直に喜べないなー」

「あずきさんは、その、どんな方でしたっけ」

「さっそくナンパかい? まだ面接も終わってないのに」

 古井のことを聞いて、また血を吐かれても困るから、あずきのことを聞いて探りを入れようとしている、岡本の苦心を察して欲しい。

「......確かに、僕がここで働くとは決まってませんけどね」

 遠回しに牽制する。

「大丈夫じゃないかな。君はあんまり悪い噂聞かないし」

 天使に使われる気はサラサラないが、褒められて悪い君もしない。

「なんせ、誰も応募してこないからね」

 古井は自嘲気味に笑う。岡本は黙ってうなだれた。

「あずきさんは、僕もよくわからないね。全てが謎のベールに包まれていると言っても過言じゃない」

 見るからにミステリアスである。

「ここでは、どんな仕事してるんですか?」

 昼休みに応接室でテレビ見ながらプリンを食べ、誰かが汚したら掃除した。典型的な事務員さんではないか。

「いや、まだ、これと言っては...」

「まだ、ってことは、最近できたばっかりなんですか?」

 それなら色々合点がいく。具体的な業務内容が固まってなく、人員も集まってない状況なのか。

「そうなんだよ! 事務所開いて、まだ半年くらいなんだ」

 ......半年間、何してた?

「何回か事件は起きたけど、すぐ片付いたし」

「古井さんだけでは間に合わなくなったら、あずきさんの出番ですか」

「僕は別に、順番でもいいと思うんだけど、巡り合わせかねえ」

 だんだん不憫になってきた。

「事件って、どんなです?」

 困ってる人を助ける、みたいなこと? ガラじゃないんだけど、ま、仕方ねーな! これも、天命、かな? 岡本は晴れやかに微笑んだ。

「デモの鎮圧とか」

「......する側? 鎮圧を?」

「そうだよ」

 現在、世界で人間は天使に支配され、権利や自由が大幅に制限されている。解放を求めて、デモやテロが頻発しているが......。

「天使だけじゃ手が足らないって時に応援に行くんだ」

 気が遠くなった。めまいがして、後ろに倒れそうになる。

「あんた、それでも悪魔かよ......」

 怒鳴る気力もない。

「でも、やっぱり、ある程度の実力差がないと、手加減できないじゃない」

 その一言はさりげなかったが、妙に心に残った。

「あとは、悪魔が来たぞー、って最初に一発かますと、ビビって解散したり、ね。デモが」

「デモどころじゃなくなりますかね。天使は手出ししにくいから。ああ、汚れ役ってことですか」

 だんだん分かってきた。必要悪ってことだな。悪魔だけに、悪だし。

「なんで、そんな、損な役回りを?」

 古井は突然、コーヒーをぶーっと吹き出した。岡本はギクッとした。コーヒーでよかった。

「ダジャレーッ!」

 恥ずかしさに、いたたまれなくなった。

「何と言っても、魅力的なのは、ギャランティーだよね」

 窓に飛んだコーヒーをティッシュで拭きながら古井が言う。今度はあずきは来ない。

「お金ですか」

 悪魔なんだから、人間のものをぶんどっても、罪には問われない。たいていの悪魔はやりたい放題である。

「お金がかかる趣味があるもんで、まっとうに稼いだお金じゃないと、気持ち悪いし」

 岡本は嬉しくなった。自分も同じような動機で応募したのだ。まっとうかどうかは別にして。

「......いくらくらい、もらえるんですか?」

「気が早いなー。内定はおろか、まだ面接中だってのに」

 なかなか休憩が終わらなくてやきもきしているのは岡本の方だ。血を吐いたりしてるからだ。

「あの、中村って人は、面接ないんですか?」

 どうせなら今の内に聞いておこう。

「彼女がメインのプロジェクトみたいなもんだからねえ。面接もなにも」

 ショックが背筋を走る。人生って不平等だよな。悪魔だから悪魔生か。

「そんなすごい人なんですか?」

「僕も、素性とか生い立ちとかは詳しく知らないけど、あの刀は相当斬れるらしい」

「あ、そういえば!」

 岡本は左腕の盾を出す。だいぶ塞がってきたが、まだくっきりと傷が残っている。

「おお! 噂の硬い盾だね!」

 どんな噂を聞いてるんだか。

「見て下さいよ。さっき、コンビニで、いきなり斬りかかってきたんですよ」

 硬くない盾だったら腕ごと切り落とされてるからね。

「とか言って! なになに! ちゃっかり防いじゃってるじゃない!」

 古井のテンションが上がる。

「実はそんなに斬れないのかな?」

 失礼な。

「最強の刀と、最強の盾か! これはキャッチーだ!」

 古井は一人フムフムと頷く。ちなみに自分から『最強の盾』なんて名乗ったことはない。

「これからは若い二人に任せて、僕は悠々自適に......」

 どんどん一人で話を進めていく。

「ってことは僕は合格ですか?」

 古井は我に返り、指をパチンと鳴らして「そうだ!」と言った。

「面接が途中だったね! そろそろ戻ろうか」

 岡本は天を仰いだ。どっちなんだい。


 面接会場の応接室に戻る途中、オフィスを通った。中村がいる。すでに自分のデスクらしき場所に腰を下ろし、パソコンをいじっている。

 隣にはあずきがいた。スーツに眼鏡。できるキャリアウーマンを演じている。場面ごとにコスチュームを変える能力を持った悪魔らしい。どうでもいい。

「やってるね」

 古井が声をかけた。とりあえず、といった感じだ。

「どうも」

 中村が返答する。こちらも、とりあえず、だ。お互いにぎこちない。

「あ、面接をちゃちゃっとやっつけたら、すぐ戻りますんで」

 古井の腰が低い。やっつけられる身にもなってほしい。そのまま背中を押され、応接室へと押し込まれた。

「めっちゃ敬語ですやんか」

 岡本は薄笑いで言った。古井は下を向いてため息をついた。

「年頃の娘さんは扱いが難しいね」

 そういう感じの敬語ではなかっただろう。明らかにびびっていた。

「そんなに偉い人のコネなんですか?」

 一瞬、古井は血を吐きそうになったが、こらえたようだ。

「知らない方が身のためだ。僕も忘れたことにする」

 何やら大変そうである。血の吐きそうな具合からして、この『悪魔調整局』の設立と、中村とは深く関わっていて、古井には抗えない何かがあるのだろう。

「......」

 そして古井は窓の外を見て考え込む。リフレッシュルームと違って、応接室の眺めは悪くない。大通りと街路樹が見える。

「試用期間を設けよう」

 岡本を本採用する前に、お試しの期間を作ろうとしている。

「明日から、来れる?」

 男二人で見つめ合う。静寂の中、時計の針が進んでいく。

 今度は岡本が考え込む番だ。どうしたものか。天使の下で働くなんてのはまっぴら御免、というのは最初に来る。子供の頃から悪魔として育てられ、天使は敵だと教え込まれた。

 次に気に掛かるのは報酬。古井は「まっとうに稼いだ金じゃないと」と言った。岡本はそれを欲している。もっと言えば、後ろめたさ無しに買い物がしたい。さらに言えば、欲しいギターがある。

 職場の雰囲気は......。古井とは特に問題なくやっていけるだろう。お互いに気配りができるタイプだ。あずき、は、よく分からないから考えても仕方がない。そして、中村という女が、問題だ。仲良くできるだろうか。何も言わずにコンビニで斬りかかってくるような奴だ。

「ギャラにもよりますかねー」

 軽い男と思われたくない。少しふっかけてやろうか。

「給与計算はこっちではやってないから」

 ギャランティーという単語を先に使ったのはそっちじゃないか。急に「給与」と言われてテンションが下がった。

「人間の法律で行くから、最低賃金は守られると思う。たぶん」

 賃金って言われると、さらに盛り下がる。最低賃金なんて、......いや、それでも欲しい。

「あ、じゃあ」

「オッケー? オッケーね?」

 大体の呼吸で通じ合える。お互いの第一印象は悪くないだろう。


「と、言うわけで、明日から来てもらう、えーと」

「岡本です」

「岡本くんです! 仲良くしてあげてね!」

 中村とあずきの前で、古井が紹介を始めた。中村は眉毛をひそめている。あずきは無表情で斜め上を見上げている。

「さ! 自己紹介」

「ええと、お、岡本です。よろしくお願いします......」

 最後の方は自分でも聞き取れない。誰も聞いてないのだから構わないだろう。中村は古井をとがめるような顔で見つめ、あずきは口を小さく開けて、あいかわらず宙を見ている。

「あ、ごめんなさいね。どうしてもここで働かせてくれって、帰ってくれないもんで」

 そして古井は中村に弁明を始める。ちょっと人間性を疑う。

「いらなくない? 盾でしょ? ただの」

 ただの盾!? いきなり最上級の侮辱! あまりの衝撃に、とっさに反応できず、曖昧に微笑んでしまった。

「はい!」

 あずきが元気よく手を挙げた。

「はい、あずきさん」

 古井が教師のように当てる。

「彼女いますか?」

 質問をしたかったらしい。岡本は中村による心の傷が癒えないまま「いないですねー」と応えた。

「アハハハハハ!」

 思いっきり馬鹿にされた笑い方をされた。ちょっと色気を出させて、カウンターをかまされた。岡本は完全に真下を向いた。

「席は、中村さんの向かいが空いてるから」

 下を向いたまま小さく首を振った。あずきがパソコンを持って走ってくる。岡本に貸し与えられるものらしい。本当にこの人は分からない。優しいのか、面白がっているのか。

「それでは、中村さんのレクチャーが終わるまで、岡本さんはこれでも見ていてください」

 岡本に一枚のディスクを渡し、あずきは中村の隣で眼鏡をかけた。

「よろしくね! 僕はこれから外出するから」

 古井がそそくさと出かけていく。岡本は立ったまま円盤状のものをしばらく見ていたが、やがてゆっくりと自分の席らしき椅子に腰掛けた。そしてまた円盤を見る。キラキラしている。女性二人がヒソヒソと話している。

 円盤には手書きで『極秘 悪魔調整局のあらまし』と書いてある。手作りの温もりを感じる。裏はキラキラしていて、表は無機質な白である。白地に、マジックで書いている。

「あそこのギョウザはほんとにおいしくて......」

「まじで? ギョウザは食べてないわー。こんど頼んでみないと......」

 岡本の存在は完璧に忘れられている。諦めてディスクをパソコンにそっと挿入した。


 再生が始まった。『叩け! 悪魔調整局!』の文字と共に、オープニングテーマが流れ出した。戦隊もののテイストだ。

「米つぶ程度の力しか持たない人間どもの平和を守るため、......」

 あずきがさっそうと自転車に乗って堤防の上を走る映像。ジャージにヘルメット。顔は真剣そのものである。

「悪魔の力ー、味方に引き込んだー、正義の悪魔ー」

 歌っているのは割と年配の男性である。古井の声ではなさそうだ。偉い人が悪ノリしたような感じ。ノリノリである。

「キャップ! 事件です! 二丁目に敵性悪魔が出現しました!」

 オープニングが終わると、唐突にドラマが始まる。あずきがオフィスに駆け込んできて言った。

 岡本はパソコンの前で茫然としている。こんな自主作成フィルムを見つづけなければならないのか。

「なに! ......そうか......」

 椅子を回転させ、画面に向き直ったのは古井である。動きがぎこちない。おそらく何回もやり直している。

「ついに恐れていたことが起きたようだな」

 窓のブラインドを指でカシャーンとして、苦々しい表情をしている。セリフは棒読みである。ブラインドの汚れの落ち方から察するに、五回はNGを食らっている、

「よし! 悪魔調整局、出動だ!」

 カメラに向かってビシっと指をさす。サングラスだがカメラ目線である。画面の切り替えまでに微妙な間があった。ビシっとしたまま、監督のオーケーが出るのを待っている感じ。

 画面が切り替わり、また堤防のシーンになる。おそらく同じ日に一度に撮影したのだろう。あずきの自転車のシーンより太陽が傾いている。ダラダラしたセッティングが想像される。

 悪役であるところの、敵性悪魔の格好を見て、岡本は衝撃を受けた。

 あずきが、紙製のかぶり物を身に纏い、敵性悪魔の役を演じている。引きの画だと、ひねくれたクマのように見える。段ボールの色そのままに、ずんぐりむっくりとしていて、左右にステップを意味無く踏んでいる。

「そこまでだ!」

 特に何も怒られるようなことをしていないあずき悪魔に、古井の声が呼びかける。画面には出てこない。あずきが怪訝な顔で空を見上げる。だんだんと、爆音が近づいてくる。

 爆音、それは、攻撃ヘリがホバリングしながら近づいてくる音であった。徐々に激しくなる風圧の中であずきが何か叫んでいる。もはやまったく聞き取れない。テロップなども一切ないため、途中から物語に付いていけなくなった。

 ヘリコプターは、あずきの周りをゆっくりと旋回しながら、何か警告のようなことをアナウンスしているようだ。こちらも全然聞き取れない。シャープで無骨なシルエットが、文字通り影を落としている。予算の配分に偏りがあるなー、と思っていたが、ヘリの側の声は古井のようである。

 古井の名は、悪魔の中では知れ渡っている。あらゆる「乗り物」に姿を変えられると聞いたことがある。戦闘ヘリに変身していても不思議ではない。質量保存の法則などは悪魔には通用しない。

 だから予算とかは気にしなくていいんだな、と岡本が思ってる内に、戦闘ヘリは攻撃を開始した。左右に飛び出した羽のようなのの下に付いているミサイル。ヘルファイア空対地ミサイルだ! 一定の間隔で次々と撃ちだした。あまりに自然に攻撃が始まったので自分の目が信じられなかった。

 爆発。爆裂。炸裂。真っ黒い煙がもうもうと立ちこめる。岡本はパソコンの前で流れる涙を止められない。煙がおさまった跡は堤防があらかた吹き飛んでいる。あずきの姿は見えない。消し飛んだか。着ぐるみの切れ端がところどころ見える。

 岡本は口がふさがらないまま、パソコンから目を上げる。あずきの方を見た。今ここにいるということは、撮影の段階では消し飛んでいないということのはずだ。

 そこで岡本は、さらに驚くべき光景を目にした。「ひゅええ!」という声が出た。

 アフロヘアのようにチリチリの髪、すすで真っ黒の顔。口から煙。の、あずき。

 岡本は手の甲でゴシゴシと涙を拭い、もう一度見る。眼鏡の女教師スタイルで中村にパソコンを教えているあずき。

 この一瞬でカツラや靴墨を用意できるはずはないし、落とせるはずもない。あずきの悪魔としての能力と見て間違いないだろう。変装したり、古井のように姿を変えたりできる悪魔は多い。問題はそこではない。

 岡本の心理状態を読んで、それに合わせている。さっきの清掃員の格好もそうだ。もっと気味が悪いことに、目的が解らない。困惑させて楽しんでいるのだろうか。それにしてはこちらを全然気にしていない素振りだ。表情を変えない。

 パソコンの画面では、古井が変身を解いて黒こげの地面に降り立っていた。ぐにゅーんと回転しながら人の形に戻る。かっこよくスタっと着地し、「見たか! これが悪魔の技術だ!」とカメラ目線で決めた。古井クラスなら、ミサイルを上手く誘導して、あずきに当たらないようにもできたかもしれない。もちろん映像を合成、あるいは編集したのかもしれない。

 爆発の影響で、堤防の地形が大きく変わってしまった。決壊寸前である。画面の後ろの方を土木作業員の格好をした女性が横切ったような気がしたが、もう岡本には困惑する気力も残っていなかった。

「見終わったかね」

 あずきが目を細めてこちらを見ている。岡本は目を合わせずに頷いた。

「あれって、本当に爆発してるの?」

 中村が言う。素の声を初めて聞いたかもしれない。とぼけた感じでもある。

「さあ、どうでしょう」

 徹底的にミステリアスを貫くんだな。

「あ、あずきさんの演技が、堂に入ってますよ、ねー」

 岡本は、会話に加わろうと果敢に切り込んだ。

「はあ」

 案の定、微妙な空気になってしまった。中村に睨まれている。

「それは私じゃないから」

 もう完全に人知を越えている。

「ええ? じゃあ誰?」

 中村がストレートに反応した。助かった。

「うっそー! 私でしたー!」

 あすきは手をヒラヒラさせ、回転しなが言った。中村は笑っている。岡本は頭を抱え、机に突っ伏した。

「この人は、もう内定したの?」

 中村に指さされた。とても嫌そうだ。

「わかんない。とりあえずキープちゃう? もっと良い悪魔が来たらまた考える、みたいな」

 この数時間、現実の厳しさというものにさらされ続けている。

「私だけで充分なのに」

「人手は多いほうが何かと便利じゃない?」

「まして盾だけなんて。戦力にならないでしょ?」

「枯れ木も山の賑わいと申します」

「お金がもったいない」

「税金だから。一人分の給料なんかたかが知れてるし」

「その分を私に下さい」

「あ、私も欲しい」

 そして二人、声をそろえて「お願いします」と言った。岡本が言われた。

「お願いします」

 岡本も頭を下げてみた。ぜんぜんウケなかった。

「なんて呼んだらいい?」

 中村はいつでもストレートだ。躊躇無しに踏み込んでくる。剣術でも同様か。

「なんでも、好きに呼んでくださいな」

 気の利いた応えだと思ったが、中村は不満そうだ。

「子供の頃のニックネームは何だね?」

 あずきはいつでもコミカルだ。

「おかっち、とか......」

「なんだそれ」

 中村が鼻で笑う。聞かれたから応えたのに。

「よし。今日から君は、『マカロニ』だ」

 いつの間にかあずきがティアドロップのサングラスをかけている。

「じゃあ、おかっちでいいね。よろしく」

 あずきを無視して中村が言う。意外にあっさりと認めてくれたな。

「足を引っ張らずに、雑用を、よろしく」

 わざわざゆっくりと言い直された。それならいっそ呼び捨ての方が気持ちがいいのに。


 その時、キジの鳴き声のような音が、室内に響き渡った。『ケーン! ケーン!』と、鋭く、不快にざらついた声。

 岡本は椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、身構えた。こんなにリラックスしているところを襲撃されては、苦戦は免れない。

「はい、もしもし」

 声の主は、悪魔か、堕天使か、あずきの携帯電話の着信音か、のいずれかであろう。

「おっつーでーす。おつおつ」

 あずきは携帯電話の向こう側に向けて『お疲れ様です』という意味らしき言葉を送っている。ということは電話してきたのは古井ではないか。奇妙な鳴き声は止んで、岡本は転がっていった椅子を元に戻した。

「えー? 今から? どーかねー」

 あずきは柱時計、中村、岡本、と視線を移しながら眉を寄せ、首を傾げている。

「悪い。今から、テロリストと戦える人ー?」

 そして携帯の口を手で押さえて聞いてきた。『カラオケ行く人ー?』くらいのテンションだ。中村が無言で小さく手を挙げる。あずきは笑顔で大きく頷き、岡本を見た。

「......」

 岡本は肩をすくめ、やはり小さく手を挙げた。テロリストといっても人間ごときに後れを取るとは思えない。

「っじゃあ、エースとミステリアス美女とアンドモアで行きますんで」

 アンドモア! びっくりマークを付けて欲しかった。せめて。

「はーい。じゃ、屋上で、はーい」

 屋上? 確かにそう言った。あずきは携帯電話を切った。

「すごいタイミングね! 初出勤の日に!」

 中村が大きな声で言った。基本的に声がでかい。

「はっはっは。これから忙しくなるぞう!」

 あずきは爽やかに笑う。これから事件が増えるの?

「あの、屋上って......」

 こんなにのんびり話していていいのか。岡本が水を向ける。

「うむ! では付いてきたまえ!」

 あずきはいつの間にか迷彩服になっている。コスチュームチェンジも別に気にならなくなってきた。


 あずきはガラス窓を開けた。ガラリ、と。八階。最上階。普通は換気用に少し開くくらいだと思っていたが。腰くらいの高さの窓から、あずきは身を乗り出した。悪魔とはいえ、結構なビジュアルインパクトだ。

 そのまま窓の縁に足をかけ、壁にしがみつく。顔は真剣そのものだ。よろよろとふらつきながら、壁をよじ登っていく。岡本と中村は顔を見合わせた。次はどっちが行く?

「私、階段で行くから」

 冷たく言い残し、中村はきびすを返した。少しの間岡本は迷い、黙って中村の後を追った。自分も階段で上りたいが場所が分からない。

 中村ほどの使い手、付いてくる気配を感じないはずがない。岡本も足音を立てて歩いている。廊下に出ると中村がちらっと振り返った。歩きながら。『なんだてめー何ついてきてんだ気持ちわりー』という視線だと受け取った。

「階段、知ってる?」

 歩きながら中村に聞かれた。そっちも知らなかったか。岡本は「今日初めて来たんで......」と言うより他はなかった。

 廊下の突き当たりに非常階段のドアがあった。金属製で、鍵が掛かっている。非常時のみ、スイッチを押すと開くようだ。みだりに屋上に上がらないように、という配慮というか、ビル管理者側の都合だろう。

 中村は日本刀の抜き放ち、気合い一閃、大上段から振り下ろした。

「なにぃ!?」

 ガシイ! と鈍い音がして中村の日本刀が止まる。岡本が盾で防いだのだ。

「おのれ! 一度ならず二度までも!」

「一回落ちついて。お願いだから。おかしいから」

「何がよ」

「器物損壊でしょ」

「それが何?」

 悪魔のこういうところが嫌いで岡本は応募したのに。志の高い悪魔の集まりだと期待していたのに。

「弁償させられるよ? 給料減っちゃうよ?」

 青臭い正論を正面からぶつける気にならなかった。中村も反発するだろう。中村はハッとして、刀に込めた力を抜いた。

「そうだ。ここで働いている以上、バックレられないね」

 あっさりと刀を収める。サッパリ系女子か。

 特に感謝はされなかった。中村は左の拳で非常ボタンのアクリルカバーを打ち抜いた。非常ベルが鳴り響き、非常ドアの鍵が開く。金はかからないが、迷惑がかかる。中村はさっそうと非常ドアを開け、堂々と進んでいった。岡本はため息で見送り、ビル管理者が来る前にせめて掃除をしておこうと、急いでアクリルの破片を拾い集めた。


 屋上に出ると風が爽やかだった。穏やかな昼下がり。薄く雲がかかっている。天気の良い日はここで昼休みに弁当を食べるのもいいな、と思ったが、鍵がかかっているのだなあ。

 あずきが発煙筒を振っている。ピンク色の煙が空に上っていく。整備員のようなツナギを着ている。階段で来た中村・岡本組よりも早く着いたのだろう。昼休みの弁当は、岡本も壁をよじ登ればいいのだ。

 テロリストと戦いに行くのに、なぜ屋上なのか。岡本は見当が付いている。先ほど見せられた当局のプロモーション映像。あの戦闘ヘリが迎えに来るのだろう。そう思っている間に、遠くからヘリコプターの音がしてきた。

「合図を送らなくても、場所は分かるんじゃないの?」

 中村があずきに言う。あずきは一心不乱に発煙筒を振っている。

「古井! 古井! 古井!」

 ヘリの方を見てあずきが呼ぶ。自由にやらせておく他ない。

 発煙筒を見てるのかどうか、ヘリは一直線にこちらに向かってくる。かなりのスピードだ。超音速かもしれない。みるみるシルエットが大きくなり、耳を覆いたくなるほどの爆音になる。あまりの速さのためか、一回通り過ぎた。屋上スレスレの角度で。

「うわー!」

 ものすごい風圧で吹き飛ばされそうになる。

「わざとでしょー!?」

 中村もフレアスカートを押さえて怒鳴る。確かに、こんな低空で通り過ぎる意味はない。危険だし。

 ヘリは旋回してもうビルの上空にいた。ホバリングしている。あずきが手旗信号で何かやっているが、動きはかなり適当のようだ。あの風圧にも動じないとは。

 フックの付いたワイヤーが三本、ヘリから降ろされる。着地せず、人員だけ回収していくつもりらしい。無論、ビルの屋上にはヘリポートなどない。普通の雑居ビルである。

 あずきは手慣れた様子でフックを腰のベルトの金具に連結した。こちらを見て無言で頷く。中村・岡本にはそのような装備は支給されていない。仕方なく、二人とも手でつかんだ。直後、一気にワイヤーが巻き上げられる。グン! と引っ張られ、体が浮いて、持って行かれた。そのスピードも半端ではない。この人達はいちいち極端なんだ。


 ヘリコプターの中は座席もあり、意外と広かった。攻撃ヘリだと思っていたが、いつの間にか輸送ヘリになっている。

『やあ! お待たせ!』

 機内のスピーカーから古井の声がした。高揚している。

「あれ、あずきさんは?」

 岡本が見回したが姿は見えない。中村は腕を組み、足を組んで、首を振った。『知らない』という意味だろう。運転席には人影が一人。古井か? ......いや。

「古井さんはこのヘリコプター自体に変身している訳だから......」

 古井が『よく分かったね』とスピーカーで言った。本人の内側にいるというのも気持ちのいいものではない。ものすごいモーター音がしている。

 運転席には、もちろんあずきが座っていた。カーキ色の、どこかの空軍のジャケットを着て、目を細めて遠くを見ている。古井が自ら飛行しているのだから運転手はいらない。ただ操縦士のふりをして座っているだけである。岡本はじゃまをしないように、空いている座席に座った。

 古井の変身能力。椅子の座り心地や、ガラス窓の汚れ具合まで、本物としか思えない。細かいところまで完璧に再現している。壁をこちょこちょとしてみたが、動ずる気配はない。

『気に入ってくれたかい? 二十人くらい運べるのをイメージしてみたんだけど』

 縦長で、やや角張っているフォルムだ。プロペラは真ん中に一つ。よく輸送ヘリで前後にプロペラがあるやつを見かけるが、あれではない。古井のこだわりが見られる。

「テロリストって、どこで? どんなやつ?」

 中村が天井に向かって問いかける。悪魔の聴力を持ってすれば、ヘリの中といえども、走行中の乗用車程度の会話は可能だ。

『政府要人を人質に、高層ビルに立て籠もっているらしい』

 やや硬い口調になった。ようやくそれっぽくなってきたか。

『ヘリ形態のまま、外から爆撃するよ』

 そうでもなかった。

「ひ、人質は、どうするんですか?」

『いいんじゃない?』

 どう、いいんですか?

『そうか! 機動歩兵が二体もいるんだから、突入してもらうのもアリかもね!』

 おそらく、中村と岡本で突入して、人質を奪還してこい、というつもりだろう。あずきは何をするのだろう? 確かに歩兵という感じではないが。

「人質は、どんな人間ですか?」

 どうでも良いのだが、念のために聞いておこう。

「どうでもいいじゃない」

 中村に横から言われた。言われなくても分かっている。

『どんな? どんなだろう?』

 古井にとってもどうでもいいらしい。悪魔からしたらこんなもんだ。

『高層ビルで会議してるところを、テロリストに占拠されたんだよね』

「会議? 時間の無駄になるだけなのに」

 これは中村と同意見である。人間程度の知能で何時間話し合ったところで、何も解決しないだろうに。

『いろんな国の偉い人が集まってる感じだったかな? そんなに偉くもないか。まあまあの偉さ。国のトップだったら僕らなんか呼ばないからね』

「それよ。なんで悪魔なんか呼ぶんだろう」

 中村が聞く。

『膠着状態なんだって』

 あまり理由になっていないような......。

『悪魔のせいにして、現状を打破したいんじゃないかな』

 悪魔には人間の法律が適用されない。都合の良い話ではある。

「プライドは無いのかね、警察とか、軍隊とか」

 中村が呆れている。普通はそう思うだろう。

『相手にも悪魔がいるって言ってたかな』

「え、どういうこと?」

 岡本が素で聞き返した。テロリストに、悪魔が?

『さあ、どうだろうね。金で雇われたか、イデオロギーで意気投合したか』

「人間に使われるなんて、悪魔の風上にも置けないやつだ」

 中村が、自分たちのことを棚に上げて言った。金で使われてるのに。

「どんな悪魔か分かりますか?」

 知り合いだったら気まずい。ダメ元で聞いてみた。

『二体いて、男と女、だったかな』

「アベックか! ますます不愉快だな!」

 岡本は忌々しげに吐き捨てた。なぜカップルというものは、人を不快にさせるのだろう。こちらに恋人がいないからか。

『人間達の断片的な目撃談しか入ってこないから、悪魔の詳しいところは分からない。会ってみて、知り合いだったら気まずいね』

 古井が笑っている。岡本も内心それを心配している。

「その悪魔も斬っていいよね」

 中村が確認するような口調で言った。

『どうしてもの時はしょうがないけど、なるべく斬らないでくれる?』

「え、いいんですか?」

 岡本が口を挟んだ。悪魔同士で生死が分かれるまでバトルするのは御法度である。

『最悪の場合、もみ消せるからネ』

「そうか! 天使にコネが!」

 天使庁直轄というのを忘れていた。これは盲点だった。

『ズバリ言わないでよ』

 古井が困ったように言う。悪魔同士で殺し合いをしたことが天使にバレると、人間界での活動が大幅に制限されるのだ。郵便物が届かなくなったり、電話が繋がらなくなったりする。

「斬ったからって、死ぬ訳じゃないし」

 そう。そして一ヶ月程度で復活する。その間はとても辛い。斬られるのは痛い。斬った側にペナルティーを課すのは自然な成り行きである。

「やられたことあるんすか?」

 岡本が中村に聞く。ナチュラルに敬語である。

「ないけど」

「僕、あるんですよ」

 自慢じゃないが、一度だけ。

「へー」

 終わってしまった。

『だ、誰にやられたんだい?』

 古井が気を遣ってくれる。気配りの人、いや、気配りの悪魔だ。

「いやー。話せば長くなるんですけど......」

『総員に告ぐ! 総員に告ぐ!』

 あずきの無線に妨害された。そんな気はしていた。

『どうかした?』

『通り過ぎてない?』

 皆で一斉に窓の外を見てキョロキョロとする。実際には中村と岡本だけだが。

『本当だ! すっかり話し込んでしまっていた!』

 古井の声が空しく響く。実際にはヘリコプターのエンジンの方が響いている。

「今どのへん?」

 中村はのほほんとしている。古井にも敬語を使わない。それで許される雰囲気がいつの間にか出来上がっている。うらやましい。

『五十キロほど行き過ぎちゃった。なに、すぐさ』

 すごいスピードのまま話し込んでいたのだ。

『旋回する! しっかり掴まってろよぉ!』

 あずきが格好良く叫んで操縦桿を大きく右に倒した。岡本は慌てて手すりに掴まる。機体は別に旋回していない。ああ、操縦士は格好だけだった。あずきのアクションとはリンクしていない。あずきにめげる様子はない。おそらく彼女の頭の中では急旋回しているのだろう。

『揺れることがありまーす』

 古井がいたずらっぽく言うと、間髪入れずに思いっきり左に傾いた。逆を突かれた。

「うわー!」

 岡本は手すりから投げ出され、中村の方に転がってしまった。いけない! 思わず、意図せず、無意識に、胸をつかんでしまう!

「グホッ!」

 心配は杞憂に終わった。みぞおちを蹴り上げられる形で受け止めてくれた。岡本の体が「く」の字になる。

 旋回が終わり、機体の角度も水平に戻る。岡本の体はサンドバッグが倒れるように床に投げ捨てられた。

「痛い......」

 心よりも体が痛い。床にはいつくばって岡本はそうつぶやいた。


『見えてきた! あのビルだ!』

 あずきの声に岡本は体を引きずって起き上がった。あずきが指さす方向を見る。

「て、どれですか?」

 もやの向こうには都市部が見える。ビルが林立していて、どれか分からない。

『そっちじゃないよ』

 古井は冷たい感じで言った。そう、あずきが詳しい場所をあらかじめ知っているはずがない。

 無意識に岡本は逆方向を見た。都市部の反対側は荒野だ。ビルは無い。黒い、山のようなものなら......。ん?

「んん? なにあれ」

 黒い山のように見えたものは、どうやら建造物だ。山の頂点から、細い棒のように、やはり黒い建物が、上へ上へと伸びている。ヘリの窓枠の上を通り越していて、最上階は見えない。

「ややや! でか!」

 さしもの中村も驚嘆するスケール。威圧感がバリバリ出ている。

『天使庁の旧庁舎だよ』

 知らんの? というニュアンスで古井が言う。名前は聞いたことがあったが、これほどの圧力とは。

 建物の周りには他のヘリも飛んでいる。地上にはたくさんの緊急車両。緊迫している様子がうかがえる。手をこまねいているようにも見える。ヘリは遠巻きにビルの周りを旋回している。報道だろうか。

『ヒーアウィーゴーゥ!』

 古井が奇声を上げる。スピードが上がる。いきなり突っ込むの?

 不審なヘリの動きを察知したか、地上からはライトが当てられ、なにやら警告のような光りや電波が飛んでくる。悪魔だから電波でもある程度なにを言っているか分かる。古井は聞く耳を持たないようだ。むしろ加速しながら一直線にビルへと向かっている。

「ええ? もう行くんすか?」

 岡本が前の座席に必死にしがみつきながら言う。心の準備ができていない。

『アーユーレディー?』

 できてないって。

『イッツショーターイム!』

 お構いなしだ。

 ガラスの向こうにテロリストらしき、武装した集団が見える距離まで一気に来た。ぶつかりそうなるところ、ギリギリでかわす。そして――。

 すれ違いざまに、ヘリの胴体下にある機関砲が火を噴いた。

「えええー!?」

 いいのか? 轟音とともにビルのガラスが吹き飛ぶ。あっという間にビルは後方へと消えていった。慌てて首をひねる。後ろには窓が無いので見えない。

「うがっ!」

 またしても急旋回。岡本は横の壁に打ち付けられた。中村がいない方でよかった。また蹴られるところだった。後頭部をしたたかに打ち付けながら、岡本はそう思った。

『各員! 突入準備!』

 古井がテンション高く言った。起き上がって前を見る。ヘリは進入角度を調整し、先ほどの砲撃で開いた穴を正面に捕らえていた。穴に向かって真っ直ぐに進んでいる。

 よくよく目をこらせば、穴の内側で、こちらを見て慌てている人間達の姿も見える。武装した、いかにもテロリストという外見だ。砲撃はガラス窓や壁を吹き飛ばしただけで、中の人間に被害が出ないよう手加減していたらしい。古井の手腕と優しさに岡本は舌を巻いた。

 などと悠長に感心している場合ではない。ヘリはスピードを上げ続けている。ビルに向かって加速し続けている。ホバリングでギリギリまで近づいてから飛び移るのかと思ったが、もしかして、ヘリごと突っ込むのか?

 突然、顔に風圧を受ける。顔だけではなかった。体全体に風を感じた。目の前が開けた。

「あえ?」

 岡本の間抜けな声は風きり音にかき消される。ヘリが消えた。空中に投げ出されている。

「うーーわーー!」

 下を見れば目もくらむ高さ。落ちたらひとたまりもない。悪魔とはいえ、岡本には空を飛ぶ能力はない。地上の緊急車両が米粒の十分の一くらいの大きさに見える。

「やあ! ひさしぶり!」

 となりには古井。変身を解いて、人型に戻ったのだ。

「そんなに急に戻るんですか!?」

 大きさも形も脈絡がなさ過ぎる。もうちょっと、変身の過程に緩急があってもよいのではないか。

「前! 前!」

 慣性がついている。ビルに開いた穴へ向かって、横にすべるように飛んでいる。

「なんす......」

 岡本が向き直ると目の前はもうビルの壁であった。古井・中村・あずきと比べて岡本の高度がなぜか高すぎる。穴よりも高い。

「ぶご!」

 穴の上辺に顔面を打ち付けた。あごを支点に、体が前へと回転する。もんどりうって、ビルの中へと抛り込まれた。コンクリートの破片をまき散らし、仰向けにひっくり返って着地した。テロリストたちの気の毒そうな視線を感じた気がする。地上に落下せずに済んだのを喜ぶべきかもしれないが、現状は著しく無様であった。

「だっせ」

 中村が小さく言った。「ださい」は本来は「田舎くさい」という意味らしいが、ここでは「格好悪い」くらいだろう。

「悪人ども! 我々が来たからには、お前達の野望もここまでだ!」

 あずきがドスの利いた声で恫喝する。岡本以外はスタイリッシュに着地し、クールな立ち姿で決めているらしい。

「皆さんの暮らしを守る安全な悪魔の力! 天使庁直轄! 悪魔調整局、機動調整チーム! 人呼んで、クロウレッド!」

 古井が口上をぶちあげ、ポーズを決める。ちょっと遅れてあずきもポージングした。中村は「事前に聞かされていない」という顔で眺めている。岡本に至ってはまだ起き上がっていない。チーム名も初耳である。

「くろう、れっど?」

 中村が古井を見て言った。中村も知らなかったようだ。

「赤い爪ってことだね」

 あずきが頷きながら言う。

「赤いカラスね」

 古井がこわばった笑顔で訂正した。

「レッド・クロウじゃないんですか?」

 岡本は起きながら言う。服に付いた埃を払う。

「それだと、そのままじゃない。ひねらないと」

 古井が「分かってないわー」という調子で言う。

「そもそも、なんで赤くて、なんでカラスなの?」

 中村が真正面から斬り込んだ。岡本にはその勇気は無かった。

「話せば長くなるんだけど」

 真正面すぎて古井がたじろいでいる。サングラス越しでも、目が泳いでいるのが分かる。

「うん」

 中村が真っ直ぐに頷く。「長くなってもいいから話しなさい」という意味だろう。

「うむむ」

 古井が固まる。唇の端が細かく震えている。まずい! また血を吐くつもりだ!

「ままま、まあまあ。今は、ねえ」

 素早いルックアップから、岡本がピンチの芽を摘もうとする。古井は「助かった」というように少し笑った。顔に血色が戻ってきた。我ながら良いことをした。

「今は、なに?」

 中村の不機嫌な視線が岡本に突き刺さる。古井から岡本へと、視線が刀のように水平になぎ払われたようだ。

「う、い、今は、ほら」

 ぎこちなく、前を指さす。

「あれ?」

 そこに居るはずのテロリスト達が、居なくなっていた。逃げたのかな?

「敵は?」

 岡本の問いかけに古井も周囲を見回す。忽然と消えている。

「うり」

 中村が「何を言っているのか」という風で親指で指した。柱の影から、銃口だけ覗かせている。左右に二本ずつ。バランス良く。隠れて様子をうかがっていたのか。よく訓練されているようだ。

「......って、銃がこっち向いてるよ」

 呑気に古井が笑う。その言葉を合図にするかのように、自動小銃が一斉に火を噴いた。

「うわっ!」

 警告も無しに撃ってくるとは思わなかった。ためらいのようなものは感じられた。悪魔とはいえ、無防備な人型のものを射撃するのは気が引けるのだろう。

「盾! 盾!」

 古井が叫ぶ。岡本に「盾を出して守れ」ということだろう。リーダーだから命令なのかな。

「ディフレクション・シールド!」

 とりあえず四枚出して、メンバーそれぞれの前にかざす。半透明の丸い盾。宙に浮かぶ。人間の銃弾程度なら簡単にそらせる。中村には余計なお世話かもしれないから一瞬躊躇したのだが、古井に言われたし、モタモタしていると弾が飛んでくる。盾が邪魔だと中村が思うなら、勝手に避ければいい。

 意外にも中村は盾を使った。後ろに立っているだけだが。宙に浮かぶ盾を不思議そうに眺めている。けたたましい音を立てて銃弾は弾かれ続ける。跳弾して天井や壁のコンクリートを砕く。

 そして銃声は程なくして止んだ。確か、ずっと撃ってると銃身がオーバーヒートするんだったか。それとも、盾に防がれて効果無しと悟ったか。

「カラスは、あんまりイメージ良くないんじゃない?」

 銃撃が途絶えたのを確認して、中村が古井に言う。まだ終わってなかった。まだ許してもらえないのか。

「ええ、ああ。昔は神聖な鳥だったんだよ」

 古井はテンションを戻すのに苦労したようだ。クロウだけに。

「なんで赤い?」

 古井はテロリストと中村を交互に見ている。「今?」という感じだ。

「まあまあまあ! チーム名は、後でみんなで話し合いましょ! ね? あずきさん」

 岡本のフォローも限界が近づいている。あずきに振ってこの話題を強制的に終わらせようとした。

「って、アラー? あずきさんは?」

 あずきの姿が見えなかった。盾だけが空しく浮いている。

「ハハハ。あいかわらずミステリアスだなあ」

 古井が軽く笑った。話題を変えて中村の追求をかわしたいのかもしれないが、「ミステリアス」の一言で片付くのだろうか。

「突入の時には居た?」

 中村が聞く。どうやら興味があずきに移ったようだ。結果オーライ。

「僕はおかっちと喋ってたから、見てないよね?」

「僕は、それどころではなかったですね。事前に聞かされてないで、いきなり空中に放り出されて、顔面を打って」

「え、事前に聞いてない?」

 古井が驚いた。誰から聞くというのか。

「あずきさんに頼んでおいたのに」

 紹介用のビデオを見ただけで、急に出動になったのだった。あの後でレクチャーがある予定だったのかもしれない。

「壁をよじ登ったり、発煙筒を振ってたりして、時間なかったですかね」

 岡本の優しいフォロー。本人がこの場にいなくても、こういうのは大事だと思っている。

「忘れてた! そういえば」

 柱の向こうに隠れているテロリストの一人が言った。あずきが扮装していた。何をやっているんだ。

「なぜ忘れたかっていうのも思い出せない! 私にとってあなたはそういう存在という現実!」

 いちいち文章化して口に出す必要があるのだろうか。他のテロリストが顔を見合わせて困惑しているのが岡本には可笑しかった。

「もう怒ってないから、出ておいで」

 古井が優しく呼びかける。子供か犬でも呼ぶような趣で。

 あずきはしばらく顔だけ出していたが、古井の言葉が本当であると分かると、テロリストの扮装を脱ぎ捨てて、こちらへと小走りで駆け寄ってきた。服装はラフなジャケットに細身のパンツである。他のテロリストは後ろから撃ったりしなかった。意外に紳士的なのか、思考停止に陥ったか。

「よーし、四人そろったな!」

 古井が元気になった。岡本は自分が数に入っているのをうっかり喜んでしまった。別にこれまでの人生で邪険にされたり無視されたりしてきた訳ではない。かといって友達がたくさんいる訳でもない。

「それでは行きましょう! 皆さんの暮らしを支えるクリーンな悪魔の力! 天使庁直轄! 悪魔調整局、機動調整チーム! 人呼んで......」

 また改めて繰り返し始めたと思ったら、そこで止めた。「安全」とか「クリーン」とか、うさんくさすぎる。

「人呼んでー?」

 サングラスの横目で古井が他メンバーを見る。

「え、ああ、クローレッド......」

「クローレッド......」

「クロウ、ね」

「バーニング・ブーケガルニ!」

 まったく息が合わない。人呼んで、も何も、自分でも呼んでいない。あずきに至ってはまったく違う単語を堂々と言い放っている。ブーケガルニとは、束状になった香草である。煮込み料理に使われるので燃え上がることはあまりないだろう。

「君たち、やる気ないのかい? もっと真面目にやってくれないと」

 古井の中では真面目な行動なのらしい。

「これは、帰ったら特訓だな!」

 そして決意は熱い。チーム名を名乗るだけの練習なんて、まっぴらだぜ。

「ぶー!」

 あずきも同意見らしい。あなたが一番問題あるでしょう。

「そもそも、名乗ってる間は攻撃してこない、なんてのは迷信ですから」

 いま、攻撃してこないのは、テロリストがもうここにいないからである。どこいった? そして、誰もいない空間で、僕らはなにをしているんだろう。と岡本は思った。

「テロリストがいなくなった今の内にリハっておこう」

 キッパリと言い放ち、古井がポジションに戻る。具体的には、一歩ほど後ずさって、体制を整えている。「さあ、早く」という感じでこっちを見ている。

「もう、どこを訂正すればいいのか、僕には分からないよ......」

 岡本の口から、知らないうちに弱音が漏れる。僕は何のためにここに居るのだろう。リーダー格の人まで好き勝手にボケだしたら、誰が軌道修正するんだよ。

「よーし行くぞ! クロウレッド!」

 古井が一人でそこまで叫んだ。右腕を畳んだままだ。

「ワイヤード!」

 その右腕を空へと突き上げる。周り三人はぽかーんである。

「え、わいやーど......?」

 中村が眉をひそめて聞き返す。

「wired! 固く結ばれた、って意味!」

 いたずらっぽく古井がのたまわく。

「何が結ばれてんの?」

 目を半開きにした中村が惰性で付き合っている。他二人が喋らないので、仕方なく、といったところか。

「もちろん、メンバーの絆に決まってるでしょ。フォフォフォ」

 気持ち悪い笑いとともに答えが返ってきた。

「フン」

 中村が鼻で笑った。深い意味は分かりかねるが、何となく気持ちは分かる。出会ったばかりで、絆、など。そもそも悪魔は個人主義者ばかりである。組織に属する根性があるなら悪魔にはなってない。天使になった方がよっぽど安定しているし、社会的ステイタスも高い。親戚にも胸を張れるし、結婚しようとしても先方の親に反対されることもないはずだ。

 団結とか結束とか、悪魔の対極にあるものだ。悪魔は自由を愛している。しがらみのない、束縛のない世界に生きている。生まれつきの性格だから仕方ない。もちろん、悪魔が試験に合格して天使になることもあるし(天使編入試験という)、逆に天使が嫌になって悪魔になるものもいる(脱天使、または堕天という)。

「どんなに結びついていたって、結局はバラバラに戦うんでしょう?」

 中村が馬鹿にしたように言う。

「作戦とか分担とか、考えるヒマがなかったんだよ」

 古井が反論する。仮に時間が充分あっても、中村は言うことを聞かないだろうな、と岡本は思った。

「結局の所、私は刀で攻撃することしかできないし、そこの盾人間は守るだけなんだし」

 岡本は後ろを振り返った。誰もいない。盾人間って僕のことですか? 悪魔なんだけどな。

「それだ! ナイスコンビネーション!」

 まだ何も成し遂げてないのに古井に賞められてしまった。

「邪魔なだけだって。盾なんて」

 まだ何も邪魔してないのに中村にバッサリやられてしまった。

「確かに邪魔な板だろう。敵にとっては」

 あずきが神妙な顔でカットインしてきた。

「だが、味方にとっては、お腹が空いたときにジンギスカンを焼くことができる、頼もしい板だ」

 名言を放ってやりました、というような面持ちであずきは力強く頷く。

「兜じゃなかったっけ?」

 古井が口を挟む。

「やだよ兜なんて。熱いじゃない」

「なんでアツアツのまま、かぶらなきゃいけないんだい?」

「油とか肉汁が下に流れる設計なんだってよ」

「え、携帯で調べるのアリ? 冷めるわー」

「いつまでもアツアツではいられないでしょう」

「うまいね!」

 この人達はさっきから何の話をしているんだろうか。


「そういえば、ここの現場も、敵に悪魔が二体いるんだった。ちょうどいいじゃない」

 まさか古井が軌道修正をするとは思わなかった。諦めていた分、嬉しかった。

「男型と女型、アベックがいるって言ってたね」

 あずきが続く。真面目に出来るということは、今までわざとふざけていたということになり、かえってたちが悪いのではないか。

「二人なら、私一人で行くよ」

 中村が肩をブンブン回して言う。

「コンビネーションを試そう、っていう流れなのに、どうして一人で行くとか言うかな?」

 古井が呆れたように言う。

「あ?」

 中村の眉毛が段違いになった。

「よし! まずは、中村さんに行ってもらって、一人じゃキツそうかな、ってなったら、みんなでサポートしようか!」

 古井の態度が百八十度変わった。びびっているな。

「一人じゃ? キツい?」

 向かって右の中村の眉毛の方がグイーンと上がっている。

「誰に何を言ってるか分かってるの?」

 中村の圧力がすごい。古井は首をいやいやと振りながら後ずさる。

「全くの新人に、名のあるベテランが押されている......」

 岡本が無意識につぶやいた。この場合は、新人の方が只者ではない、と驚くべきで、ベテランの不甲斐なさを嘆くべきではない。むしろベテランの奮起を期して応援すべき。

「こいつ、全くの新人が、とか言ってますよ!」

 あずきにチクられた。ガッデイム!

「んんん〜?」

 中村がゆっくりと振り向く。斬られる!

「新人かどうかと、実力の有り無しは、関係ないよね?」

 斬られた! ......ああ、まだか。

「やたら強い新人もたまに出て来るから気が抜けないよね! この世界は」

 古井が同調する。岡本を責めることで中村に取り入ろうとしているのか。

「相手の悪魔は二人なのに、中村さん一人で戦うってこと?」

 岡本は建設的な議論を望んでいる。今すべきかどうかは判断つかない。

「何か問題でも?」

 質問で返された。すごい自信だ。この自信はどこから生まれてくるのだろう。

「一人と戦って、もう一人の方は、盾さんが引きつけてればいいんじゃない?」

「いらない」

 古井の折衷案は即座に却下された。

「終わったらジンギスカン食べに行かない?」

「......うーん......」

 あずきの意見に他三人はうなってしまった。

「普通の焼肉でいいじゃない」

「ジンギスカンがいいの!」

 古井の折衷案はことごとく却下される。かわいそうでもある。

「二人の悪魔が同時に攻撃してくるでしょ? どうすんの?」

 岡本はあずきを無視して中村に向かって言った。

「よける」

 にべもない、とはこのことだ。とりつく島もない、とも言う。

「あずきさんってベジタリアンじゃなかったっけ?」

 古井にへこたれた様子は見られない。打たれ強い。

「うん」

 しばし時間が止まる。

「ジンギスカンは、お肉ですよねー?」

 古井が促す。あずきは放っておいたら喋ってくれなそう。自分で言い出したことなのに。

「野菜だけでいいよ」

 ミステリアスという便利な言葉にも、おそらく限界がある。

「ジンギスカンの、あの鍋の、独特なフォルムが見たくなった」

 岡本の盾の形を見て連想したのかもしれない。だからといって......。

「見るだけでいいんだ」

 率直な感想を言う。中村の言動は、対極的に分かりやすい。

「魚介も焼ける所がいいな」

 ますます焼肉じゃないですか。

「ベジタリアンでもないんですか?」

 魚は食べるんかい、という部分で、岡本は無駄と分かっていても言わずにはいられなかった。

「バランスよく食べるのの何が悪い」

 そして中村にキレられる。不条理を凝縮したような環境にいる。

「最悪、カレーでもいいよ」

 あずきの出してきた妥協案も、議論を混乱させるだけであった。

「盾で守っているだけでは勝てないんじゃない?」

 中村が急に話を戻した。二人同時に相手する場合の想定について、なので、戻りきってはいない。

「この盾は、その、ジンギスカンを焼くやつじゃなくて、ええと......」

 話題が変わるスピードに岡本の脳が反応しない。

「いいかい。中村さん」

 古井が優しく諭すように語りかける。

「なんだい。おっちゃん」

 古井の眉がぴくっと動いた。だが、まだ冷静さは保っているようだ。

「守りきって勝つ、いわゆる『受け潰す』というのは、本当にレベルで圧倒していないと無理なんだよ」

 攻め疲れさせて、戦意を喪失させる。受けきれなければ負けてしまう。そんなところに美学を感じている。古井が代わりに言ってくれて、嬉しかった。

「守りだけで、楽しいの?」

 中村は実に真っ直ぐである。岡本の不快そうな表情も苦にしていないようだ。

「それは、楽しくはないけど......。そもそも、戦うこと自体が好きじゃないし......」

 こうまで追いつめられると、本音を言ってしまうものだ。

「じゃあ何で悪魔なんてやってるの?」

 圧力は半端ない。古井の気持も分かろうというもの。

「え、試験、落ちたし......」

 岡本は、自分でも語尾が小さくなっていくのを感じている。

「また受ければいいじゃない」

 天使になるのに年齢制限はない。年を取るほど不利になっていくが。

「今、難しいんだよねー」

 古井の助け船。やはりありがたい。一方的に攻められていては勝ち目がない。岡本は自らの戦闘スタイルを否定するような思考に至った。

「そのうち受かるでしょうよ。受け続けてれば」

 悪魔・天使の寿命は長い。

「安定を求めて、たくさんの悪魔が天使化してるから、当分は難しいよ」

 未曾有の大不況である。古井は腕を組んで首を振る。

「気合いが足りないだけだよ」

 中村の思想は、どこまでもマッチョである。男前である。

「ああ、それで今回、応募してきたのね」

 あずきは時折鋭いことを言う。ミステリアスでもあり、気が抜けない。

「安定志向でもあり、試験も無いから! そうなの!?」

 中村が驚いている。自分ではっきり意識してもいないが、そうなのかも知れない。

「いや、その、試しに話を聞きに来ただけで......」

 いつの間にかメンバーに入れられている状況である。

「でも、やる気が無ければ来てないでしょ?」

 古井が言う。そう通り。嫌だったならば、あの時、ヘリに乗らなければよかったのだ。

「どんな活動をしてるのかなー、と思って」

 そして、あわよくば、日当をもらえればなー、と思って。

「ハハハ。こんな活動だよ。よく分かったかい?」

 分かるわけがない。まだ何もしていない。岡本は愛想笑いを返した。

「そうじゃん。この人って、受かったことになったの?」

 合格したかのような振る舞いに中村が異議を唱えている。他人に厳しい悪魔だ。

「試用期間、じゃなかったっけ?」

 古井が岡本に言う。こちらに聞かれても困る。

「いつまで?」

 中村は短いセンテンスでぽーんと投げかける。シンプルというか、言葉を選ぶ、ということをしない。

「それはまだ決めてなかったね」

 古井は手をすりあわせ、首を岡本の方に向けた。

「普通は三ヶ月とかだね」

 腕を組んだあずきが言う。なぜ相場を知っているのだろう。

「天使だったら六ヶ月だけれど。あれは法律なのかな?」

 そして変なところに詳しい。ミステリアスである。

「さすが! 元天使!」

 古井が冷やかす。そういうことだったのか。あずきは嫌そうに顔をしかめた。触れられたくない過去なのかもしれない。

「天使だったのー!」

 中村は遠慮無く触れる。あずきは目を閉じ、口を「ウワッ」とした。

「古井さんは、悪魔連盟の幹事だったでしょ」

 あずきは中村の追求をかわそうとした。

「それは知ってる」

 悪魔の中では有名な話である。古井は一目置かれる存在であった。

「僕も知ってました。初めて見たとき、あ、あの古井さんだ、って」

 一応伝えておこう。古井は嬉しそうに「そう?」と言った。

「元天使が、悪魔に堕ちて、それでいて天使に使われて、人間の世話をしているなんて」

 中村が話している間中、あずきはとても嫌そうな顔をしている。自分のことを言われるのが苦痛、といった様子だ。

「そういうあなたは、天使長官の縁故なんでしょ? 知ってんだから」

 あずきの反撃。業務上知り得た個人情報ではないだろうか。

「ぐぅ」

 思わぬ角度からうめき声がした。古井だ。また唇の端を震わせている。いかにも吐血しそうな顔色になっている。いかん!

「まままま! 立ち話もナンでしゅし!」

 中村が眉をつり上げて反論しようとした機先を制した。ちょっと口がもつれたけどやむを得なかった。

「ジンギスカンでもつつきながら! ねえ!」

 この場を収めることしか考えていない。この性格は岡本の長所か、短所か。

「そそそそ、そうだね! 君なかなか気の利いたこと言うねえ!」

 古井に肩をポンポンと叩かれた。役に立ったのは素直に嬉しかった。

「えー? ジンギスカンー?」

 あろうことか、反対意見があずきから起こった。残り三人は口をあんぐりと開けた。

「誰が言い出したんだよ!」

 古井がちょっと泣いている。岡本は、もう、あずきに同等の価値観で分かり合おうとするのは諦めるべきではないか、と考え始めていた。「はいはい。ミステリアス、ミステリアス」くらいのスタンスで接している方が、お互いのためだろう。

「ナン食べたい」

 岡本の「ナンですし」発言が原因だったか。

「カレーってこと?」

 もう止めようよ古井さん。

「いや。ナン」

 短い言葉で、簡単な単語だが、真意が掴めない。中村といよいよ対照的だ。

「私は何でもいいよ」

 中村が言う。この分かりやすさは何だ。ナンだけに。

「すっかりジンギスカンを向かい入れる精神状態だったのに。カレーで打ち上げなんて僕は認めない!」

 古井のストレスが変な場所から吹きだしたようだ。口から血を吹き出すよりずっとマシだ、と岡本は思った。

「そんな言い方は、聞き捨てならないですね」

 そして岡本は、この流れに乗ることにした。

「カレーに謝ってください」

 とにかく、和やかな方に話題を持っていきたかった。それほどカレーが好きな訳ではない。

「いや、謝らない。僕は、カレーという食文化を否定しているんじゃない」

 古井はかたくなな態度を見せた。

「打ち上げで、カレーで乾杯するのがそぐわない、と言っている」

 古井は首を振り続けている。胃が弱そうだから、カレーは好きじゃないのかも。

「別に、カレーで乾杯っても、あのスパイシーなやつを、コップになみなみ、ってことじゃないですよ」

 あずきが言う。独特な発想である。

「そんなことは言われなくても分かっているんだよ」

 古井がちゃんと対応する。律儀である。岡本には真似できない。

「熱くて飲めないよ」

 中村の感想。異論はないが、そういう問題でもない。

「そういう問題じゃないよ。冷めてても飲まないでしょ」

 やはりちゃんと突っ込む。岡本は感心しながら見ている。

「冷めたカレーなら、温め直せばいいじゃない!」

 あずき涙ながらに訴えた。思惑通り、話がだいぶ逸れた。

「カラいし、汗だくになるの、嫌じゃない?」

 古井は歩み寄りも求めている。

「嫌よ。でも、今日はジンギスカンだから関係ないでしょ」

 あずきが不思議そうに言う。岡本は眉間を押さえてうずくまりたくなった。

「良かったな! 打ち上げはジンギスカンに決定だ! ハハハ!」

 古井が岡本にすごい勢いで笑いかける。岡本は小さく頷くのが精一杯だった。

「ん......? 何だろう、この違和感」

 岡本の胸に去来した感覚。何かが間違っているような気がする。ジンギスカンかカレーかという話ではない。現場で打ち合わせをしていていいのか、というところだろう。


 ふと気付くと、一人の人影が見える。今まで気がつかなかった。もしかして、ずっと放っておいたかもしれない。四人での会話に夢中になっていた。岡本にとっては、それほど楽しいものではなかったが。

 一拍遅れて、残りの三人も気がついたようだ。一斉にそちらに視線を向ける。

 その人影は女性型であった。細身で、可憐であった。一目で悪魔と分かる、強く独特の雰囲気を放っている。

 長く黒い髪。白いジャケットに淡い紺色のスカート。若い気を感じる。中村よりもさらに若い。人間にしたら二十歳くらいじゃないだろうか。前髪が短く、丸顔なので、やや幼くも見える。ちなみに岡本の見立てでは、中村:二十五歳、あずき:二十八歳、くらいだ。中村は岡本と同年代だろうと思うが、女性の年齢は見た目ではわからないし、岡本の女性経験ではさらに心許ない。古井は三十五歳くらいだろう。どうでもいい。

 緊張した表情をしている。うっすら汗をかいている。四体の悪魔を前に、一人で立ち向かうのにためらいがあるのかも知れない。向こうから話しかけてこない。こちらの馬鹿話が終わるまでずっと待っていたのだろうか。悪いことをした。テロリストが後退した時点で、当前予想されるべき事態であった。人間が逃げ、雇った悪魔をけしかける。けしかけられた悪魔も気の毒だ。四体もの悪魔が、天使のいいなりになってテロの鎮圧に来るとは予想していなかっただろう。

 岡本はこの悪魔を知っている。若い割には有名な悪魔である。いや、若さ故に有名なのか。

「植田......!」

 岡本は思わず口走る。つられて他の三人も「こいつが......!」「聞いたことある......!」「何でテロリストに......!」と、似たような余韻を残しつつ、口々に言う。

 天才、ということで名が通っている。世の中には様々な天才がいるから、どの分野でどの程度の天才かは知らない。所属する団体が話題を呼ぶために過大にアピールする場合も多い。しかし、この、目の前にたたずむ植田、立ち姿からして只者ではない。岡本くらいの実力者になると分かる。どのように只者でないかは説明するのが難しい。

「なんで、植田ほどの使い手が、テロなんて蛮行の手伝いを......?」

 古井も驚愕している。人間に金で雇われるタイプの悪魔ではない。金に困っているとは思えない。普通に活動していれば、何かしらスポンサーがつくものだ。

 植田は動かない。こちらの動向を探っているのか、緊張した面持ちのままだ。ジンギスカンなどのしょうもない会話が終わっても、口を出してくる様子はない。天才といえど四体を同時に相手にするのは無理と思っているのだろうか。二対一でもかなりの実力差が無ければ戦えない。

「もう一人いるはずだ。みんな気をつけろ!」

 古井が注意を促す。そう、確か、男女のアベックがいるとの情報だった。......ということは......。

「植田さん、彼氏いるの?」

 岡本はショックを受ける。熱烈なファンという程ではないが、好きなタイプだった。

「痛い!」

 そして岡本は悲鳴を上げる。中村に向こうずねを蹴られた。無言で。

「今のは岡本くんが悪いね」

 岡本には心当たりがない。分かるのは、女心は永遠に理解できない、ということだけだ。

「よし。じゃあ、やろうか」

 中村が、何もない空間から刀を取り出す。まだ鞘に収まっている。刀は真っ黒いオーラを纏っている。

「やるって?」

 おそるおそるという感じで古井が振り返って聞いた。聞かなくても分かっているだろうに。

「あんたも、そのつもりなんでしょう?」

 植田に問いかけた中村は目が血走っている。殺る気まんまんである。

「いいんすか? まずくないですか?」

 岡本は古井に間接的に言った。直接中村に「やめろ!」と言う勇気はない。

「まずいかな? まずいよね」

 二人して間接的である。中村の耳に入っていることを祈っているが、そんな様子はみじんもない。いつでも抜刀できる体勢で、じりじりと植田の方ににじり寄っている。

「間合いに入ったら居合抜きでもするのかな?」

 植田は動かず、何も言わない。中村が一方的に間合いを詰めている。

「リーダーでしょ? かっこいいとこ見せてくださいよ」

「そそそ、そうだな」

 ストレスのかかりそうなシチュエーションではあるが、古井に血を吐きそうな素振りはない。バックに大きな権力がある場合に限られるようだ。

「中村くん! この勝負、私に預からせてくれないか!」

 かっこいいじゃん!

「中村くん! この勝負、中村くん! 中村くん! 聞こえてる?」

 かっこよくもなかった。まったく眼中に入れてもらえていない。

「......レジスタンスを代表し、交渉に来ました」

 植田がゆっくりと口を開いた。幼さの残る、甘い声である。緊張しているようだ。

「交渉!? はあ?」

 中村が露骨にがっかりする。上手い水の差し方だった。

「いいね! 大歓迎さ! 悪魔同士、腹を割って話そうね!」

 古井がすごく嬉しそうだ。男なら仕方ない。

「っていうか。なんで、四人も来る? 本当に天使側についたの?」

 植田は眉をひそめ、嫌悪感をあらわにして言った。古井の笑顔が凍り付いた。

「こ、これには深い理由が......」

 古井はキョロキョロし、岡本を見る。助けを求めているようだ。

「べ、別に、天使に魂まで打ったわけじゃないよ。報酬が出るから手伝ってる、くらい、ですよね? 僕は今日来たばっかりで、経緯とかよく知らないまま連れてこられた、言わば被害者だけれど」

「ずるいなー! そのスタンスたるや!」

 岡本は自分でも卑怯な立ち位置だという自覚はある。でも植田に嫌われたくない。他から嫌われてもやむを得ない。中村は気にもとめていないようだし、あずきに至っては姿が見えない。

「報酬で、こんな馬鹿げたサミットを守ろうっての? お金には魂売るの?」

 植田の怒りは大変なものだ。テンションの違いに岡本達は鼻白んだ。今までジンギスカンだのカレーで乾杯だので盛り上がっていたのを申し訳なく思った。

「サミット? 何の?」

 あろうことか、聞いたのは古井である。そういえば何も説明が無かった。本人も知らなかったのだ。

「はああっ!?」

 甲高い植田の声が響いた。聞き返されてるのではない。不愉快というアピールのようである。

「ふっ、古井さん! 聞いてないんですか?」

 迫力に圧倒された岡本が嫌なパスを出した。古井はのけ反りながら「え、え、え」と言った。

「知らないで来たの?」

 植田が岡本に問う。そうであって欲しい、という風にも取れる。

「おうおう! 知らない! 何も聞いてない!」

 嫌われたくない一心で岡本は何度も首を縦に振る。中村が舌打ちをしても構わない。

「何だっていいでしょうが! 早くやろうよ!」

 そして中村は刀から手を離さない。

「戦いたいだけで、理由は何だっていいのか......」

 岡本はちょっと引いた。悪魔そのものではないか。

「悪魔ですから」

 見透かされた。中村には、取り繕うとか、言い訳とか、存在しないようだ。自分の欲求に正直なタイプだろう。

「まあ、待ちたまえ。仮にどんなけしからんサミットだろうとも、武装して襲撃して、人質にとって立て籠もるなんて、正当化されるはずはないよ。目的さえあれば手段を問わないというなら、中村くんを悪く言えない」

 古井は、自分の「そもそも何の会議なの?」を調べる責任を放棄し、テロリスト側を非難し始めた。勝算はあるのだろうか。

「別に中村さんをどうこう言う気はないです」

 植田はサッパリと言いのける。中村を知っているような口ぶりだ。

「手段については、そっちもおんなじでしょう。暴力で解決しようってんなら」

 植田の指摘に、古井は「言われてみればそうだね!」と感心している。やはり勝算など無かった。

「ごめんね。僕らもよく分からないまま来てしまったんだ。よかったら、ここでどんなサミットが行われていたのか、君から説明してくれないかな」

 仕方なく岡本が前に出る。古井は「助かった」とばかりにうなずき、中村は「余計なことを!」と言わんばかりに顔をしかめる。あずきは本当にどこかに行った。植田は岡本に向き直った。

「唯一、話が通じそうな悪魔がいた。名前を名乗るがいい」

 いきなり高いところからいらっしゃった。さすが天才。

「あ、岡本です」

 あ、を付けてしまうのは悪い癖と言われたことがある。思わず出てしまうのでしょうがない。

「盾の人?」

 あどけなく植田が小首を傾げる。かわいいけどかんに障る。古井は「そうそう! 盾で守ってばっかりの!」と楽しそうに乗っかる。事実なので否定できない。

「知ってた? 僕のこと」

 そしてとても嬉しそうに岡本は自分の顔を指さした。とても低いところから迎えに行った。

「知ってる。守ってばかりで逃げ切ろうとしてる人」

 悪魔なんだけどね。

「どこで知ったの?」

 嬉しさのあまり食い下がる。やはり自分のことは気になる。

「『チキンな悪魔ランキング』で一番だったでしょ」

 忌まわしい過去を暴かれた。だいぶ前のことなのに、なんで知っているのか。

「ずいぶん昔のネタを知っているんだね!」

 古井が言う。あいかわらず気に入ろうとしている。

「そんなことはどうでもいいでしょう」

 照れ隠しではないようだ。本気でどうでもいいと思っているらしい。

「あれって、いつ頃だったっけ?」

 古井が本人に振ってきた。屈辱である。

「え、五十年前くらい......」

 悪魔の寿命は長いが、五十年は結構な期間である。十年は人間で言うと一年くらいの感覚である。すなわち五年前くらい。

「それから、ずっと防衛?」

 中村が、完全に馬鹿にしきった感じで言う。刀から手は離さない。

「あの年が最後だったんだよ」

 岡本はすね気味で答えた。『最後のチキン悪魔』として歴史に残ってしまった。

「もう盾人間には勝てない、ってことになったんでしょ」

 中村が笑う。それなら『殿堂入り』でランキングから除外すればいい。いや、そういう問題ではない。

「『友達をなくす戦い方の悪魔ランキング』と統合されたんだよね」

 古井の豆知識。岡本はそのランキングではトップテン圏外である。「戦い方」だけ見れば友達を増やしも減らしもしないということらしい。友達は多くはないが。

「守ってばっかりで楽しいの?」

 植田の質問に岡本はデジャブを感じた。

「楽しくて戦ってるわけじゃない。だれかさんとは違って」

 岡本は皮肉を言って中村をチラッと見た。まったく聞いていない。

「ああ、じゃあ、やっぱり、お金のために」

 植田は憐れむようにつぶやく。決めつけられている。

「いや、今回が初めてだから、そんな人でなしみたいな認識をしないでほしいな」

 岡本は慌てて取り繕おうとした。

「もういい。わかった。もういいよ」

 駄目だった。植田は目を伏せた。岡本はうなだれた。

「それで、何の会議だっけ?」

 古井が話を戻す。うっかり忘れたが前は知っていた、みたいな聞き方だ。

「ああー」

 植田は首の後ろを掻いた。面倒くさそうである。

「あたしもよく分かんないだけど、なんか、人間を進化させる、みたいな」

「結構な事じゃないですか」

 岡本は聞いたことがある。ニュースで見たのだったか。正式にはなんといったっけな。

「人類進化計画でしょ」

 中村が教えてくれた。そのまんまの正式名称。

「中身がよく分からない計画に莫大な税金を使って! おかしいと思わない?」

 植田はかん高い声で訴える。とても怒っている。

「うーん......」

「う、うーん......」

 岡本と古井はそろって口を濁した。正直、岡本にとって、人間がどうなろうと知ったことではない。どうぞ進化しなすってください、くらいの感想である。

「人間同士で、多数決で決めたことだし......」

 古井も同じテンションのようである。だいたいの悪魔はこのような態度ではないだろうか。

「嫌なら反対票を投じればいいわけだし......」

 岡本も同調する。民主主義とやらで勝手に栄えたり衰退したりすればいいじゃない。なんで植田がここまで介入しようとするのか分からない。

「だからそれは! 天使が上手く言いくるめてるの! 人間は騙されてる!」

 植田は古井・岡本ラインにビシッと指を指した。

「でも、いやー。結局、天使が人間を支配しているんだから、それはしょうがないような......」

 岡本が半笑いでとりあえずの反論をした。

 いつからかは定かではないが、永らく人類は天使と呼ばれる超存在の支配下に置かれている。やるべき事も天使から告げられ、命令に背けば罰も天使が下す。天使は、戦闘能力も知力も人類を軽く圧倒しているし、精神的に束縛する術にも長けてきた。

「悪魔がそんなことで! どうしようもないもん!」

 植田は更に激高する。岡本はうっとりと「かわいい」と思った。

 もちろん黙って従っている人間ばかりではない。このようにテロ活動などで天使に反旗を翻すものもいる。中には、悪魔と呼ばれる、天使と同等の能力をもつ存在を味方に付けるものまで出てきた。

「悪魔だからって、天使に反発しなきゃいけない、って決まりは無いしー。ハハ」

 古井も笑う。笑ってごまかすしかない。

 天使も悪魔も、元は同じ存在だとされている。起源は定かではない。岡本自身も、生まれたときや幼少期の記憶はない。気がついたら悪魔だった。試験を受ければ天使になれる可能性があると言われても、やはり自分は悪魔だと思っている。

「何のために力を持って生まれてきたか、とか、考えんか?」

 植田は独特の言い回しで憤っている。怒ると素が出るようだ。

「そんなの決まってるよ!」

 中村が横やりを入れる。槍ではなく刀に手をかけたままで。

「戦うためでしょうが!」

 中村の思考回路は、つくづくシンプルである。その強さが、うらやましくもある。

「違う違う!」

 植田は激しく首を振った。遠心力によって黒髪が乱れ、また戻った。

「弱いものを守るため! それは、強く生まれたものの責任だから!」

 植田も強く言い切る。中村とは違い、信念に裏打ちされた強さだ。生まれたままでナチュラルに図太い中村とは、性質・種類が違う。あくまで岡本の私見である。

「フ、若いな。その青臭い正義感の成せる業か......」

 古井が急に苦み走る。

「だがね、お嬢さん。いくら人間が弱い立場だからって、甘えてばかりでは駄目なんだ。天使に対して、自らの権利を主張しないと、いくら悪魔が散発的にテロを起こしても、結局は人間のためにならない」

 ど正論に岡本はどぎもを抜かれた。確かに、テロだけでは状況が良くなるとは思えない。

「やはり、悪魔同士でも分かり合えない......」

 植田は斜め下に視線を落とし、力なく首を振った。

「まして、種族を超えて分かり合うなんて......」

 植田の持つ若さが、悲しみに純粋さを与えている。どこまでも澄み渡った、ピュアな絶望を岡本は見た。何かに胸を貫かれたが、黙っていた。

「よし! やろう!」

 一転、力強く言い切って、植田は顔を上げた。もう絶望は宿っていない。

「そうこなくちゃ!」

 中村が嬉々とした声を上げる。植田はゆっくりと中村へ体を向けた。

 本当にそれでいいのか? 岡本の中で生じたのは、迷いか、焦りか。古井を見る。彼も迷っているようだ。だがサングラス越しの目には「中村が自由意志で戦いたいと言ってるんだから、こちらとしては為す術がない」というような気後れが見える。見えるような気がする。

「大丈夫。消滅するところまでは行かないはずだ」

 古井は自分に言い聞かせるように言った。悪魔といえども、あまりに強いダメージを一度に受けると、復活できなくなる場合がある。その事態は「消滅」と呼ばれている。悪魔同士の決闘でどちらかが消滅したというケースは、岡本は今まで聞いたことがない。

 だが、中村の刀と、その切れ味を想像すると、これは消滅もあり得るのでは、とも思う。あんなもので切り裂かれる植田を想像したくない。いくら「天才」と呼ばれている植田でも、万が一ということもある。まぐれ当たりが致命傷になりかねない。

 逆に、中村の心配はまったくしていない。怒られそうだけど、「彼女は元気にやっていけるだろう」というような安心感がある。植田もなんだかんだで消滅しない程度に上手くやるんじゃないか、という期待を抱かせる。中村が単独で「天才」に突っ込んでいって、軽くいなされる、という結果が強く予想されるゆえに、岡本も中村を強引に制止しようという気にならなかった。

「ふー。ふー」

 中村の荒い息づかいだけが響く。興奮しているようだ。平和主義者の岡本には理解できない精神状態である。

「今は分からなくても、いずれ分かる。お金のことしか考えず、何のためのテロ行為なのかも調べようともしない今は、何を言っても理解できない」

 植田は深刻なくらい悲しそうである。そして言っていることは岡本たちには正論なので反論できない。とても痛いところを突かれている。

「だから、口で説明しても無駄だから」

 植田は短い剣を袖口から取り出した。片手で扱える、両刃の短剣。右手に持って、左手には何も持たない。

「行くぞう!」

 前傾姿勢を取った植田が、中村目がけて襲いかかった。先に仕掛けるのは中村からだと思っていたので岡本は驚いた。植田はピンク色の輪郭の残像を細かい間隔で残しながら、中村へとダッシュ攻撃をかけた。

「ッ! 速い!」

 古井が舌を巻く。百戦錬磨の手練れも驚くほどの植田の踏み込み。これだけ見ても「天才」の通り名は伊達ではないようだ。

「もらった!」

 中村にしてみれば、待ちかまえているところに突っ込んでくるのだから、こんなに美味い話はない。「ザイっ!」という独特の気合いの元、居合抜きで横になぎ払う。刀は黄色い光りの尾を引いて、植田のこめかみから眉間を確実に、完璧に捕らえていた。

「なにぃ!?」

 中村の刀は空を斬り、中村は驚きの声を上げる。刀は、植田の残像を、空しくも通り過ぎただけであった。

 植田は、飛び込んでくるのと同じ速度で、今度は後ろにダッシュしていた。慣性などまるで無視したかのように、前ダッシュから後ダッシュを連続で行ったのだ。

「これが! 幻影ミラージュ!」

 古井が叫ぶ。岡本も技の名前は聞いたことがあったが、実際に見るのは初めてだった。実体なのか、輪郭だけの幻なのか、一瞬では区別がつかない。そして相手は、攻撃を外したあと、致命的に大きな隙ができる。今の中村がそうだ。

「来るぞ! 中村くん!」

 古井のアドバイスもタイミング的には遅い。植田の短剣が中村の脳天へと振り下ろされようとしている。そう、前ダッシュから後ダッシュして、また前ダッシュしている。

「ちえい!」

 ガキン! という金属音。植田が繰り出した短剣の一撃を中村は刀の腹で受け止めた。

「おお! すげえ!」

 岡本は思わず感嘆の声を上げた。隙だらけに思われた中村であったが、返す刀で防御できている。攻撃一辺倒のスタイルだと思いこんでいたので意外であった。

「完全に振り抜かず、切っ先を相手に向けて止めている。普段の鍛錬の成果だね!」

 古井の解説。相手の反撃に常に備える心得、みたいなのがあるのだろう。居合抜きして、右へ振り抜くのではなく、腕に対して九十度の角度をキープしていたから、急なカウンターにも対応できた、と。

 植田と中村は、つばぜり合いの真っ最中である。せめぎ合う気迫がほとばしっている。

「ぬががが!」

 中村は、右手で柄を、左手は刃の腹を押さえる形で、必死の形相で耐えている。

「......」

 植田は無言である。なんと右手一本で短剣を打ち付けている。それでも中村は押し返せない。なんて芯の強さだ!

 その時、特にきっかけがあったわけでも無さそうなタイミングで、天井が崩れてきた。上の階の床が抜けた、という表現がしっくり来る。

「来るぞ! もう一体だ!」

 古井が言わなくても岡本は分かっている。上の階から落ちてきたのは、カップルで存在したと事前の情報にあった、植田の相方ということになる。

「この野郎!」

 岡本は我知らず毒づいた。植田との関係はまだ定かではないが、男として許せない。

「! お前は!」

 現れた姿は岡本は見覚えがある。髪の毛の一部が赤く染められ、逆立っている。

「西村!」

 古井も叫ぶ。知っていて当然だ。良くも悪くも、相当に有名な悪魔である。実力者であることもさりながら、その言動・態度で名を広く知られている。

「しまった! 囲まれてる!」

 岡本は慌てて盾を構える。西村についてゆっくり思い出している余裕は無かった。武装したロボット兵が三体、岡本と古井を取り囲んでいる。二メートルを超える身長、メタリックな骨格に、機関銃やロケットランチャーを構えている。この距離では岡本の固い盾といえども、無傷では済まないだろう。

 岡本は、自分の防御に集中すべきか、古井にも盾を貸してやるべきか迷った。両手に盾を持っている。一枚を分け与えるか? それとも、もう一枚出す? 岡本の特殊能力は、いつでもどこでも、自在に、任意の形状の盾を出現させるといったものだ。ただし精神力を消耗する。一度にあまり大量の盾を出そうとすると、当然、一枚当たりは薄くなる。今までの最高記録は十五枚であるが、最後の方はベニヤ板くらいだった。

「岡本......。あの『無言の盾』が、たかが金のために、天使に寝返るなんてな」

 西村も心底残念そうだ。植田とまったく同じスタンスのようだ。

「俺もお前を知ってるぜ! 西村!」

 岡本はかっこつけて指さした。植田との仲をやっかんでいるのを悟られまいとした。

「行く先々で問題を起こすってな! さすがは『猛毒の赤毛』!」

 西村は、悪魔の中でも過激派として有名である。岡本も、実物を見るのは初めてだが、噂は色々と聞いている。

「天使庁の食堂に大量のネズミを放ったり?」

 西村が挑発的な口ぶりで言う。

「お、おう。わんさか天使が乗った大型バスのトイレを、内側から鍵かけたり」

 岡本も、聞いている武勇伝を挙げてみる。思い出してみれば、ほとんど全て、天使に対するテロ行為なようである。

「そんな軽いのばっかりだと馬鹿にしているんだろうが、すべてに深い意味とテーマがあってのこと」

 西村の手には重々しいショットガンが鈍く光っている。悪魔の仲間内では、今度はどんなイタズラをするのかと、予想し合い、期待していた。

「確か、一人も人間を殺してないよな。俺もだけど」

 岡本はかまをかけてみた。悪魔によっては大勢を殺しても平気な奴もいる。岡本にとっては人間など別にどうでもよいのだが、不必要に殺すのは違うと思っていた。

「あんたは、天使も撃退してないよなあ?」

 西村が唇の片側を不敵に持ち上げる。岡本は「うっ」と言った。

「俺は二体、撃退した」

 またも武勇伝。「撃退」とは、消滅まで至らなくても、復活に数年の期間を要するほどダメージをうけた、という状態である。そのせいで西村はお尋ね者になっていて、賞金も懸かっている。もちろん、賞金は天使から支払われるので、それに乗る悪魔はほとんどいない。ただ、賞金の額の大小が、悪魔内でのステイタスと化している。岡本にも古井にも賞金は懸けられていない。中村はどうか調べたことはないが、おそらくゼロのはず。あずきは、どうせ調べても「謎だ」と徒労に終わるに決まっている。

 西村は「賞金首であるにも関わらず、人間を殺さない悪魔」として、とてもかっこいいポジションにいる、という認識のされ方をしている。

「やろうと思えば何体でも撃退できるさ」

 岡本は特にこれといった認識のされ方もされていない。強いて言えば「盾の人」くらいだが、大体は黙殺されているというか、相手にされていない。

「本当かい? 盾で守ってるだけで勝てるのかい?」

 西村の言葉に岡本はムッとしたが、怒りに我を忘れるということはしない。こんな挑発には乗らない。さっきから散々言われ、慣れてきたということもある。

「少なくとも、こんなセンスの悪いロボットなんか必要ないさ」

 岡本は、自分を取り囲んでいる三体のロボット兵士を指した。無骨なデザインで、お世辞にもスマートとは言えない。

「俺のじゃない! 人間が貸してくれたんだ」

 西村はすぐに声を荒げた。挑発に乗りやすいようだ。

「必要なければ、借りなきゃいいじゃないか」

 岡本は追い打ちをかける。実際に戦闘に入る前に、心理戦で少しでも優位に立っていたい。

「人数で負けているんだ。それくらいのことはするさ」

 こちらは四体。向こうは二体。中村と植田はまだつばぜり合い中。あずきはどこかに行った。西村は、岡本と古井の相手を同時にするハンデを埋めるため、ロボット兵士を使うと堂々と言っている。

「って、古井さんは?」

 さっきから西村は岡本にばかり話しかけてくるし、ロボット兵士も三体とも岡本を取り囲んでいるから、何かおかしいと思った。古井も姿を消しているのだ。

「俺が知るかよ」

 西村は正論を吐く。別にお前に聞いたわけじゃない。

「盾だけの男に、この状況が打開できるかな?」

 岡本の首筋を汗が伝う。悪魔相手に一対一なら、相手の攻めを切らせて戦意喪失させることもできるが、複数の相手にタコ殴りにされ続けては、じり貧である。せめてこちらにもう一体いて、岡本が防御、もう一体が攻撃、となれば勝負になるのに。

 他の攻撃者は、と思って中村の方を見る。助けを求めるような目で見てしまう。まだつばぜり合いか? いつまでやっているの?

 まだやっていた。火花が散っている。比喩ではなく、周りの壁紙に引火したりしている。

「むぎぎぎ」

 中村はあいかわらず鬼の形相である。鬼は悪魔より顔がいかつい、と言える。

「......うーん」

 植田も涼しい顔という訳にもいかなくなっているようだ。困っている顔になっている。力を抜けばさすがに危ない。押し返すのも何か中村に悪いらしい。

 岡本は、ため息と共に西村に向き直った。無駄な戦いはしたくない。古井が逃亡した以上、岡本もここに居る理由がない。別に、謝るとか、口八丁で切り抜けるとかいうことではない。大人の対応をしようというだけだ。

「さ! 今日のところは、ね」

 岡本は両手の平をパチンと合わせ、空気を変えようとした。

「ね、じゃなくて」

 西村は冷ややかに笑う。そのまま笑って許してくれたらいいのに。

「許して欲しかったら、それなりの態度ってもんが、あるだろう?」

 西村はショットガンのような銃を肩に担いだ。戦闘態勢を解いている。隙ができたからといって、岡本から仕掛けることはできない。盾で殴るくらいしか。


『大変長らくお待たせ致しましたー』

 急な声に思わず身構える。ロボット兵士を前にして、ずっと身構えていたが。

『間もなく、そちらに、遅れていた古井が入りまーす』

 西村も銃を構え、辺りを見回す。声は古井のものとは思えないほどエフェクトがかかっている。自らわざと歪ませているようでもある。

「アナウンス? わざわざそのために管制室に?」

 古井の声はスピーカーから聞こえてくる。ビルによくある、普通の、防災やチャイムや朝の体操などが流れるスピーカーだ。それがしたいがために岡本を置き去りにしていったとしたら、とんだリーダーだ。

『それは違いまーす』

 独特の口調にだんだんイライラしてきた。いや、かなりイライラしている。何かのものまねなんだろうか。

「違う? では、スピーカーに外から繋いでいるのか?」

 西村もイラついている。こんなところで気が合っても嬉しくない。

『それも違いまーす』

 そんな技術が古井にあるとは思えない。やる意義も見えない。この発声法をやりたいがため? それは古井ならあり得るが、違うと言っている。

「じゃあ、残るは、あんた本人がスピーカーに化けてる、か?」

 西村は担いでいたショットガンを軽やかに片手で構え、天井目がけて発射した。破裂するような、乾いた音が響いた。ベージュ色のスピーカーらしき箱が粉々に吹き飛んだ。

「うわ!」

 急な、予告無しでの射撃に、岡本は驚きの声を上げた。本当に化けていたらどうするんだ。

『危ない!』

 せっぱ詰まった古井の声は、先ほどとは違う所から聞こえてくる。やはり化けていたのか。

「速いな。変身を解いて、他のスピーカーに化けるまで、一瞬だ。そのスピードを攻撃に活かせばよいものを」

 そう言いながら、西村は、次々と天井のスピーカーを打ち抜いていく。クレー射撃みたいに気持ちよく、テンポ良く、正確な射撃である。茶色いコートの裾を翻し、それなりにかっこいいと思ってしまった。

 用心深い、疑り深い、慎重居士な、悪く言うとチキンな岡本に霊感の閃きが訪れた。古井は、天井に意識を向けさせている。西村も、ロボット兵士も、上に気を取られている。

(何か、技を仕掛けてくるな......?)

 岡本はそう勘ぐった。スピーカーも、古井本体ではなく、末端を変化させているではないか。それで高速で変身・撤退できるんだ。

 天井と逆、すなわち、床を見る。特に変わったところなどはない。地雷がむき出しで置いてあったりもしない。

 床は、貼り付けるタイプのマットである。よくある普通のオフィスである。淡いグレー。さすが天使庁だけあって、高価そうであった。

 レールも敷いてある。どこにでもある鉄道のレールである。実に自然に、風景にとけ込んでいる。繰り返しになるが、変わったところはない。トロッコで荷物を運ぶこともあるだろうし、部屋から部屋への移動を電車で行うこともあるだろう。自分の課で快速が止まらず、悔しい思いをするなんてのは日常茶飯事......。

「......って、おおい?」

 岡本の視線はレールに釘付けになっている。赤茶けた、無骨な金属のレール。威風堂々である。

「なんで、こんなところに、鉄道のレールが......」

 西村に聞こえないようにつぶやいた。聞かれるとヒントを与えかねない。こういうところが自分でもチキンである。

『危険ですので、お下がりくだっさーい』

 何回か聞いたことのあるフレーズ。古井がさっきから繰り返しているので、耳に残っている。下がれ? 岡本は自分の足下を見た。

「なんとっ!?」

 あろう事か、岡本の足の下に、レールが敷かれている。上に立っている人間(いや悪魔)が気付かないなんて。にわかには信じられん。

『お、さ、が、り、くださーい?』

 岡本本人に語りかけられているような気がした。反射的に、一歩、後ずさった。

『一番線を電車が通過しまーす。危険ですのでご注意くださ......』

 古井のアナウンスはBGMとして馴染みすぎ、岡本にとっては環境音として通り過ぎて行く。重要なことを伝えようとしているのは分かる。しかし、通り抜けていくのだからしょうがない。今まで、注意して駅のアナウンスを聞く訓練をしてこなかったのだ。

「むぅ?」

 西村が異変に気付いたようだ。異変があることには気付いたが、それが何なのか分かっていない。天井を打ち続けるのを止め、辺りを見回した。惜しいな。もっと下だよ。

 パアンッ! という警告音。舟で言うと霧笛。自動車で言うとクラクション。岡本は体をひねり、後ろへとダイブした。床に一列に、黄色いブツブツのある帯というかブロックが並んでいる。それを飛び越すのが安全へのライン、と本能的に察知した。アナウンスで『黄色い点字ブロックの内側までおダイブください』と言っていた気もする。

 すんでの所で、爆発的な風圧。鉄のかたまりが、猛スピードで駆け抜けていく。あらゆる生命の優しさ、温かさを否定するような金属音。無慈悲に無機質であった。

「うわー!」

 床に突っ伏して、頭を押さえて悲鳴を上げる。ヘリの時といい、どうしてこうもスレスレを通っていくのか。この段階で願うのは、運転席にあずきが乗っていないことだ。どっちにしろ見えなかった。

 金属音は、ロボット兵士が跳ね飛ばされた音のようだ。三体まとめて、おそらくビルの外へと吹き飛ばされた。轟音を立てて、列車がホームを駆け抜けていく。十二両くらいありそうだ。岡本は顔を上げ、首だけで、ゆっくりと振り向いた。表示板に、青い文字で「新快速」と書いてあるような気がした。改めて、良く見てみようと目で追っている内に、列車は途切れ、視界から居なくなった。岡本は己の無力さ・小ささを痛感した。古井の力がそれほど強大だとも思えない。電車というものに対する畏怖がそうさせているのだろう。有無を言わせない説得力、一人一人の個性を考慮せず、まったくの一律に扱う冷徹さ。刃向かう気が無くなる。

 岡本は体を起こす。辺りは静寂を取り戻している。レールの向こうに西村がいる。茫然と立っている。古井の電車アタックは、ロボット兵士三体が精一杯だったのか。それとも、わざと西村を避けたのか。岡本が緊急回避しなければならかったことを考えると、後者の方が可能性が高い。

 横を向く。壁に大穴が開いている。ここからロボット兵士は押し出され、数百メートル下へと落ちていったのだろう。落下地点に人間や車両がいないことを祈った。怖いのでのぞき込んだりはしない。

「で、古井さんは?」

 岡本はだれにともなく聞いた。一緒に落ちていくはずがない。気がつけば足下のレールも点字ブロックも綺麗に撤収されている。体の一部なのか、どういう仕組みなんだろうか。

 程なくして、ロケットの噴出音が聞こえてきた。古井が、背中に背負うタイプのジェットエンジンで、ホバリングしながら、電車が出て行った大穴から入ってくる。銀色のスーツがキラキラしている。フワフワと左右に蛇行しながら。

「......」

 古井は何か言っているようだが、爆音に遮られて聞こえない。降りてから喋ればいいのに。

「危なかったね!」

 降りてきた古井が発した第一声がこれだ。岡本は目眩がした。

「何がですか?」

 一応、聞いておこう。

「もう少しで列車にはねられるところだったじゃない」

 いけしゃあしゃあと。脱力して、怒りすら湧いてこない。

「自分で止まれないんですか?」

「勢いがついちゃうとね。それは難しいね」

 古井は他人事のように首を振った。

「スイッチバックだしね」

 快速が? うそつけ。

「あんた、古井だな? どこかで見たことあると思っていたんだ」

 西村はそれほど動揺していないようだ。落ちついた、低い声で、古井に真正面から向き合っている。

「あ! そういえば」

 古井は何か思い出して、スーツの胸ポケットを探る。西村が身構える。拳銃でも出すと思ったか。ホルスターのようなものは岡本からは見えない。

「あれ、おかしいな」

 さらにポケットなどを色々探る。西村もショットガンを構えたまま、怪訝な顔をする。

「名刺を......。作ったんだけど......」

 普段、名刺交換とかしないから、いざという場面で慌ててしまうのだろう。

「古井さん、今、は、よくないですか?」

 ショットガンの銃口がこちらを向いている状態である。

「ん。あとでいいか」

 古井は首だけ岡本に向けて頷いた。どうも意思疎通が噛み合わない。

「今のこのシチュエーションは、名刺交換をしているような場面じゃない、ってことで、それはあとになっても、西村君と我々との関係性は変わらない訳ですから、ああもう面倒くさいな」

 途中で心が折れた音がした。

「お前が面倒くさいわ」

 西村に顔を目がけてショットガンを発砲された。

「うわ!」

 驚きの声を上げたのは古井だ。岡本は造作もなく盾で弾いた。上方向に逸れた散弾が天井に穴を開ける。

「いきなり撃つなよー。人間なら顔がぐちゃぐちゃになってるよ」

 そして西村を非難する。自分の代わりに怒ってくれて、岡本は少し嬉しかった。

「撃つときは『くらえー!』とか言うのがマナーでしょ」

 やはり怒るポイントがずれている。そんなマナーは聞いたことがない。

「もう付き合ってられんわ。植田さん?」

 西村は植田と中村の方に呼びかけた。さん付けだったのを岡本は聞き逃さない。

「って、まだやってるよ」

 そう西村は呆れたが、つばぜり合いは終わっていた。間合いを取ってにらみ合っている。膠着状態が続いている。

「ぬぬぬ......」

 中村は、刀を頭上に大きく持ち上げたままの姿勢をキープしている。上段の構え、くらいの知識は岡本にもあった。

「なんというか、がら空きだよな」

 古井が率直な感想を言っている。確かに胴体も下半身も隙だらけである。

「間合いに入ってきたら、相手より先に振り下ろすつもりなんでしょう」

 背水の陣というか、一か八かという世界だ。相打ちもやむなし、という必死の覚悟が、中村の全身からほとばしっている。

「これでは、天才の植田といえども、うかつには踏み込めないか」

 植田といえば、右手にもった短剣をダラリと垂らし、力を抜いて自然体で立っている。中村とは好対照である。

「立ち姿もサマになってるなあ」

 古井は率直な感想を吐き続ける。そしてこちらの植田には全くの隙がない。最小限のステップで華麗にかわされ、脳天に短剣を打ち下ろされるイメージがかなり鮮明に描かれる。

「これは、先に動いた方が負ける、ってやつか」

 岡本が生唾を飲み込みつつ言った。

「そうか?」

 西村が軽いテンションで言う。こいつ全然心配してない。

「植田さん。早く決めちゃってくださいよ」

 そのテンションのままで、西村は軽く声をかけた。そう、植田が最速で攻撃してきた場合、中村は相打ちに持ち込むのも難しいだろう。それぐらいスピードに圧倒的な差がある。岡本はその速さを体感した訳ではないが、たたずまいや、先ほど見せられた、刀をかわして踏み込む一連の動きから想像した。本気を出したら相当速いぞ、と。

「うーん」

 植田は困った顔をこちらに向ける。中村にしてみれば余りの侮辱。だが中村からは打ち込めない。絶望的な状況に、歯を食いしばっている。初めて会ったときからの印象はあまり良くなかった岡本も、胸に少しの痛みを感じ、顔をしかめた。

「そっちはどうですか?」

 植田は中村に視線を戻しながら言った。西村に敬語を使ったのを岡本は聞き逃さなかった。

「どうって......。どうなんだろ」

 西村、古井、岡本で顔をそれぞれ交互に見合わせる。リーダーというか、言い出しっぺというか、端緒を開く役が居ないので、こちらはこちらで膠着状態である。

「なんか、さっきの『新快速アタック』で気が済んじゃったよ」

「あ、やっぱりあれ、新快速なんすか?」

「そりゃ、ここぞというときには新快速でしょー」

 男二人でキャッキャ言い合う。植田の方からエヘンエヘンと咳払いが聞こえてきた。

「もう一人は? どこ行った?」

 視線は中村に合わせたまま、きりりとした横顔で植田が聞いた。敬語じゃないのを岡本は聞き逃さなかった。

「もう一人? まだ居るのか?!」

 西村が弾けるように周りを見回した。そう、彼が登場したころには、あずきはすでに居なくなっていた。

「しまった! こいつらは揺動か?」

 古井・岡本が、相手悪魔の護衛の注意を引き、その間にあずきが人質を解放しに行ったと。それは無いだろう。味方を必要以上に買いかぶらない。そんな自らの姿勢に岡本は誇りを感じた。今日会ったばっかりだし。

「植田さん! 俺、一回戻るわ!」

 そう言うと西村は岡本・古井ペアに向かってショットガンを発砲した。立て続けに四発。

「トラディショナル・シールド!」

 古代の剣闘士をイメージした盾を二枚出し、岡本・古井ペアを防御した。あまり気合いの入っていない射撃だったのでアッサリ防ぐことができた。

「また! 何も言わずに撃ちおって!」

 古井は憤慨している。マナー違反だと。

「威嚇とか、けん制とかじゃないですか?」

 岡本は盾からそっと顔を出し、西村を伺う。やはり居なくなっている。人質が監禁されている部屋へと向かったのだろう。

「例えけん制でも、『行かせるかぁ!』とか『俺が足止めするッ!』とか叫ばないと」

 オッサン古いんだよセンスが、と岡本は心の中で思ったが、口にする勇気は無かった。

「......じゃ、我々も追おうか」

 何かをちょっと感じて古井の機嫌が悪くなった気がする。繊細だなあ。

「中村くんはどうするかな。ああ、まだやってるのか」

 そう。まだにらみ合っている。正確には中村が一方的ににらんでいて、植田が困っている。

 岡本は一瞬、二人の間に盾を投げ込もうかと考えた。この状態を打ち切るためには、なにかきっかけがいるんじゃないかと。だが、そうしなかった。中村の為にならない。仮にもエースなら、自分の力で解決し、切り抜けてほしい。それと、なんで邪魔をしたかと後から猛烈に怒られそうなので。

「はぎぎぎ......」

 うなり続ける中村を横目に、岡本は歩み出した。植田のテンションから見ても、そんなに酷くは痛めつけられないのではないか、という根拠のない期待もあった。

「......」

 植田も岡本を見た。恨めしそうな目だった。またすぐに視線を中村に戻した。


『早く乗りな!』

 古井の声に驚いて振り向く。そこには、バイクが一台置いてあった。ビッグスクーターのような、オレンジ色の、どでかいバイクだ。サイバーパンクなセンスだった。

「これ、古井さんですか?」

 古井が変身した姿なのに違いないが、岡本は一応確認しておこうと思った。

 チカチカと、ヘッドライトが点滅した。肯定しているようだ。

「走って追いかけた方が速いような......」

 せっかくカッコイイバイクに変身してくれた古井の好意を無にするのも気が引ける。岡本はぎこちない動きでバイクにまたがった。バイクなど乗ったことはない。

「......乗りましたよ?」

 シートに身を任せると、ふんぞり返ったようになる。そしてバイクはピクリとも動かない。

「......古井さん?」

 ルールが分からない。こちらに来てから、こんなのばっかりだ。

『バイク運転しないの?』

 スピードメーターらしきものが並んでいるパネルのランプが点滅し、どこからともなく古井の声が聞こえた。しびれを切らしたようだ。

「あー。運転、しないっすねー」

 素の岡本で答えた。しないのだから仕方がない。

『とりあえず、見よう見まねで頼むよ』

 頼まれては断るのも悪い。岡本はまず足回りを見てみた。特にアクセルらしきものはない。何かペダル的なものを踏んで操作するということはなさそうだ。

『超合金ダブルローターの、両輪駆動さ!』

 古井が誇らしげに何か言っているが、意味はまったく分からない。

 続いて正面のパネルを見る。何やら細かいスイッチが沢山ある。

『コンピューター制御の、ロックレスブレーキシステムさ!』

 古井が楽しそうにしているのなら、岡本には特段言うべきことはなかった。

「ああ、そう言えば、ハンドルを手でクルクルしていたな」

 街で見かけるバイカーは、よく右手をクリクリしてエンジンをふかしていた。あんな感じだろうと思った。岡本は右手のハンドル部分をグイと回した。意外なほど抵抗はなく、スムーズに回った。

 ズバン! ズババババ!

「うわー!」

 ヘリコプター、電車と来て、バイクでも悲鳴を上げさせられた。いきなり車体が跳ね上がり、ウイリーの状態で暴走し出したのだ。

『そんなに急にアクセルを開けるなー!』

 古井の声も爆音にかき消され、岡本まで届かない。

「ブレーキは?! ロックレスの!」

 よく分からないまま岡本はレバーを握る。今度は前につんのめる。

「あぎゃー!」

 頭からコンソールパネルにつっこんで、額をしたたかに打ち付けた。

『変なボタンを押すなー!』

 頭突きで何かボタンを押してしまったらしいが、岡本はそれどころではない。なんとかハンドルを操作して、転倒しないようにするので精一杯である。

「ととと、何とか持ち直った......、って、ええー!?」

 ようやく真っ直ぐ走り出したと思ったら、ものすごい加速である。

『なんでターボボタンを押したんだー!』

 押したくて押したのではないのだが、反論をしている余裕などない。

 目の前には、先ほど古井が電車として開けた、壁の大穴が待っているのだ。

「落ちる!」

 言わないでも分かることだったが、岡本は言わずにはいられなかった。何百メートルという高さから落ちたら悪魔といえどひとたまりもない。

「ええい! ままよ!」

 もう一度ブレーキをかけながら、思い切ってハンドルを切ってみる。横にズザーっと滑って摩擦で止まるイメージだった。

 ガリガリガリガリ!

『うぎゃーーーーっ!』

 岡本は目をつぶったので事態は見えなかった。ただ古井の痛そうな悲鳴が胸に突き刺さった。

 格好良くバイクは止まるはずだった。ギリギリで落下を免れるはずであった。なのに勢いは弱まらない。ブレーキがロックレスなのと関係はないだろうか。ロックレスなブレーキシステムというのが岡本にはイマイチ分からなかったので、それ以上疑うのをやめた。

 勢いに乗ったまま横に滑るバイクは、タイヤが床の出っ張りか何かに引っかかり、横方向に回転しながら宙を舞った。岡本の体はバイクからゆっくり離れる。全てがスローモーションのように見える。

「......終わった......」

 何が終わったのか、岡本は言葉にしたくなかった。ただ、格好良くバイクが止まることはもうないのだ、と直感的に理解した。

 バシュバシューいう発射音をバイクの方から聞いた。物憂げに視線を送る。バイクの前と後ろのバンパーらしきパーツからフック付きのワイヤーを撃ちだしたようだ。それで二回の発射音がしたのだ。

「ずるいヨ!」

 もう岡本は投げ出されているのだ。古井だけワイヤーで助かろうというのか。フックは無事に柱に巻き付き、バイクはのたうちながら床に何度も叩き付けられた。それはそれで痛そうでもある。シートベルト的なもので固定されていたら、岡本の頭蓋骨はらくがんのように粉々になっていたかもしれない。助けられたという実感は別に無い。

「はあっっ......」

 次の瞬間には、岡本の体はもう、ビルの外だった。壁の穴から完全に放り出された。遠くの夜景のきらめきは報道のヘリコプターからのライトですぐに見えなくなった。一斉に照らされた。

 平泳ぎのような動作をしてみようか迷った。報道のカメラで撮られていると思うとなおさら興奮してしまう。もちろん、そんな時間的余裕はない。

「ええいっ! やむを得ん!」

 岡本はカメラを意識し、クールに装った気合いを発した。

「フットレスト・シールド!」

 空中に円形の盾を発声させ、それを足場にする。赤く、ベルベットな盾である。右足で踏ん張り、思い切り蹴る。かろうじて慣性が止まる。

「もう一丁!」

 今度は左足の下に盾を出す。階段を上る要領で、体が持ち上がる。

「くっ! 届かない! もう一発!」

 一枚出すのでも、結構疲れる。三枚はかなりキツい。

「ラララドスコーイ!」

 謎の気合いで、どうにかビルの外壁に指がかかった。プルプルいっている。

「くおおお......」

 こんなに短い時間に立て続けに(盾だけに)出さなければ、これほど疲れない。勾配が急な坂道で、休憩無しでダッシュを三本したあと、休憩無しで懸垂をさせられているようなものだ。

「大丈夫?」

 古井が顔を覗かせる。にゅっと出てきた。

「大丈夫そうに見えますか?」

 そんな質問をするくらいなら助け上げてほしい、という思いを込めた。

「割と大丈夫そうで安心している」

 古井はサングラスを光らせ、力強く頷いた。嫌味で言った言葉を真に受けるとは恐れ入った。

「早く......、助けて......」

 ズルズルと岡本の体はずり落ちていく。

「よーし、待ってろよー! 食らえ! グッドハンド!」

 何を食らわされるのかと思っていたら、フック付きのワイヤーだった。先ほどバイクを繋いだものの残りだろう。そのワイヤーで岡本の腕をぐるぐる巻きにした。

「そりゃー!」

 何にせよ、引っ張り上げてくれるのはありがたい。岡本は両足で壁を歩くようにして登っていくことができた。心なしか、背中にカメラの残念そうな視線を感じた。

「よいしょー!」

 ようやく岡本は、床のある場所まで上ることができた。その場に横たわったきり起き上がれない。パワーを使いすぎた。

「危ないところだった。しかし、空を飛べるなんて、知らなかったなー」

 古井はどこまでも呑気であった。あれを「空を飛ぶ」と解釈するのは普通の感覚ではない。

「......」

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