89.最後の夜 10
高村晋輔が鬼の腕と恋歌との間に体を挟まなかったら、恋歌は斬り殺されていただろう。あの潰れた刃ではきれいに「斬る」ことはできないかもしれないが、あの金棒のような刀に殴られ、彼女は体の中身をぐしゃぐしゃにされていたはずだ。
恋歌にもそのくらいはわかる。
高村晋輔は、彼女を庇ってくれたのだ。
だが、彼の体が緩衝になったとはいえ、吹き飛ばされ、畳に叩き付けられて苦悶に呻く恋歌には、感謝の言葉を口にする余裕はなかった。しかも、彼女を守った晋輔は、倒れた彼女の上に落ちるのだ。
「大丈夫か?」
自分の身を案じてくれている言葉に返す言葉が出てこない。
畳に背中を打ち付け、腹を晋輔に押しつぶされた恋歌は呼吸さえできずに転がった。
視界の隅で、善次郎がにやにやと笑っているのが見えたが、あの男は今はとりあえず見物に興じて、自分で手を出す気はないようだった。
きっと、それはありがたい話なのだ。
だが、この部屋にいるだれに対しても、今の恋歌は感謝する気になれなかった。
確かに、高村晋輔は鬼の斬撃から恋歌の身を守ってくれた。
だが、吹き飛ばされた晋輔の背中は、恋歌を緩衝に勢いを殺したのだ。
強い感謝と同時に、僅かに理不尽な不満が心の中に芽吹く。
それが数刻前に出島でオランダ商館長が感じた不満であることなど、もちろん彼女は知らなかった。
もっとも、恋歌の場合、吹っ飛んできた高村晋輔の体に巻き込まれたのは初めてではなかった。
善次郎が初めて鬼として現れた夜、やはりこうして恋歌は吹き飛んできた晋輔を身体で受け止める羽目になったのだ。
痛みに呻きながら、あの夜のことを思い出し、恋歌は呟く。
「なんで、あたしばかり……」
「……大丈夫か?」
「ったあ。どいてよ、重いわね」
だから、恋歌の晋輔を見る目が多少恨みがましいものになったとしても、それはやむを得ないだろう、と恋歌は思う。
「すまん」
晋輔の謝罪は、真剣な口調ではあったが、とってつけたように等閑だった。
その体を押しのけて、腰を上げかけた恋歌は、晋輔の口調の理由を知った。
鬼の腕は恋歌たちを吹き飛ばし、その頭上を振り切っていたらしい。
いくつもの襖と障子をへし折り、部屋の柱に刀を打ち込んで止まってた。
鬼は意味不明な泣き声を発しながら、恋歌を睨んでいる。
その腕が蛇のように蠢きながら再び動き始める。柱に打ち込まれた刀が引き抜け、その刃が裏返って恋歌たちの方へと向けられる。
決して速くはない。高村晋輔の斬撃に比べれば、児戯かとさえ思える。
だが、躊躇も情けもない殺意を乗せた斬撃に恋歌の足は竦む。
「っ……」
声は出ない。
また、できることもない。
恋歌の体はまだ先ほどの衝撃であちこち痛んでいたし、そもそも鬼の膂力で叩き付けられる刃に対して、非力で無防備な女の力でできることなど何もなかった。
晋輔が立ち位置をずらす。
鬼の刀が恋歌を狙うその軌道上に再び自分の体を差し入れたのだ。
「わしの背中に隠れろ」
「……はい」
「しがみつけ。何があっても絶対に離れるな」
強い口調で晋輔が命じた。早口すぎて、恋歌の返事より晋輔の次の命令の方が早かったかもしれない。
それに反発する心がないでもなかったが、動きだした鬼の腕の不気味さが、恋歌の依怙地な気分を封じた。
「でも、これってまた、あたし、あんたの下敷きにされるよね」
このくらいは反発のうちにも入らない、と恋歌は思う。
晋輔も今さらこの程度では目くじらを立てない。
声に笑みを滲ませながら、頷いた。
「そうだな。そうらしい。かなり大変らしいぞ」
「……なにそれ」
まるで誰かが既に経験したような口ぶりだった。晋輔に守られながら、何度も小さな痛みを味わった誰かの愚痴を聞いたような口調だった。
それは小百合が話していた出島でのことなのだろう。
すると相手は……
だが、晋輔は答えない。
その背後にいる恋歌には、彼の表情は見えない。だから、彼が例え苦笑していたとしても、恋歌には見えなかった。
鬼の腕が力を取り戻した。
その暴風が晋輔に叩き付けられる。
晋輔はまた剣を立てて鬼の力を受け止めながら、自ら後方に、つまり恋歌の方に跳んだ。
自分の後ろにいろ、という晋輔の指示に恋歌は従っていた。それがまた痛い目にあう方法だとわかっていても、死の危険から逃れるために、恋歌は当面従うしかなかった。
晋輔は刀を斜めに倒している。
だから、その鬼の膂力のすべてを受け止めているわけではないのだろう。
それはきっとごく一部なのだ。この小柄な若侍でも受け切れる程度の力。
そして、それでもこの小柄な若侍を吹き飛ばすだけの力。
晋輔の背中がぶつかってきたとき、恋歌は驚きはしなかった。
だからといって、痛みが軽くすむわけでもない。
吹き飛ばされた恋歌は、接地と同時に晋輔の背に押しつぶされ、背中を打って呻く。
「立て」
「……痛いんだけど」
「だが、立て」
晋輔の命令は端的だった。
もちろん、その意図はわかっている。
彼は全力で恋歌を守ろうとしてくれているのだ。
恋歌に否はない。否は言えない。
ちくしょう。
心の中でだけ悪態をついて、恋歌は立ち上がる。
背を向けた晋輔がどんな顔で自分の前に立っているのか、恋歌にはわからない。
想像の中の彼は、例によって感情の起伏に乏しい表情で、それでも真剣に鬼を見据えているはずだ。見えなくても、それは既視の光景のように恋歌には感じられた。
晋輔が跳ぶ。
恋歌は逃げられない。逃げない。
晋輔の背が自分を押し、自分の足が浮くのを感じる。瞬間的な浮遊感。
そして。
背中への衝撃と腹部への圧迫感。
「ふぅっ……」
腹の中の空気が強引に押し出され、色気も何もない声を恋歌から搾り取る。
「立て」
恋歌は逆らえない。
晋輔が飛んでくる。恋歌は彼の下敷きになる。
だから、彼はすぐに立ち上がれる。
そして言う。
「立て」
恋歌は逆らわない。
鬼の刃から守ってくれる晋輔の背を、恋歌は守っている……ことになるが、晋輔は礼を口にはしない。
「立て」
善次郎がにやけながら見ている。
「立て」
あれはにやけているのだろうか。
視界の隅に見えた善次郎の表情が羨望のように思えたのは、どうせ気のせいなのだろう。
そんなことを考えているうちに、再び晋輔の体が砲弾と化す。
「立て」
何度吹き飛ばされただろう。
そのうち頭をどこかにぶつけ、軽く意識が飛んだが、高村晋輔に強引に引き戻された。
何度晋輔の下敷きにされただろう。
時間は?
わからない。
ずいぶん同じことを繰り返しているように感じられる。
ずいぶん長い時間が経ったように感じられる。
でも、以外に大したことないのかも。
回数は?
わからない。
時間は?
もっとわからない。
繰り返すのは、晋輔の「体当たり」の衝撃。
そして晋輔の短い命令。
「立て」
「立て」
「立て」
呻き身じろぎした恋歌に、晋輔は低く命じる。彼はすでに上体を起こして、敵の姿に目を向けている。やはり、恋歌を下敷きにしたことで、彼は衝撃の多くを緩和できているのだ。そう考え、恋歌は思わず言い返してしまう。
「あんたが邪魔で立てないのよっ」
「なら、わしが立つから、立て」
「……なんだか、すっごく腹が立つんだけど、他の誰かもこんな経験したの?」
「さあ。そんなに腹が立ったかどうかは、わしにはわからん」
晋輔は苦笑しながら答える。
「立ったに決まってるじゃない」
恋歌は吐き捨てるように答えるが、高村晋輔は苦笑を強めて答えただけだった。
「そういえば、やはり不愉快そうな顔をしていたな」
「……同情するわ」
いや、同情じゃなくて共感か。
そんなことを考えながらも、恋歌は立ち上がる。
立つしかない。
だが、今度は少し時間があった。
鬼の腕がまだ旋回してこない。
通り過ぎた腕は、また部屋の反対側に大刀を強く打ち込んでしまったのだ。
その刀を引き抜くために、鬼の腕は再び力を送り込まれている。そのために僅かに時間が遅れている。
そのことに恋歌が気づいた瞬間、晋輔は恋歌の手を引いて走り出した。
鬼に向かって。
そのことに驚きながらも、恋歌も慌てて駆け出す。高村晋輔の足を引っ張るわけにはいかない。命を賭けて自分を守ってくれるこの若侍の足を引っ張るわけにはいかない。
部屋の中で灯った蝋燭は三つ。
善次郎が高みの見物をしてくれているおかげで、蝋燭の火の数は減っていない。
そのひとつが、晋輔とあの大刀を握る怪物との間で揺れている。
晋輔は左手で恋歌の手を引きながら、逆の手に握った太刀を旋回させる。
それはもちろん、火の点いた蝋燭を薙ぐための軌道だった。
その旋回は素早く、恋歌の目には見えない。
とはいえ、起きるべき事象は明白だった。
高村晋輔に炎を押しつけられた鬼は、昨夜の春風のように発火、炎上するのだ。
だが、起きた事象も明白だった。
ただ、その瞬間の出来事は、恋歌には理解できなかった。見えなかった。
鬼に向かって走っていた恋歌を、突然晋輔の手が引き戻した。
前進していたはずの晋輔が、突然恋歌より後ろに跳び下がり、恋歌を引き戻したのだ。
肩に痛みが走り、恋歌は悲鳴を上げる。
だが、高村晋輔は謝罪しない。
その顔には余裕はなく、薄暗い蝋燭の光が影を強く引き立てている。
薄暗い?
恋歌は瞬間的にその意味を理解し、晋輔の太刀の刃と燭台の蝋燭を見比べる。
晋輔の太刀は蝋燭を切断しておらず、蝋燭は燭台の上に立っていた。
だが、その先端に炎は……ない。
そして、善次郎が伸ばした手を握り締めていた。
この男がまた炎を握りつぶしたのだ。
「あんた……」
「そりゃあ、邪魔するさ。俺が黙って見ているとでも思ったのか?」
善次郎は、嗤う。
それに対する鋭い舌打ち。
それだけを残して、晋輔は飛び下がる。
恋歌は腕を引かれて引きずられる。
だが、もちろん、三間もある腕の旋回範囲からは逃れられない。
刀以外の部分には、あるいは攻撃能力はないのかもしれないが、血塗れで蠢く筋繊維の束に好んで触れたいとは、恋歌だって思わない。
晋輔は焦って後退し、結局鬼の刀を再び立てた太刀で受け止めた。
もちろん、恋歌がその背中を受け止める羽目になった。
善次郎が嗤っている。
好きな顔じゃない。
好きになれるはずがない。
それでも、あの春風を好いていたらしい男がこうして自分たちだけを狙うことが悔しくて。
自分が狙われることを納得してしまうのが悲しくて。
高村晋輔が何の言い訳も反論もせず、淡々と戦いを続けていることが悲しくて。
そして何より、善次郎が高らかに笑っていることが悔しくて。
我慢できずに恋歌は叫んだ。
「なんであんたが笑っているのよ。春風がああなったのはあんたのせいでしょう!」
善次郎が声を立てて笑った。
化け物はその声に反応した。
あるいは恋歌の叫び声を理解したのかもしれない。
化け物が吼える。
泣く、のではなく紛れもない怒りを込めた咆哮を迸らせる。
その顔が善次郎へ向いて牙を剥き、その腕を旋回させた。
善次郎は嗤っていた。
化け物の刀が自分へと向かってくるのを見て、こいつはその高らかな嗤いを小さなものに変えた。視線の冷たさはそのままに。
「邪魔だ」
善次郎は無造作に自分の刀を振り上げ、そのへっぴり腰のまま振り下ろす。
無様な姿。
力の入れ方がわかっていない素人の素振り。
だが、圧倒的な膂力で振るわれた刀。
そして、怪物の腕が切断された。




