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91.最後の夜 12

 まずい。


 恋歌は動けない。

 どうせ動いても、恋歌の動きでは間に合わない。


 善次郎の方が炎に近く、そして速い。

 いや、そもそもこいつは距離に関係なく炎を消せるのだ。


 善次郎は炎を消し、その瞬間、この部屋は暗闇に落ちる。

 暗闇の中では、いかな高村晋輔でも、鬼と戦うことは出来ないだろう。完全な暗闇の中では見えない鬼の襲撃を防ぐ手立てはないはすだ゛。

 善次郎は嘲り、笑いながら、恋歌たちを痛めつけて屠る。

 それは想像ではなく、眼前で起きている現実の出来事のように恋歌には見えた。

 焦りと恐怖が恋歌を縛る。

 決して止まってはいけないこの時に、恋歌の体を縛りつける。


 そもそも、恋歌が動いたとしてどうなる。

 この非力な娘が善次郎に近づくことの意味は、死でしかない。

 反射的に、思考の形さえ取らぬきょうだが恋歌の体を拘束する。


 それでもっ。


「動くな」

「……っ」


 自分を縛ろうとする目に見えぬ鎖を強引に引きちぎろうとする恋歌の脇を、高村晋輔が走り抜ける。

 もちろん、痛みはあるのだろう。それでもその足音は、彼が足の痛みを無視して走っていることを伝えた。

 晋輔は腰を落とし、体を低くして、太刀を持った右手を鋭く振る。

 善次郎に向かって。

 だが、それは斬撃のためではなかった。善次郎はまだ、晋輔の太刀の旋回範囲に入っていない。


「え?」


 高村晋輔は太刀を投げたのだ。


 恋歌は反射的に体を固くする。自らの武器を放り出すという晋輔の行動は、恋歌には自暴自棄にしか思えない。

 それでも、持ち主の手を離れたとしても、刀は刀だ。十分な重量を持った怜悧な刃が回転すれば、それは依然として人の命を殺めうる。少なくとも普通の人間が相手なら、生命にかかわる重い傷を与えうる。

 だが、回旋しながら自分の方へと飛んできた太刀を、善次郎は片手で叩き落とす。その手は間違いなく刃に当たっていたが、善次郎は何の痛痒も感じたようには見えなかった。

 そのことには、恋歌は驚かない。

 今さら、高村晋輔も驚きを見せない。

 晋輔は太刀を捨てた右手を、再び左腰に添える。

 太刀のない腰に。

 そこには太刀の鞘だけが残っていた。

 先ほど、恋歌と二人だったとき、彼が何のためか布で巻いた鞘だけが残っていた。


 晋輔はそれを腰帯から引き抜く。


 そして。


 ……ああ。


 その瞬間、恋歌は納得する。


 これが「それ」の使い道だった。

 もちろん、これが「それ」の使い道だった。

 これこそが、「布を巻いた鞘」の使い道だったのだ。


 高村晋輔は善次郎に近づきながら、その鞘を炎の芯に触れさせる。

 鞘に巻かれた布は、たちまち炎に包まれた。


 それは暗闇を照らす松明だった。


 大きくしっかりとした炎だ。

 蝋燭のようにひと吹きで消せる炎とは違う。

 きっと、鬼が簡単に握りつぶせるような炎ではない。


 何より、今更消そうとするには、高村晋輔はすでに善次郎の懐に入り込んでいた。


「くっそお」

 善次郎が嗤い、悪態をついた。


「お前なら光を残すだろう」

 高村晋輔はそう呟くように言う。

 その囁くような声が恋歌の耳に届くのと同時に、高村晋輔は炎を纏った鞘を振る。更に強く善次郎へと踏み出す。

「お前がわしらから光を奪うはずがない」


 お前はわしらを怯えさせ、互いの死を見せつけたがるはずだ。


 それは言葉にはされなかった。それは一瞬のことで、そんな台詞を吐いている時間はなかった。

 それでも恋歌には高村晋輔の思考が理解できた。彼の「読み」が正鵠を射ていたことを理解した。

 不死を誇る善次郎の慢心。他者が苦しむ姿を喜ぶその嗜虐性。

 善次郎の性格を理解したうえで、高村晋輔はすべての炎が掻き消されないことを予想していたのだ。


 高村晋輔は鞘を振る。

 

 その布に覆われた棒は、燭台から炎を纏ったばかりだ。

 もちろん、それが晋輔の目的だった。鞘に巻いた布。それは松明となって薄暗い室内を照らし、晋輔の顔を紅く染める。晋輔の睨みつけるような目と善次郎の怯えたような目を照らす。


 蝋燭のように簡単には消せない炎。

 切っ先を早く振るっただけで消えてしまわない炎。

 確実に善次郎に届けられる炎。


 鞘は加速する。

 炎を纏うために減速したことが嘘だったかのように。


 善次郎は目を見開いていた。

 自らを不死と呼んだ男が、生身の男を恐れて後退する。


 それでも、そいつの唇は大きく開いていた。

 その表情の意味が恋歌にはわからない。


 それは恐怖に引き攣った歪みだったのか……

 あるいは、笑っていたのだろうか。

 自分の滅びさえをも達観して、この男は笑えるのか。


 善次郎は逃げている。

 半ば転ぶように体を泳がせながら、腕を回す。

 その手が障子を掴んだ。

 用心棒であった怪物の腕が引き倒した障子だ。そして、その怪物の血に染まった障子だ。

 善次郎が腕を振ると、それが紙切れのように晋輔の方へと飛んでくる。


 晋輔は躊躇しない。

 あるいは躊躇している時間さえなかったのかもしれない。

 彼は火の点いた鞘を振り回しながら、その中に突っ込んだ。

 高村晋輔が旋回させた炎はその木と紙に触れた。


 瞬間、光が室内を照らした。

 障子が炎に飲まれ、炎は……膨れ上がる。


 春風の血が油のように発火したように。

 春風の血の穢れを炎が望んで浄化するかのように。


 その光はただの炎とは思えぬほど強かった。

 炎上、というよりは、落雷の閃光に近い強さ。


 それでも、晋輔はその閃光の中に飛び込んだ。


 膨れ上がる炎。


 その寸前。その向こうに善次郎の右袖に飛び火した炎が見えた。

 その目にあったのは紛れもない恐怖だ。


 怯え、振り払うように右手を振る一方、左手を右肩へと持ってゆく。

 それは、恐慌をきたした鬼の姿だった。


 鬼が顔を上げる。

 その目が恋歌を捉え、牙を剥いた。


 そして。


 再び閃光が部屋を満たした。

 爆発。

 そう呼ぶしかない光と風だった。


 強烈な光が視界を潰し、暗闇と等しく視力を奪った。

 それは静かな稲光だった。

 視界が光に潰される瞬間、善次郎の笑みが恋歌の網膜に焼きついた。

 自分の袖についた炎を睨み、その炎がどうしようもなく大きくなってゆくのを睨む善次郎が焼きついた。


 同時に吹き付けた大気の壁が、恋歌を吹き飛ばした。


 足が畳から離れた、と思った。

 次の瞬間、後頭部を何かに強打した。

 瞬間的に視界が捉えた光景から、それが床の間の柱なのだと理解する。恋歌は部屋の中央から床の間まで吹き飛ばされたのだ。

 同時に、目の前に転がった小柄な男が、高村晋輔なのだと理解する。

 彼は動かない。


 だから、恋歌は立ち上がろうとして失敗する。

 体が動かない。

 世界が回る。暗くなる。

  

 自分は気を失おうとしている。

 恋歌は、そのことを理解する。


 一瞬、その一瞬だけで理解は広がる。

 高村晋輔は目を閉じている。きっとすぐには動けない。

 この状態で恋歌が意識を失うわけにはいかない。


 視界は揺らめき、暗転しかけている。

 善次郎は?


 わからない。


 わからないのなら、駄目。

 今は気を失っては駄目。


 せめて晋輔を引っぱたいて、叩き起こさないと。


 だが、世界はぐるぐると回り、光を失おうとする。


 それは恋歌の意識であり、世界の現実でもあった。 

 爆発の光は一瞬だけ輝き、そして消えたのだ。


 そこに善次郎の姿はなかった。


 春風のときとは異なる。

 春風のように長い時間をかけて、炎は善次郎を焼かなかった。

 だが、炎は確かに善次郎の腕を飲み込み、それを餌にするように膨れ上がったのだ。


 だったら。


 善次郎の姿は残らない。

 その点では春風のときと同じだった。


 だったら。

 

 善次郎は消えた。その意味するところは。

 その結論を出すことは、出来なくても。

 善次郎の消失。

 そのことだけは確認しながら、恋歌は意識を手放した。

 

次回は視点変更。

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