92.最後の夜(美雪) 13
2014/4/19 サブタイトルを変更。(美雪)を前に。
美雪は覚えている。
去年のことだ。
桜泉楼である遊女のカムロがいなくなった。客で賑わう時間帯に姿が見えなくなったのだ。
消えた時間はそれほど長くない。
女衒を通じて郭へ買われてきたばかりの少女は、両親を思い、郭の外に出て、街の物陰で一人泣いていたのだ。
だが、偶然外に出た若衆に連れて帰られた少女を見て、彼女の姉女郎は、飛び込みの客へのもてなしに不手際が起きたと金切り声で怒鳴りつけた。
「あんたはっ。いつもどんくさくて役に立たないくせに、必要な時に部屋にいることもできないのっ?」
騒ぎを聞きつけてやってきた遣り手のサキも、遊女を制止しようとはせず、例によって冷ややかに少女を罰しようとした。
「ああ、ちょっと待って。ごめんなさい。それ、あたしが買い物を頼んだの」
そう口を挟んだのは、恋歌だった。
「だから、怒るんなら、私を怒って」
と。
そのときの恋歌は、その美貌で騒がれていたとはいえ、まだ楓付きのカムロにすぎなかった。姉女郎の異なる他のカムロに買い出しを頼むことなど、ありえない。まして、稼ぎ時の夜になど論外だ。誰も恋歌の言葉を信じなかった。そもそも、その少女自身、恋歌の言葉を否定してしまっていた。少女は動揺していて、恋歌の言葉に調子を合わせることもできなかったのだ。
その遊女もサキも、空振りした恋歌の言葉を嘲笑い、少女をかばう恋歌に邪魔をするなと怒声を上げる。
「関係ない奴は引っ込んでいなさい」
だが、恋歌は引かなかった。
「私は頼んだんだもの。この子が忘れているんなら、私がそのことを注意します。でも、この子が郭の外に出ていたことを叱るのは、私に対してにして」
「うるさい」
ついには少女の姉女郎が恋歌を突き飛ばした。
それでも恋歌は立ち上がり、少女との間に自分の体を入れることをやめなかった。
腹を立てたその遊女が、ついに恋歌の頬を張ったとき、ようやくサキはその遊女を制止した。それはもちろん、恋歌に対する優しさとは異なる理由からだったのだろう。
正直、あの時の恋歌の行動が正しかったのか、美雪にはわからない。
恋歌が庇ったことでかえって騒動が大きくなってしまった面は確かにある。
その点は多分、少女もわかっていただろう。
それでも、恐れていた姉女郎から庇ってもらえたというのは、少女には大きかったのだろう。あれから少女は恋歌に懐くようになり、恋歌が太夫になると、少女は恋歌付きのカムロとして引き抜かれた。
それが綾羽だった。
どんくさい、と呼ばれるたその少女は、姉女郎に対する恐怖心から解放されると、意外に要領よく仕事をこなすようになった。元姉女郎だったあの遊女は面白くなさそうだったが、さすがにそのことで恋歌を責めることはできず、サキに愚痴をこぼすだけになっている。
そう。恋歌を疎ましく思うのはサキや春風だけではない。
そして、春風たちが嫌う理由も、正直、まったくわからないでもない。彼らにしてみれば、思うように「上」になびかず、自分の考えを主張する恋歌は邪魔な存在なのだろう。まして、その我侭な少女が美貌を楼主に認められ、思うように自分たちの怒りをぶつけられなくなったとあれば尚更だろう。
そう。
美雪は理解する。
「きっと気に入らないんだろうな」
と。
そう思う美雪自身は、多くの場合上の者からは覚えめでたい地位を獲得している。
美雪は敵を作らないことを子供のころから学んできた。大きすぎる秘密を抱え込んだ身には、「敵」の存在は潜在的な脅威を常在させることになる。「敵」は邪魔者の秘密を暴きたがる。それがどれほど壊滅的な結末をもたらすかを意識することなく、秘密の存在をかぎつけ、それを容赦なく暴こうとする。
その大きな秘密を守るためなら、大抵のことは我慢できたし、必要なこと以外で我を張る必要はなかったのだ。
だからまあ、美雪に敵はいないと思う。
自分は大抵の人に嫌われていない、と思う。
だから、ある意味、「嫌われること」を平気で受け入れられる恋歌を羨ましいとさえ思っていた。
だが、美雪はこの同年代の美貌の同僚を好ましく思っていた。
そして、同じように思う者もまた、美雪や綾羽だけではないはずだ。
あの我侭も、多くの場合は我が身可愛さだけで発揮されているわけではない。
まあ、多少の例外はあるにせよ。
恋歌と一緒にいると楽しい。
あの奔放な性格には、こちらもつまらない遠慮をせずに言いたいことを言うことが出来る。
恋歌と一緒に楓の下にいられたことは、美雪には非常な幸運だと思える。
普通なら辛いはずの郭での生活でも、楽しい思い出を沢山作ることが出来た。
恋歌との色々な会話。
色々なできごと。
美雪は、それを大切に思う。
忘れてはいけないこと、だと思う。
それは例えば……。
例えば……。
いや、今はそれよりも。
美雪は気づく。
容赦なく強くなる生理的欲求に。
咽喉が渇いた。
咽喉が渇いた。
とてもとても、咽喉が渇いた。
そうして、美雪は目を覚ました。
*
美雪の目覚めは渇きによってもたらされた。
単にのどが渇いたというのではなかった。全身が干涸らびてしまいそうなほどに水分を欲していた。まるで生まれてから一度も水を飲んだことがないみたいに、彼女の全身が渇いていた。
のどが渇いた、と美雪は思った。
そして目を開ける。
彼女はどこか暗い場所にいた。
完全な暗闇の中、彼女は動かぬ体を冷たい土に横たえているのだ。
動かぬ体。
そう。
彼女は動けない。
その理由を思い起こし、自分に起きた残酷な出来事を思い出す。
「っ……」
思わず彼女は跳ね起きた。
起きることが出来た。
彼女は体を動かせた。
反射的に首筋を手がまさぐった。
それは簡単にわかった。
左の首に深く穿たれた牙の痕。
つまり。
この禍々しい記憶は正しい。
そして、これは夢ではないのだ。
彼女は上半身を起こしたまま、動きを止める。
考えることがたくさんある。
だが、考えたくなかった。
これから起きることを彼女は知っている。
昨夜、姉女郎の身に起きたことを追体験するのだ。
「いやだ……」
泣き声さえ囁くような声でしか出なかった。
彼女は顔を歪め、両手で顔を覆った。
「いやだよぉ……」
静寂の中、彼女の声だけが響く。
聞こえるのは、彼女の声だけだ。
だが。
同時にどこかで誰かが嗤っているのが聞こえたような気がした。
いや、これは気のせいだ。
ここは静寂に満ちている。
聞こえるのは、微かな水の音だけだ。
笑い声なんて聞こえない。
だが。
誰かが自分を冷ややかに見つめているのを感じた。
美雪は周囲を見渡した。
この部屋にいるのは美雪だけではなかった。
部屋の隅に、誰かが倒れている。
男だ。
死んだように動かない。
だが、死んではいない。
それが美雪にはわかった。
男は呼吸している。微かにその呼吸音が聞こえる。
だが、もっとはっきりわかることがある。
男の血は流れている。
男の全身を網羅する血管の中には、今もなお力強く血が流れているのだ。
美雪には何故かそれがわかった。
わかってしまうことが恐ろしかった。
彼女は横たわった男の体から視線を逸らし、もうひとりの「人物」に気づいた。
視線の主だ。
部屋の隅にある箱。
その上に掛けられた布。
紅毛人の寝台のような箱。
そこに一人の……女が、座っていた。
女だ。
多分、これは女なのだ。
だが、恐ろしく冷ややかな視線だった。
二人の位置の高低差に大した差はない。
だが、その視線は美雪を虫けらでも見るような視線で見下していた。そして、冷たく嗤っていた。
鬼だ。
こいつが美雪を咬んだ鬼なのだ。
そして、こいつが「聞こえない嗤い声」の主なのだ。
そいつはもう、美雪に手を出そうとはしない。
それは勿論、優しさなどではなく、奪うべきものは奪ったからだ。
そいつにとって、美雪はもはや、渇きを満たすための獲物ではなく、単に変化に興味をそそられる観察対象でしかないのだ。
美雪は目を閉じる。
そうすれば、少なくとも冷ややかな視線を感じないで済む。
そう期待したのだが、実際には目を閉じても女の視線は感じられた。目を閉じても、冷ややかに自分を観察する悪意は感じられた。
目を閉じても感じられる視線。そして音。
どこかで水の音がする
滴の滴る音が目覚める前から聞こえていた。
周囲は暗闇だったが、それは不安を呼び起こしはしなかった。子供の頃、彼女は夜中に便所へゆくのが怖かった。暗闇には何かが潜み、蠢いているような気がしたものだ。
けれど。
けれど、あのときはもっと怖いものがあった。
見つかるのが怖かった。村の外にいる連中は全て敵であり、信用できなかった。彼らは美雪達を監視していて、少しでも気を許せば、たちまち美雪の信仰を暴き、容赦なく捕らえる。物心つくと同時に、拷問の恐ろしさをすり込まれ、秘密を守ることの大切さを叩き込まれた。
狩られるのが怖かった。捕らえられ、生きている限り続く拷問が怖かった。
……違う。
本当は拷問に耐える自信がなかったのだ。いつまでも続く苦痛の果てに自分が仲間を売り渡すことを想像すると、身の毛がよだった。もしかしたら、自分はすべてを投げ出すかもしれない。永遠の祝福を捨て、生前の僅かな安楽と引き替えに仲間の名前を次々と口にするかもしれない。それは勿論、地獄行きを意味するのだ、と教えられた。
永遠の苦痛。永遠の呪いだ。
拷問から逃れて得た僅かな一生をかけて苛み、死して後さえ逃れられぬ咎。すなわち 堕落。
そうだ。
自分は堕ちたのだ。
美雪は思い出すと同時に理解した。
先ほど感じている渇き。これは自分を苛む呪いなのだ。
ゼズス様。
助けてください。
生まれてから繰り返しすり込まれた信仰が、堕落の恐怖さえ神に助けを求めようとする。
だが。
「お助けください。ゼズ………」
ゼズス様。
口の中でその名を形作ろうとした瞬間、突然、美雪は舌が火傷するような痛みを覚えた。
舌が無数の針に刺されたように痛み、言葉にするために吸い込んだ呼気は肺の中で炎に変わった。口が開き、嗄れた悲鳴が溢れ出した。
「がぐがあああああああああ」
痛い。痛い。痛い。比較するもののない激痛が、胸を、喉を苛んでいる。
何故。
痛い。
助けて、神様。
その思いを口にすることはしかし、もうできなかった。
長く続いた悲鳴は、闇に溶けた。再び静寂が舞い戻る。
いや、今度は本当の静寂ではない。
今度は嗤い声が聞こえた。
箱に腰かけたまま鬼の女が嗤っているのだ。
それが自分への嘲笑であることを感じ、実際に自分が嘲られる存在に落ちたことを感じ、美雪は自分を抱きしめた。
寒かった。
凍えるほどに寒かった。
そして、渇いていた。
女は不意に嗤うのをやめる。
口を閉じ、美雪を黙して見つめる。
そうすると、それこそ彫像のようにこれっぽっちも動かなくなった。
冷たい彫像のように動かぬ姿勢で、冷たい視線を美雪に向け、美雪への観察を再開する。
呪いだ。自分が招いた呪いだ。
これは罰なのだ。
あるいはそれ以前の問題なのかもしれない。
昨夜、善次郎が十字架を怖れたように、ただ汚れた美雪が聖なる言葉を口にできなくなっただけなのだ。罰、などという、神様の能動的な意思が介入する以前の「反応」にすぎないのだ。
つまり。
「汚れちゃったんだ、あたし」
……その自覚は容赦なく腹の底まで染み通った。
それはもう、「恐怖」ではなかった。
見つかるかもしれない、拷問を受けるかもしれない、という可能性の話ではなかった。恐怖とは、言うなれば、それがどれほど忌まわしいものであろうと、「未だ結末に至っていない者の贅沢」なのだ。しかし、美雪の心の中にある暗闇は恐怖ではなかった。
それは、ただの「絶望」だった。
自分の悲鳴を聞いて、横たわっていたもうひとりの亡者が身を起こすのを目の端で捉えながら、美雪は自分の肩を抱いて震え続けた。




