99. 対決 1
2014/11/14 誤字など訂正。
恋歌がまず思ったのは、綾羽を逃がしておいてよかった、ということだ。
それでなくても今夜の綾羽は二度危険な目に遭っている。
この場に巻き込ませたら、三度目の正直だ。今度こそ恋歌の妹女郎は生き延びられないかもしれない。
せめて、あの子の心配だけでもしないで済むことは、僥倖なのだ。
恋歌はそう思い、それから自分の心配を始める。
善次郎の冷え切った左腕が恋歌の首に回されている。
その腕は恋歌の顎の下に喰いこみ、こいつが本気で力を入れれば自分の首など簡単にへし折ることが出来るのだろう、と恋歌はいやでも理解してしまう。
ふと、善次郎が呟いた。
「うるせえよ」
「……?」
恋歌は何も言っていない。
善次郎の言葉の意味がわからず、恋歌は隣にある鬼の横顔を見ようとする。
だが、善次郎は恋歌を見ていなかった。
その視線はまっすぐに高村晋輔に向けられている。
もちろん、晋輔も何も話してはいない。
善次郎の呟きの意味がわからず、恋歌は首を傾げる。
だが、結局、考えてもわからないものはわからない。
それにしても。
「あれで死んでくれるなんて、あっさりしすぎていると思ったのよね」
と、恋歌は言ってみる。
溜息とともに出た言葉を、善次郎は笑顔で聞きとがめる。
「俺のことか。そりゃあ簡単には死ねないな」
「どうせ死んでいるんでしょ。そのまま静かに死んでおきなさいよ」
善次郎は面白くもなさそうに笑い続ける。
恋歌の肩に顔を乗せ、恋歌の耳に腐ったような息を吹きかけて嗤う。
「恋歌を放せ」
高村晋輔は言う。
善次郎は答えずに笑っている。
見なくてもわかる。
こいつはずっと笑っている。
まるで長く嗤い続けてきたために、その表情が顔に仮面のように張り付いてしまったみたいに笑い続けている。
だが。
「そうはいくか」
今、善次郎の声は笑えていなかった。
善次郎はそれでも分類的には笑顔とされる表情で、高村晋輔に言った。
「きっとこの娘を殺せば、お前は今まで以上にしつこく追ってくるんだろうなぁ」
「当たり前だ。もし、恋歌に指一本でも触れたら、わしは絶対にお前を逃がさない」
晋輔は静かに答える。
いつもと同じように。
彼は、いつも真面目な顔をして、ほとんど笑顔を見せない。
今までと同じ。
今までと同じ風を装って。
凍りつくような笑みを浮かべたまま、善次郎は恋歌を抱える手に腕に力を入れる。恋歌の首に回した腕に。
その冷たい腕は、人間の腕とは思えぬ力で恋歌の首を締め上げてきた。
「やめろっ」
高村晋輔は裏返った声で善次郎を制止する。
もちろん、善次郎は動きを止めない。
「……っ」
恋歌は焦り、苦しみながら、善次郎の腕を引きはがそうとする。
恋歌の両腕は自由だった。善次郎は左腕を恋歌の首に回しただけだ。恋歌は空いている両手を使って、善次郎の左腕一本を引き剥がすことができた。引き剥がそうとすることができた。
非力な女の手とはいえ渾身の両腕の力と男の片腕。
だが、善次郎の腕はびくともしない。
まるで恋歌が動かそうとしているのが、石像の腕でもあるかのようだ。
恋歌はこの危険な男に捕らわれたことに怯え、恐慌をきたしながらも、しかし、自分の「体」は自由であることに気づいた。
恋歌の首に回されたのは左腕だけだ。
確かに恋歌は左手一本で拘束されてしまったが、どうせなら暴れる胴体も抱え込むのが普通だろう。あるいは、左手で押さえたのなら、右手は刃物を突きつけて抵抗をやめさせる。それが不要だとしても、この男なら空いた右手で恋歌の体を弄るくらいのことはしてきそうなものだ。
締め上げてくる男の腕の中で微かに首を動かし、恋歌は善次郎が左手しか使っていない理由を知った。
善次郎には、右腕がなかった。
右肩から生えた右腕は肘より随分上で途切れている。血は流れていない。だが、その切り口はまるで獣か何かに食いちぎられたようだった。
恋歌は覚えている。
消える前、右手に燃え移った炎を見て、善次郎は笑い、そして左手で燃える右腕を掴んだのだ。
そしてその直後、爆音と閃光があの部屋を埋め尽くした。
「痛かったぜ。鬼だって痛いのさ」
と善次郎は低く呟くように言う。
「だが、こうするしかなかったからな」
あのとき、善次郎は消えた。
吸血鬼は消えることができる。それこそ幽霊のように、勝手に消えて、勝手に好きなところに現れることができるのかもしれない。霧になって飛んでゆくことができるのかもしれない。
今までだって何度か善次郎はそうしてきた。今度だけ素直に燃え尽きてくれた、と思うのが間違いだったのだろう。
だが、そのために、善次郎は右腕を捨てた。
自分を燃えつくそうとする炎を振り払うために、善次郎は己の右手を左手で引きちぎったのだ。
善次郎は笑っている。いつもこいつは笑っている。だが、恋歌の視界に映る善次郎の横顔は、その笑みかどこか引き攣っているようにも思えた。
強張った笑みをそれでも顔に貼り付けて、善次郎は高村晋輔に確認するように言う。
「お前は俺を殺す。殺すのだろう?そうだ。認めよう。お前は俺を殺すことができる。認めてやるとも。お前は俺を殺せる。だから、俺はお前を生かしたまま、無防備に眠ることができん。俺は……お前が恐ろしい」
それはこの傲岸不遜な男が始めて口にした本当の「弱気」であったのかもしれない。ついに高村晋輔は、この不死の鬼を恐れさせるところまで追い詰めたのだ。
だが、高村晋輔は笑わなかった。誇らなかった。
恋歌の視界の中で、高村晋輔は善次郎の言葉を聞いて唇を引き締めた。顔を心持ち青ざめさせて、厳しい表情で善次郎を睨んだ。善次郎を追い詰めた高揚感より、逆に追い詰められた恐怖心に囚われているようにさえ見える。
その視線を感じたのかどうか。
「お前が怖いよ」
そう言って、善次郎は腕に力を込めて、恋歌の首を締め上げた。
「っう……」
恋歌の苦痛は、言葉にはならない。
咽喉が圧迫されて、呼吸も出来ないのだ。
苦痛に目を閉じ、与えられない空気を求めて口を開く。
「やめろっ」
晋輔が叫んでいる。
晋輔は自分の仇を睨んでいるのだろう。
その情景を恋歌は想像できる。
だが、脳裏に描かれる情景とはかけ離れて、実際の晋輔の声は弱かった。
「やめろ……」
怪我をしているのか。
足の痛みがひどくなったのだろうか。
それとも他に彼は怪我を負ったのか。
その怪我は外からはわからなかった。
足を除けば、晋輔の体はほとんど無傷のように思えた。
それでも、恋歌は晋輔の負傷を疑わなかった。
そうでなければ。
「…かはっ……」
首を絞められ、呼吸を止められた恋歌の体が勝手に咳き込む。
善次郎も簡単に恋歌を殺すつもりはないのだろう。中途半端に締め上げる腕が、恋歌の反射的な動きを止められずに吸気を通す。ほんの僅か、恋歌の体は空気を得る。
その中途半端な呼吸が、更に恋歌の体を痙攣させる。
「やめてくれっ」
晋輔が叫ぶ。
どうした。
高村晋輔がこんなにも弱々しい声を吐くはずがない。
高村晋輔はひどく弱っていた。
相手が不死身の肉体を誇る怪物になろうとも仇を討つと言いきった高村晋輔。鬼を倒すのに必要な知識が、幕府に禁じられたキリシタンにかかわろうとも動じなかった晋輔。
それなのに。
これが高村晋輔の姿なのだろうか。
そりゃあ、晋輔は自分のことが好きだ。
だから、必死になってくれているのだろう。
その理解は当然で、それほど大きな驚きを呼ばない。
それでも晋輔の衰弱ぶりは、恋歌の予想以上だった。
「恋歌を、その娘を放せっ」
型どおりの台詞をはく晋輔。なのに、この口調の弱さは何だ。
親の仇と視線さえ合わせられぬ弱々しさは何なのだろう。
美雪が人質に取られたときだって、こんな弱さはなかった。晋輔は確かに善次郎に手出しできなかったが、だからといって彼の心は毅然として立ち向かっていた。
妹を模した春風を相手にした時でも、これほどではなかった。
晋輔は必死になっている。
善次郎はそれを嘲笑い、しかし、それを楽しんでいるようには見えなかった。
恋歌を人質に取ったことで得た優位を、この男ならどこまでも残酷な言動で楽しもうとするはずなのに。
善次郎は笑いながら、しかし、苛立った口調で呟く。
「本当にお前は煩わしい」
「恋歌を放せ」
晋輔は答え、もちろん、善次郎はその要求に従わない。代わりに、この鬼は不愉快そうに低い声で命じた。
「お前はここで死ね」
「わしを殺すつもりか。いいだろう。勝負なら受ける。何度もそう言っているだろう」
晋輔は高らかに声を張り上げ、応じた。
だが、善次郎は吐き捨てる。
「ばあか。勝負なんかするか。お前は一方的に殺されるんだよ」
「何?」
「剣を捨てろ」
「……」
「その場で剣を捨てるんだ」
あからさま過ぎるほど明白にされたなりふり構わぬ悪意に、晋輔は言葉を失う。
もちろん、恋歌は失わない。いかなるときでも恋歌は言葉を失わない。
「卑怯者!」
半ば咳き込みながらも、恋歌は叫ぶ。
それに対して、善次郎は面倒くさそうに答えた。
「ああ。そういうのはもういらねえよ。そういう人間の建前にはもう興味はないんだ」
興味がない。
本当にまったく関心のない口調で、善次郎は答える。
「人間」の規範にも、他の「人間」にどう思われるかも、まったく興味を持たない鬼。もちろん、武士道やら良識やらで説得するのはますます不可能だ。
だから、高村晋輔に交渉の手札はない。
その結果、晋輔の言葉は問い返すものになった。
「わしを殺せば、お前は恋歌に手を出さないのか?」
「ちょっ……」
……と待て。
恋歌は叫びそうになり、しかし、咽喉を締め上げる腕がその言葉を奪う。
高村晋輔が自分を簡単に見捨てられないのはわかる。
だが、ここで簡単に諦めるような不甲斐なさを、恋歌は高村晋輔の中に見ていない。
「そうしよう。お前がここで死んだら、俺は恋歌を放す」
善次郎は事も無げに答える。何の気負いもなく約束してみせる。
だが、その約束に多少なりとも重みを感じさせる行動を、この男は今までとってこなかった。この男の約束を信じて行動するくらいなら、木の枝に止まったカラスでも相手に約束したほうがましだ。言葉を話せない鳥が相手なら、少なくとも騙される心配はないのだから。
それでも、高村晋輔は沈痛な表情で右手の太刀の切っ先を下げる。腕の力を失い、剣は戦うための意思を捨てた。
なんだ、それ。
なんで、全幅の信頼を置く友人の言葉みたいに、こいつを簡単に信じるんだ。
恋歌は叫ぶ。
「そんなの信用できるわけないでしょうっ」
意外なことに、それは言葉になった。
締められる腕から抜けようとした恋歌は、自分の腕に力を込めると同時に少しでも開いた隙間から下へ抜けようと力を込めていた。
だが、驚きと反発で晋輔に向けて叫んだとき、恋歌は反射的に跳躍し、体は伸び上がった。そのために善次郎の腕から僅かに抜けたのだ。
もちろん、それは一瞬のこと。
その後も話せるようになったのは、善次郎が僅かに腕の力を緩めたからだ。
善次郎は笑っていた。
恋歌の指摘が、この男には愉快だったからだ。
この男は、特に恨みがあったわけでもない羽村屋籐衛門を殺した。ただ面白そうだからという理由で春風を鬼に貶めた。多少の鬱屈はあったにせよ気弱な女だった彼女に恋歌への嫉妬や世の中への怨嗟を焚きつけ、ついには春風を人にあらざるものに貶めたのだ。
こんな男の口約束など、信用できるはずがない。
善次郎もそれは知っている。自らの評価を知り、無残なまでに正鵠を射た評価が、この男にはどうしようもなく愉快だったのだ。
そして、その評価はもちろん、高村晋輔にとっても同意できるものだったのだろう。
彼は、むしろ困ったように善次郎に頷いて見せた。
「恋歌の言うとおりだ、とわしも思う」
「まあな。俺も信用してもらえるとは思っていないさ」
善次郎も苦笑して応ずる。
「だったら……」
「だが、俺の言うことを聞けば、少なくともお前の目の前で殺されることはなくなる」
「……」
「今、この瞬間、この娘が殺されることはない」
善次郎はゆっくりと余裕をもって話す。
それがお前の望みなのだろう?
と。
晋輔は言葉を失い、はっきりと動揺する。
だから、恋歌は強い口調で指摘した。
「大丈夫。こいつは私を殺さないわ」
もちろん、それは絶対ではない。だが、根拠がないわけでもない。
善次郎は最初から恋歌を望んだが故に、彼女を殺そうとはしなかった。春風が恋歌を殺そうとしたとき、善次郎はむしろそれを制したのだ。
この男に恋歌を殺す意思はない。恋歌を人質にしても、こいつにはその切り札を切ることができない……はずだ。
「ああ……」
善次郎が声を上げた。
それは笑い声のようでもあり、諦念の溜息のようでもあり、単なる同意の声のようでもあった。
「そうなんだよな。俺はお前が気に入ってる」
「ほら」
「お前を殺したくないとも思っている」
「ほらみなさい」
「だから、俺はお前を殺すつもりが……なかった」
なかった。
それは過去形の言葉。そして、事情が変わったことを暗に示す言葉だった。
つまり、今は……。
晋輔の顔は青い。
先ほど善次郎が晋輔を恐れていると宣言したときから、この若侍の表情は恐怖を思わせるほど青ざめていた。
瞬間、善次郎の言葉と高村晋輔の青ざめた顔が恋歌の中で符合した。
高村晋輔が怯え、青ざめる理由を理解した。恋歌の心配をするのは当然とはいえ、晋輔があまりに怯懦に過ぎる理由を理解した。
今まで善次郎の狙いは恋歌だった。
高村晋輔はそれを邪魔する障害に過ぎず、善次郎は晋輔自身には興味を持っていなかった。それはつまり、邪魔者である晋輔こそが善次郎の攻撃対象であったということだ。
逆に善次郎は、自分が望む恋歌を傷つけようとはしていなかった。もちろん、「弄び」「鬼に堕とす」ことが「傷つける」ことに含まないなら、の話ではあるが。
だが、今、善次郎は高村晋輔を自らの脅威であると認めた。
晋輔を恐れた。
だから、自分が無防備に眠る前に晋輔を殺すために、外が朝日に満ちようとするこの時間に現れたのだ。
今や、こいつの目的は晋輔を殺すことだった。
その目的は善次郎の中で、恋歌を「望む」ことよりも重視されている。
晋輔を排除することが、恋歌を「望む」気持ちよりも優先される。
それはつまり、善次郎が恋歌を生かしたまま手に入れようとする気が失せたことを意味していた。
善次郎にとって恋歌とは、自らが不死の肉体を有したうえで望んだ玩具だった。だが、もはや不死性は揺らいだ。高村晋輔はその気になれば善次郎を殺せるのだ。優先すべきは安寧の中での玩具ではない。自らの保身こそが優先すべきことに変わった。
高村晋輔は善次郎を追い詰めた。自らを善次郎に恐れさせるほどに。
晋輔への対応が優先順位を上げるのと同時に、恋歌を求める余裕は失われた。善次郎は恋歌に認めた価値を下げたのだ。自らの保身のために、善次郎は恋歌を捨て駒、あるいは良くて交渉材料程度としか考えなくなってしまったのだ。
高村晋輔は怯えている。
恋歌にはそれがわかる。
ある意味、それは恋歌の恐怖と同じ理由であったから。
恋歌は人質として意味を持つ。
高村晋輔が殺されることを望まない。そして、善次郎が殺すことを惜しまない。
今、初めて善次郎は恋歌を「殺す」ことを厭わなくなったのだ。
結局いつも通りのペース、ですね。
書き散らかした第一稿がなかなか整理できていません。




