97.夜明け 2
綾羽が落ち着くまでに少し時間がかかった。
楼主の死体の傍らで恋歌は階段に腰を下ろし、綾羽から事情を聞いた。
善次郎が現れたとき、高村晋輔や恋歌の指示で綾羽は階下へ駆け下りた。
その直後、綾羽があげた悲鳴で、郭にいた客から遊女、更には若衆まで、慌てて桜泉楼から逃げ出した。
そこまでは恋歌もわかっている。
だが、我先に逃げ出す人の群れに負けて、綾羽自身は逃げ遅れたらしい。
それでも逃げた連中の最後について郭を出た綾羽だったが、途中でその足を止めたのだという。
そして、彼女はおずおずとではあるが、桜泉楼に戻ってきた。
綾羽は逃げなかった。
どうせ逃げられない、と悟ったのだという。
考えてみれば、郭から逃げても綾羽に行く場所などない。
綾羽は女衒に買われ、桜泉楼に売られた。その証文は残っており、いくら皆が動揺しているとはいえ、自分で勝手に両親のもとに帰るわけにはいかない。
もし女衒に売り飛ばした娘が年季を明けずに逃げ帰ってきた場合、親は郭まで娘を連れてくる義務がある。娘がどれほどひどい目にあっていようと、そのことに抗議する権利を、娘を売った親は持たない。
だから、綾羽は逃げられなかった。
綾羽は、恋歌にそう答えた。
「うん。でも、それだけじゃないよね?」
恋歌は微笑んで、綾羽が言わなかった部分を推測する。
確かに綾羽には行く場所はない。
だが、それは他の遊女やカムロも一緒だ。一斉に逃げた彼らはきっと一晩をこの街のどこかで過ごし、朝になってから戻ってくるのだろう。それは本来遊郭に住む者が許される自由ではないが、ここは「丸山」だ。遊郭と外とを分ける門の出入りは極めて自由なのだ。江戸の吉原のような厳格な出入り制限がされているわけではない。
もちろん、桜泉楼の女たちが一斉に二重門から出てゆけば多少の騒ぎにはなるだろうが、それにしたって殺されるよりはましだ。実際、他の女たちが戻ってこなかったことを思えば、綾羽が留まったのは、当然のこととは言えなかった。
綾羽が戻ってきた理由。そんなのはひとつしか恋歌には思い浮かばない。
「……心配してくれたんだ」
「……そりゃあ、姉さんですし」
「ありがと」
照れたようなカムロの頭を恋歌は撫でる。
だが、いずれにしても、綾羽はそのまま逃げなかったことを、すぐに後悔することになった。
桜泉楼の入り口で、綾羽は楼主に捕まったのだ。
「よし、よく戻ってきた」
いきなり後ろから猫のように首根っこを掴まれ、彼女は二階への階段へと押しやられた。
楼主もまた一旦は逃げたもののすぐに引き返してきた口だった。
彼もまた、綾羽と同様、恋歌のことを気にかけていたのだ。
「あれにわしが幾らかけたと思ってる。わしの金のなる木を簡単に潰されてたまるか」
「……」
楼主も恋歌を心配していた。どうやら、それは必ずしも綾羽と同じ感情ではなかったようだが。
階段に押しやられた綾羽は、二階から聞こえてくる音や声を聞いた。二階では、誰かが畳の上で暴れているのだ。何かの棒を振っている風切り音も聞こえただろう。
もちろん、それは刀だった。二階では、嘉村晋輔と善次郎が刀を使って殺し合いをしていたのだ。
「行け」
楼主が命じ、綾羽は血相を変えて首を左右に振る。
冗談事ではない。
もちろん恋歌のことは心配だが、殺し合いをしているところに顔を出す気には全然ならない。
だが。
「いいから行け」
楼主は綾羽の襟の後ろを掴んで、少女を階段に押し付けるように押しやった。
自分よりはるかに小さな少女の体を盾にするように前に押しやりながら、楼主は自分も階段を上る。
結果、綾羽は半べそをかきながらも、剣戟の音のする方へと押しやられる。
だが、その結果、楼主は自らの体を少女の盾にすることになった。
綾羽にとっては、その咆哮は突然背後から聞こえてきた。
楼主にとっても同様だったはずだ。
二人は同時に振り返り、その異様な姿を見た。
どちらも悲鳴はあげなかった。
突然の咆哮。背後に迫っていた異様な姿。血塗れて長い異様な「腕」に刀を握る怪物。
二人は息を呑み、動きを止めた。
それが誰か、綾羽にはすぐにわかったという。
用心棒。
姉女郎恋歌は、綾羽にこいつのことを話していた。高村晋輔に斬りかかり、手もなくひねり潰されたという乱暴者。力を失い、たった一日で暴君の座を転落した鼻つまみ者。
もちろん、この男が暴力を失ったからといって、綾羽はこいつに対する態度を豹変させていない。無礼な態度はとっていない。それは、そもそも綾羽にはこの男と日常的に会話する機会がなかったからだし、腕を折られても、この男の粗暴さは気弱な少女にとっては恐ろしいものだったからだ。
だが、そのことが綾羽を救うことになった……のかもしれない。
綾羽と同様、楼主もまた、この異様な姿が誰なのかすぐにわかった。
大声はあげなかった。
ただ、驚く一方、相手が見知った男だとわかったことで、それも自分が飼い、見下していた男だとわかり、楼主は明らかに安堵を感じていた。
恋歌は楼主を知っている。そのときの楼主の心の動きが、恋歌には容易に想像できる。
楼主の中で、安堵は侮蔑へと繋がる。確かに楼主はそういう男だった。
実際、楼主はへっぴり腰で綾羽の背を押していた姿から身を起こしたという。
階段の下にいる役立たずを睥睨しする。相手の姿が自分の知る姿とは異なっていることは、楼主の警戒心を呼び起こしはしなかったらしい。楼主にとっては頭を下げるべき人間は、金か権力を持っている人間だけなのだ。多少姿が異様でも、自分が飼っていた男の一人。楼主には敬意を払うべき相手とは認識できなかった。
恋歌には、そんな楼主が想像できる。
尊大さは彼の視線に乗り、向けられた相手の怒りに火を点けただろう。
「クズが。まだこんなところにいたのか」
楼主は相手の変異に気を留めることもなく、低く吐き捨てたという。
そして、綾羽は、階下の男が身を震わせたのを見た。
それが長すぎる腕を制御するための動作である、と綾羽が認識するよりも早く、金棒のような刀は楼主を斬り捨てた。一瞬で肩口から咽喉の深くまで切り込まれた楼主は悲鳴さえあげずに倒れたという。ナマクラで切れないはずの刀が、非人間的な膂力で楼主の肉を叩き切ったのだ。
即死だった。楼主はついに悲鳴をあげなかった。
綾羽も悲鳴はあげなかった。
あげられなかった。
倒れてきた楼主の体は、ちょうど綾羽を隠すようにのしかかってきたのだ。
目の前で起きた惨劇に綾羽の体から力が抜ける。楼主の体重に抵抗することも出来ずに、綾羽は倒れこんだ。そのため綾羽の体は楼主に庇われるように隠れた。
綾羽は悲鳴をあげなかった。
綾羽は動かなかった。
動けなかった。
用心棒は楼主を斬った腕を残しながら、ゆっくりと階段を上がってきた。
そいつは泣いていた。
泣きながら歩いてきた。
そして、楼主の体に近づくと膝をつき、その死体に咬みついた。
そいつは目を閉じていた。
目を閉じ、狂犬のように唸りながら、楼主の肩口に牙を突き立て、零れる血を啜った。その間、そいつは綾羽のことは一度も見なかった。目を閉じた顔は綾羽の体のすぐそばにあったが、それでも綾羽のことを見ることはなかった。
やがて二階での剣戟の音が激しくなってきた頃、怪物はようやく顔を楼主の死体から離し、再び二階へと足を向けた。
綾羽は楼主の体に隠れ、動かずにいた。
震え、泣きそうになりながらも、こぶしを握り、それを自分の腕を口の中に押し込んでいた。
異形と化した用心棒が二階に上がり、おそらくは高村晋輔と戦いを始めたあとも、恐怖は去らなかった。あの怪物がいつ戻ってくるかと思うと、とても動くことは出来なかった。あの長い腕が伸びてきて、自分を貫く光景を想像しながら、綾羽はいつまでも自分のこぶしを口に押し当て、溢れそうになる声をひたすら殺しつづけたのだ。
*
話している間に恐怖がぶり返してきたらしい。綾羽が泣き止むまでにはまた少し時間がかかった。
その間、恋歌はしがみついてくる年下の少女を落ち着かせようと、少女の背中を撫で続けた。
「怖かったです」
綾羽の声は震えている。
「うん。よく頑張った」
恋歌は頷き、綾羽が怪物の目に留まらなかった僥倖に胸をなでおろした。
「そんなに近づかれたのによく悲鳴もあげなかったね。あの鬼をやり過ごしたなんて凄いよ」
恋歌はそう言ったが、綾羽は首を横に振った。
「いえ。きっと、あいつ私に気づいていたと思います」
「え?」
「私は楼主の体の陰に隠れようとしてたけど、その楼主にあいつは咬みついてたんです。気づかないはずないですよ。それに最初にあいつか吼えたとき、私、姿を見られてます。知らないはずはなかった」
「……でも」
「あいつは目を閉じてました。ずっと。まるで……」
綾羽は躊躇い、少し考えてから、その先を続けた。
「まるで私を見ないように我慢していたみたい」
「我慢……」
怪物が我慢していた。
その考えは恋歌の意表を突いた。
春風に比べれば比較的人としての姿を残していたとはいえ、吸血の鬼と化したあの化け物が、綾羽に気づきながら、見ないようにしていた?
何のために?
「見ると血を吸いたくなるから?」
「わかりません」
そう答えた綾羽だったが、その答えの速さは、自分も恋歌の示した答えを一度は考えたことを表していた。
あの用心棒は、ただの乱暴者だった。
酔った客を叩き伏せるのが好きで、遊女や若衆を脅して楽しんでいた。
粗暴で、品がない。皆の鼻つまみ者で、嫌われ者。
暴力によって居場所を作り、暴力によってそこに居座っていた。
恋歌は嫌いだった。
もちろん、綾羽もだろう。
たぶん、ほとんどの者はあの男を嫌っていたと思う。
陰気な春風と関わりを持ち、少し迷惑そうな春風によく張り付いてた。
そんなあいつが。
自分の欲望を抑えるために、綾羽を見ないようにしていた。恨みのない無関係な少女を巻き込むことを恐れ、自分の欲望を抑えつけた。
わからない。
恋歌には本当のところはわからない。
今さら実はいい人でしたなんて言われたって、恋歌にはあの男に対する自分の印象を変えようもない。
あるいは春風に比べれば人の形を保っていたあいつは、まだ様々な点で人間でいたのかもしれない。そして、人間なら、「食事中に他のことに頭が回らなくなる」なんて珍しいことではない。
理由は何であれ、綾羽が助かったのは良かった。それがあの用心棒の気分によるものなら、いくらだって感謝してやる。すでにこの世にはいない男のことを、恋歌は思った。だが、今はそのことに感謝し続けているわけにもいかない。
外は本当に明るくなり始めているように思う。
恋歌は綾羽の背を押して、送り出した。
「行きなさい。朝日が昇るまで、外にいたほうがいい」
善次郎は死んだ。もういない。
それでも自分の感情が納得できないまま、綾羽をここに置いておくことはできない。
「はい」
綾羽は頷き、階下へと歩いて行った。
自分のカムロが暖簾をくぐって外へ出たのを確認して、恋歌も晋輔に約束したものを手早く整える。
桶に水を。
その辺にあった布を丸めて一緒に抱えて、駆け足で二階へ上がる。
高村晋輔は、同じ姿勢で同じ場所で待っていた。
「ごめん。遅くなった」
「いや、下でお前のカムロの声がしたが、まだ逃げてなかったのか?」
どうやら聞こえていたらしい。
恋歌は頷きながら、桶を置き、比較的きれいな布を水で濡らしてから絞る。そして、高村晋輔の袴をめくりあげて、その血をぬぐった。
「っ……」
さすがに痛むのだろう。晋輔が顔をしかめる。
だが、それには取り合わずに、恋歌は晋輔の問いに答えた。
「そうみたい。だから、外に出ているように言ったわ」
「そうか」
晋輔は頷く。
顔を上げることなく頷き、彼は呟いた。
「良かった。あの子は大丈夫なんだな」
恋歌は若侍の横顔を見る。
彼が自分には関わりのないカムロの少女の無事を喜んでいる笑顔を見た。
いいやつだな、と恋歌は思った。




