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93.最後の夜(美雪) 14

 男は身を起こしても、すぐには立ち上がらなかった。

 気だるげに周囲を見やりながら、手を地面に着き、四つん這いになって動く。

 予備知識を持っていない者には、自分の置かれた状況に気付くまでかなり時間がかかるのだろう。美雪にはその僅かな時間の猶予さえ羨ましく思えた。

「ここは……」

 呟いた男に美雪は答えない。

 男の考えがわかるからだ。

 耐え難い渇きにも関わらず、自分が水を求めていないこと。子供の頃から躾けられてきた禁忌を破り、目の前の少女を屠りたいことに気付くまで、男には僅かであろうと時間が必要なのだろう。

 ふらつきながら身を起こし、周囲を見渡す。

 星灯りさえない暗闇にも関わらず彼の視界が広く澄み渡っていることを、美雪は知っていた。美雪自身が暗闇を苦にしていなかった。

 男の息が荒い。

 透き通った暗闇を通して、美雪は冷ややかに男を見つめていた。


 男は、まだ戸惑っている。自分の中の得体の知れない欲望をどう押さえ込めばいいのかわからない。どうにかすれば抑え込めると、男は信じている。


 男に憐憫を感じた。

 美雪は自分の渇きを癒すすべを知っていた。

 だが、この男はまだ何もわかっていない。


 美雪は目を閉じた。


 舌と胸の痛みは収まっている。それでも美雪は喉に触れた。渇いていた。喉はからからに渇いていた。強烈な渇きのせいで喉が痛む。呼吸をする度に肺に鋭い針が突き刺さる。潤いのない口は、いったん閉じると貼り付いて二度と開かなくなりそうだった。


 信仰心による苦痛では、渇きを忘れさせることはできなかった。所詮、中途半端な信仰心でしかない。苦痛さえ十分に得ることはできなかった。そういうことなのだ。


 だが、目の前の男のなんと潤いに満ちていることか。


 次に目を開くと、男は血走った目で美雪を凝視していた。

 男は、美雪と目が合うと居心地悪そうに目をそらした。自分の中の忌むべき飢えを見透かされるのを恥じているらしい。美雪の中に同じ欲望がわき上がってきていることに、男はまだ気付いてなかった。


 可哀想に。

 そう思ったとき、目から険しさが消えたのだろう。男には微笑のように見えたかもしれない。男は許しを得たと思ったのか、美雪のことを目で舐め回し始めた。

 男の中の血流の変化を感じることができる。男の中の戸惑い。抑えがたい欲望。少女を押さえつけ、首筋に食らいつき、その血をすすり、飲み干す。その想像で、男が勃起しているのを美雪は聞こえてくる血の流れで感じることができた。

 目が潤み、開いた口から切なそうな吐息がこぼれる。

 自分も同じような顔をしているかと思うと、見ていられなかった。目を伏せると、男がおずおずと足を踏み出すのが見えた。

「大丈夫」

 きちんとした言葉に聞こえたのは、同じ境遇にあればこそだろう。男の声は嗄れ、ひび割れて、ほとんど声になっていなかった。

「大丈夫だから」

 驚くほど冷たい男の手が、首筋に触れる。

 はじめは恐る恐る。けれど、次第に大胆に。

 やがて、男は美雪の首筋をゆっくりとなで始めた。

 男はごくりと生唾を飲み込む。視線が自分のうなじに注がれているのを痛いほど感じる。口を開き、開いては閉じる。少年が初めての愛の告白でもするみたいに、ためらい、恥じらいながらも、飢えを隠すことができない。その荒々しい呼吸が飢えの強さをそのまま表している。


 渇いている。


 男だけではない。美雪は干上がってしまいそうなくらい渇いていた。

 この男の血を一滴残らず飲み干したらこの渇きは癒されるだろうか、と思い、そのめくるめく悦楽の時を夢想し、喘ぐ。実際、想像するだけで、体が震えた。幾度か伽をして、郭の客から得た淡い快楽など、吹き飛んでしまうほどだ。

 内腿が濡れている。

 濡らした足の付け根を擦りあわせながら、美雪は俯いた。

 一度想像しただけで、その快楽は頭から離れなくなった。今では、忌まわしいのは血への渇望ではなく、それを妨げる微かな理性だった。


 恋歌。

 

 彼女は目を閉じ、心の中で悲鳴を上げた。


 あたし……堕ちる。


首筋に息がかかる。

 男が口を開いている。男も、もう欲望を抑えることができない。美雪の肩を掴む腕に、凄まじい力がこもっている。


 だが、美雪も我慢できない。

 我慢できない。


 ……堕ちる。


 美雪はついに渇きに耐え切れずに顔を上げ、男の顔を正面から見た。


 男の顔は、人間の顔とは思えなかった。

 顔の作りは間違いなく人間のものでありながら、獣よりも浅ましい欲望に突き動かされ、男は例えようもなく醜悪な表情になっていた。


 その顔が。

 その醜い顔が一瞬、逡巡した。

 一瞬、その顔に血への欲望よりも強い嫌悪感が表れた。

 美雪はその意味を知った。


 男の顔の中に怪物がいた。

 男自身ではない。

 男の血走った眼。その眼球……に映った顔。

 美雪だ。

 醜く浅ましい欲望に穢れた美雪自身の顔。


 男の歪んだ表情は、美雪の浅ましさに対する嫌悪感だったのだ。

 当然だ。

 あまりに醜く、あまりに浅ましく、あまりに歪んだ愉悦に笑った顔。

 開いた口から涎を垂れ流している醜悪な顔。


 澄んだ暗闇の中で、男の眼球に映った自分の顔に美雪は悲鳴を上げた。


 男の目に映った怪物の肌は青白く、そのくせ眼だけは赤く濁っている。何より、怪物は笑っていた。欲望を満たす喜びに震え、唇をゆがめている。

 それが今の美雪なのだ。

 悲鳴?

 とんでもない。男の目に映った怪物は嗤っていた。


 男ではなく、その瞳に映った自分への恐怖で、美雪は眼前の体を突き飛ばした。

 非力なはずの美雪に突き飛ばされ、男は、けれど枯れ木のように軽々と吹き飛んだ。


 また、箱に座ったあの女が嗤っていた。


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