9.目覚めを強いられるもの
誰かが見ている。
彼は目が覚める前から、視線を感じていた。
冷たく、悪意に満ちた視線を。
まだ目覚めてはいない。
彼は、泥のような眠りにいる。
ねっとりとまとわりつくような息苦しさ。
夢さえも押しつぶす圧迫感。
不快だが、それでも目覚めるよりはましであろう眠り。
劣悪だが、最悪とはいえない。
目覚めて見渡す世界、それが最悪なのだ。
眠りの中であがきながら、彼はそれを感じていた。
寝ていることが苦しい。
死んでいるみたいに。
それでも感じることがある。
起きてはいけない。
起きたら、もっとひどいことが待っている。
そして、自分はその世界に耐えられない。
目を開く前から、彼はそのことを知っていた。そのことに怯えていた。
そして、そんな自分を、誰かがどこかで見ている。
今、自分は見られている。そして、その視線は悪意を持って自分を見ている。
だから、このまま眠っていなければいけない。
彼はそれを知っていた。そのことに怯えていた。
それでも。
それでも、目覚めは渇きによってもたらされた。
単に「のどが渇いた」などというものではなかった。全身が干涸らびてしまいそうなほどに水分を欲していた。まるで生まれてから一度も水を飲んだことがないみたいに、彼の全身が渇いていた
のどが渇いた、と彼は思った。
どこかで水の音がする
滴の滴る音が目覚める前から聞こえていた。
おそらくは、そのために彼は眠りから覚めたのだ。
最後の記憶は夜の森だった。
丸山で遊び、帰宅途中で近道をしようと森に入った。
尿意をもよおし、木の根元に小便をした。
それから。
それから……。
家路を目指し、歩き出したような気がする。
そこまでだ。
そこまでの記憶しかない。
目覚めはひどく気怠く、不愉快なものだった。立ち上がるために腕を動かすのも億劫だ。足なんて自分のものとも思えない。それでもいざ動かしてみると、風に吹かれる枯れ枝のように軽く動いた。
ひどく弱々しい、けれど何故か凶暴なほどの力が、体のどこかに潜んでいる。
周囲は暗闇だったが、それは不安を呼び起こしはしなかった。
子供の頃、彼は夜中に便所へゆくのが怖かった。暗闇には何かが潜み、蠢いているような気がしたものだ。
酒を飲み、女を抱く頃になると、そんな気配は感じなくなった。たとえ足にまとわりつく気配があったとしても、酒と女と自尊心が足下の不安を蹴り払った。
だが、今や彼は二十年ぶりに闇に蠢く気配を感じていた。子供の頃、夏のある日、大木に登ってみたら、体を包む無数の葉に無数の毛虫が蠢いているのに気づいたときのような感覚。無数の毛虫達が草を食む音が耳を圧するようなあの不快感。
だが、不思議なことにそれはちっとも不快ではなかった。
水の音がする。
飲みにゆこう。
飲みに行くべきだ。自分はこんなにも渇いているのだから。
誰かが見ている。
悪意をもって。たちの悪い好奇心をもって。
いや、今は渇きだ。
今ならどれほど汚れた水でも自分は口をつけるだろう。
そう思ったが、聞こえてくる水音は、何故か彼を招いてはいなかった。
こんなに渇いているのに。
本当に干上がってしまいそうなのに。
それなのに、彼は水を飲みたくなかった。一滴の水を考えることさえ嫌だった。澄んだ水のことを思い浮かべると吐き気さえ催しそうだった。
だが、渇きは癒されない。
のどが渇いた。
彼は気を紛らわせるようなものを探した。塗りつぶしたような暗闇だったが、何故か視界は果てしなく澄んでいた。だから、すぐそばに横たわっている男を見たとき、何故こんなにそばに人がいるのに気付かなかったのだろう、と彼は不思議に思った。
濡れ布団のように重い自分の体を引きずり、倒れた男の顔を覗き込む。見たことのある顔だった。
善次郎だ。
江戸から来た遊び人。たしか、丸山一番の遊女恋歌の初夜を買った男だ。
羨ましいと思い、腹立たしくも思ったものだ。丸山のすべての男の夢を、何故江戸の男などに売り渡すんだ?いくら金を積まれたのか知らないが、桜泉の楼主も不甲斐ない、と仲間と嘆いたこともあった。
何故、こんなところに?
もちろん、わかるはずがなかった。自分がここにいる理由もわからないのだ。そもそもここがどこかさえ。
彼はただ暗いところにいて、そばには江戸から来た男が眠っていて、そして誰かが彼らを見ていた。
いずれにせよ、彼が最初に見た。
最初に目覚め、最初に渇きを感じ、最初に相手を見つけた。しかも、そのとき相手はまだ意識を失っていた。彼の方が、圧倒的に有利だった。だが、彼はまだ何もわかってはいなかった。自分の置かれた立場も。どれ程優位な立場にいるかも。賭けにのぼっているものが何なのかさえ。
彼は男を目覚めさせようと手を伸ばした。その手が意識のない男の首筋に触れた瞬間、指が知覚した。
どくん。
体の中に何かが目覚めるのを感じた。体の中の何かが、醜い頭をもたげ、舌なめずりし、涎を垂らすのを感じた。彼は思わず手を離した。悲鳴さえあげたかもしれない。だが、指を通じて得た間隔を、体の中の荒々しい欲望は容易に忘れはしなかった。
この男は生きている。
触れる前からそんなことはわかっていた。
だが、この男は生きている。
触れた指先に愛おしい感覚が残っている。
焼けるように熱い体温。
うっすらと滲んだ汗は床の埃で汚れている。
首の皮膚の下で脈打つ筋肉。
何より、力強い拍動と、勢いよく流れる血潮。この男の全身を網羅するか細くも逞しい血流。
彼は渇いていた。だが、水は欲しくない。自分が何を求めているか、彼は初めて気付き、震え上がった。
自分は、この男の血を求めている。
ぞっとするようなその事実を言葉として脳裏に浮かべるのに、彼は長い時間を必要とした。ようやく、その可能性を意識すると、次に彼はその欲求を否定しにかかった。
ありえない。
血だって?
馬鹿げてる。
あんなもの飲みたいなんて思うわけがない。
あんな。
ドロドロして。
汚い。
赤くて。
赤くて。
温かくて。
塩気を含み、命を含み、芳しい匂いの……
駄目だ。
許されない。
身の毛もよだつような欲望だ。
生まれてから一度だってこんな欲望など感じたことはなかった。
善次郎が、身じろぎする。
喉をつぶしたような呻き声が聞こえてくる。息を吹き返す。死者のように力を持たなかった四肢に、ゆっくりと力が蘇ってくる。
気付かないでくれ、と彼は思った。
目の前で動き出されたら、自分がこの男の喉笛に噛みつかずにいられるか、まったく自信がもてなかった。
頼むからそのまま気を失っていてくれ。俺がどこかへ行ってしまうまで、あるいはこの汚らしい欲望を抑え込めるまで、俺の目を見ないでくれ。
震える自分を抱きしめながら、彼はそう心から願った。
だが、善次郎はごろりと転がって顔を上に向けると、濁った眼球を彼に向けた。
全身の肌が泡だった。
目の前の男は、まっすぐに彼を見つめていた。
瞬間、彼は、目の前の男が自分の同じ渇きを抱いていることを知った。しかも、そいつは自分の求めるものが何であるのかを、目覚めと同時に理解していた。そしてその欲望を、これっぽっちも恐れていない。水でも酒でもない、ほかのものに自分が飢え、渇いていることを、この男は何ひとつ怯えることなく受け止めていた。
善次郎が立ち上がる。
慌てて、善次郎から離れようと身を起こした彼は、心のどこかで自分の優位が一瞬で失われてゆくのを感じていた。
「待て……」
俺だって、お前を殺したいんだ。殺して、お前の血をごくごくごくごくと飲んでみたいんだ。
だから。
だから、お前だって俺を恐れるべきなんだ。俺だけが逃げる必要なんかない。
だが、善次郎は恐れてはいなかった。
善次郎の欲望は、彼のものと等しかった。
だが、善次郎には躊躇がなかった。
ようやく、彼は賭に乗っているものが何か、彼は理解した。
勝ったものが生き延びる。その血を得る。敗れたものは、その命と血を勝者に貪り食われる。賭けに乗っているものは「命」だった。
そして、どこかで見ている誰かはその勝敗によって生かすべき者を決めるのだ。
「やめろ」
善次郎が彼の手を握ったとき、彼の心にはまだ血を求める自分に対する嫌悪感があった。殺人を求める自分の心を認められずにいた。一番恐ろしいのは自分だった。それを善次郎が恐れないということが理解できなかった。
俺はこの男を押さえ込みたい。
そう思ったとき、彼は善次郎に押さえ込まれていた。
この男の首筋に顔を埋めたい。
そう思ったとき、善次郎の吐息を喉に感じた。
血を飲みたいと思った瞬間、善次郎の鋭い牙が自分の喉笛を裂くのを感じた。
俺の喉は血に飢えている。血を飲んでみたいんだ。
吹き出した鮮血を、善次郎の喉がごくごくと飲み干している。唇がびちゃびちゃと汚らしい音をたてている。善次郎の喉が感じている悦楽を望みながら、彼は自分のすべての機会が失われたのを知った。