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90.最後の夜 11

 怪物が吼える。

 あるいは泣いているのかもしれない。

 苦痛に。

 あるいは怒りに。


 薄い障子の紙がその咆哮にビリビリと震えた。


 その咆哮に身を竦ませながらも、恋歌は驚きに呟いた。

「切れた?」

「なぜだ……」

 晋輔の口調も驚きに染まっている。


 もちろん、怪物の膂力は人のそれとは比べ物にはならない。

 その不死性も「生物」の持つものではない。

 そもそも、怪物を斬ったのは善次郎だ。鬼の膂力が鬼を斬っただけだ。高村晋輔に真似できるとはかぎらない。


 それでも。

 怪物の腕は、善次郎とは違った。

 生身の頭で受けながら、刀に金床を叩いたような衝撃を与えた善次郎とは違うようだった。


 恋歌は直感的にその意味を悟った。それはつまり、まだこいつが「完全な鬼」になっていないということなのだ。

「半端者が……」

 善次郎の吐き捨てるような言葉もそれを証明していた。


 善次郎は無造作に火の消えた燭台を掴むと、それを支える一寸程度の太さの「柱」をへし折った。割り箸でも折るような気軽さで。

 見つめる恋歌の視線を無視して、自分を狙った怪物へと歩み寄る。

 そいつが誰なのか、善次郎は知っているのだろう。

 あるいは、そいつが誰を好いていたのかも知っているのかもしれない。だから、この怪物が何故自分を狙ったのかも理解しているのかもしれない。

 だが、例えそうであったにせよ、善次郎は頓着しなかった。

 口元を歪め、けれど冷たい視線をかつて「用心棒」と呼ばれた男に向けながら先端の尖った「杭」を持って近寄る。

「……まさか、あんた」

 目の前の残酷な鬼が何をするつもりなのか、ようやく理解した恋歌の呟きが聞こえないかのように無視して、善次郎は杭を振り上げる。

「静かにしてろ」

 感情を込めない声で言い、けれど顔には歪んだ笑みを貼り付けて、善次郎は「仲間」ともいえる鬼に、その白木の杭を振り下ろす。

 そして、怪物の胸に杭は深々と突き刺さった。


 怪物が吠えた。

 口を顔そのものよりも大きく開いて絶叫する。

 どす黒い血が巨大な口から溢れ出す。

 突き刺さった杭は、人の体が血の詰まった袋であるかのようにあっさりと突き刺さり、杭との隙間から血を噴出させる。

 その咽喉は体内から溢れ出し、逆流する血に詰まっているのだろう。絶叫は溺れる者の叫びでもあった。

 先端を切断され、一間程度短くなった腕を振り回し、切断面から血を噴出しながら、そいつは咆哮し、暴れまわろうとする。噴き出した血は、善次郎の体を濡らし、障子を赤黒く染める。だが、善次郎は全身に浴びる「仲間」の血を全く気にせずに力こめる。

「じっとしていろ」

 善次郎の力は、その怪物を完全に押さえつけていた。

 用心棒は胸を貫く杭で畳に打ち付けられ、残った左腕を振り回そうとしながらも善次郎に踏みつけられて動けずにいる。


 怪物が吼え、善次郎は愉快そうに笑う。

 楽しそうに杭を捻り、体重をかける。

 もはや怪物を貫通した杭は、より深く畳に突き刺さるだけだ。

「痛えか?」

 善次郎が笑う。

 噴出する怪物の血に顔を染めながら、怪物よりも怪物らしい、人の形をした鬼が嗤う。

「痛えのかぁ」

 痛いに決まっている。

 この怪物にどの程度の痛覚があるのかはわからない。

 だが、胸に杭が刺さっているのだ。

 痛覚があるのなら痛みがないはずがない。


「なんで俺に手を出そうとした」

 善次郎は怪物の目を覗き込むように問いかける。

 もちろん、怪物は答えない。そんな知性があるのかも疑わしく思える。

 だが、そいつに知性はあるのだ。知性はあったのだ。

 それは善次郎の次の言葉への反応で証明された。


「春風を鬼にしたのは、俺だ。お前わかってるのか?」


 鬼は吼えた。

 痛みへの泣き声ではなく、明確な怒りをもって、善次郎の顔に咆哮を叩きつける。

 善次郎の笑みは揺るがない。冷たい目を細め、握り締めた杭をもう一度、更に強く捻り込んだ。


 怪物が吼えた。


 そして。


 怪物の体が黒く染まり始めた。

 まるで目に見えない炎に焼かれているように、全身が炭化してゆくのだ。


 心臓に白木の杭を打ち込めば、鬼は死ぬ。


 出島の商館長は、小百合を通じて高村晋輔にそう言ったらしい。今、恋歌たちの目の前で、それが実践されている。商館長もまさか吸血鬼同士が殺しあうとは思わなかっただろうが。


 こうして見ている恋歌自身、こんな展開は予想していなかった。


 呆然とした恋歌は、そのおかげで眼前の戦いから意識を逸らすことが出来た。あるいは逸らしてしまった、と言うべきかも知れない。


 その疑問は、突然恋歌の中に沸いてきた。


 美雪は今どうしている?


 そうだ。

 怪物同士が争ってくれるなら、恋歌たちがここで見物し続けなければならない理由はない。


 美雪は鬼に捕らえられた。

 もう、彼女は吸血鬼に咬まれてしまったのかもしれない。まだ咬まれていないかもしれない。


 だが。

 いずれにしても、美雪はまだ鬼になっていないかもしれない。

 鬼になるのに時間がかかるのだとしたら、まだ間に合うのかもしれない。不完全な鬼、というのはどういう状態なのだろう

 あるいは、もう間に合わ……いや、間に合う。

 まだ、美雪は恋歌たちの助けを待っている。待ってくれているはずだ。


 恋歌はその可能性に縋った。

 善次郎を、目を離すわけにはいかない鬼を睨みながら、ここにはいない大切な友人のことを想った。

 

 美雪を助けたい。

 そのためには、ここでこうしている余裕はない。

 美雪を捕らえているのは、善次郎を鬼にした最初の吸血鬼なのだ。

 善次郎やら用心棒やらを相手にしている時間はないのだ。


「美雪……」

 焦りは知らぬうちに、恋歌の口から零れでた。

 善次郎は耳ざとくそれを聞きとがめる。

 そのことに、恋歌は不用意に友人の名を口にしたこと後悔した。


「あの女かあ……、今ごろどうしているかねぇ」

 嫌らしい嗤い。

「そろそろ鬼になったころか?」


「あの子は鬼になんてならない」

 恋歌は根拠なく呟く。


 美雪には高村晋輔の剣術のような武器はない。

 美雪が捕らえられたということは、何らかの理由で彼女の信仰は鬼を退けられなかったのだろう。つまり今の美雪は、吸血鬼に対してまったくの無防備なのだ。

 それでも、恋歌は望みうる唯一の可能性を夢想する。

 極めて少ないその可能性を口にする。


「美雪は今頃逃げ出すことに成功しているかもしれない」


 善次郎は嗤った。

 いや、笑った。

「逃げる?」

 いきなり気の利いた冗談を不意打ちで聞かされたように、この残酷な鬼が吹き出した。

「あの陰険で狡猾な女から逃げるだと?」

 よほど面白かったのだろう。

 唇をかみ締める恋歌と高村晋輔の前で、善次郎は愉快そうに笑った。


「逃げるなどできないさ。逃げられるわけないだろう」

 善次郎は笑う。

 面白そうに。あるいは面白くなさそうに。

 善次郎は恋歌を見下ろしながら、目には意外に真剣な光を残しながら、笑い続けている。


「あの娘は鬼になるしかない」

「あんたがそう思ってるだけでしょ」

「あいつから逃げることなど絶対に出来ない。あの娘にできるのは……」


 その先の言葉は、はっきりと声には出されなかった。

 ただ、その先を知りたくて、善次郎の口元を見ていた恋歌には、この鬼が声に出さずに紡いだ言葉を読んだ。


 長い言葉ではなかった。難しい言葉でもなかった。

 だが、その瞬間、恋歌にはその言葉の意味が理解できなかった。

 さほど難しくないその文章の意味が理解できなかった。


 いずれにせよ善次郎は講釈しない。

 善次郎は、恋歌に何事か伝えようとしたわけではない。そんな義理もそんな優しさもない。


 次第に動きを弱めてゆく用心棒を貫く杭から手を離す。

 酷薄な笑みを唇に乗せたまま、炭化してゆく自分の同類を眺めた。

 体を炭のように黒くしながら、それでもその怪物は善次郎に吼えていた。残った右手を善次郎に向ける。意味は不明だが明らかに怒りのこもった声を善次郎に向ける。

 その周囲を回りながら、善次郎は嗤う。



 恋歌は動きを止めていた。善次郎と用心棒とのやり取りに目を向けながらも、頭はほかの事を考えていた。

 恋歌は善次郎の唇を読んでいたから。

 その言葉の意味が次第に理解できてくる。



 善次郎は音にせずにこう「言った」のだ。

 鬼にならないようにするため、あの娘に出来るのは……

「勝つことだけだ」と。



 高村晋輔は善次郎の言葉に頓着などしていなかった。


 善次郎が「仲間」の鬼の周りを回っていたとき、善次郎がある位置に来たとき、晋輔は畳を蹴り、太刀を引き付け、善次郎に突進した。

 それは二つの燭台がもっとも善次郎に近づいた時だった。


「逃げられないのなら、わしらが助けに行けばいい」

 高村晋輔はそう言った。


 善次郎は酷薄な笑みを浮かべて答える。


 そうか。

「じゃあ、まずは俺を片付けていけ」


 そうして彼は炎に向けて腕を伸ばし、簡単にひとつの炎を握りつぶす。


 恋歌にはわかる。

 高村晋輔は、善次郎が燭台に近づいた時を狙ったのだ。


 だが、恋歌にはわかってしまう。

 善次郎は距離を無視して炎を握りつぶせるのだ。

 善次郎は嗤う。


「俺を殺せ。やれるものならな」


 残った火の点いた蝋燭は一本。

 一気に暗くなった室内の中。

 自分の目の前にある最後の蝋燭に向けて、善次郎は腕を伸ばした。

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