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88.最後の夜 9

 それは鬼だった。

 人として生まれながら、渇きの呪いを受けた怪物の姿だ。その姿は昨夜見たばかりの姿にも似ている。

 だが、そいつの姿は、春風とまったく同じ、というわけでもない。豚と蝙蝠と狼の醜いところを足して三で割ったような姿とは違う。

 そいつの姿は「まだ」人間だといえた。

 耳まで裂けた口からは長く鋭い牙が尖っている。

 口のように大きく開いた眼窩の中には、真っ赤に染まった眼球が睨んでいる。

 全身は毛で覆われ、耳は尖り、髪は逆立っている。


 人とは思えぬ姿。

 だが、それでもその輪郭は、概ね人間としての形を保っていたのだ。


 そして、その異様な顔を、恋歌はどこかで見たことがあるように思う。

 その声をどこかで聞いたことがあるように思う。

 だが、その姿も声も恋歌は思い出すことが出来なかった。


 人型の化け物。

 輪郭だけを見るならば、ほぼ人間のままだ。


 その右手を除けば。


 そいつの右手は長かった。

 正確には、そいつの「右肘から伸びた二の腕」が長かったのだ。泣きながら歩いているとき、そいつが引きずっていたのはこの右腕だったのだろう。

 普通の右の二の腕から真っ赤な「腕」が伸びている。本来の生身の手とは違う。まるで手首の上から継ぎ足したように、異様な腕が三間(約5.4m)近く伸びている。血管や筋繊維が荒縄のように縒り合わさり「腕のようなもの」を形成し、それが「大太刀」を握っているのだ。


 ほぼ人としての輪郭を保った化け物。

 だからこそ、その異様な右腕は目立った。


「何よ、こいつ」

 恋歌はつぶやく。


「わからないか?」

 善次郎はニヤニヤと笑いながら問いかける。

「お前、こいつのこと、知らないのか?」


 そう言われて、恋歌が反射的に考えてしまったのは、美雪のことだ。

 春風が遂げた怪物への変貌を、美雪も強いられてしまったのかと思ったのだ。

 だが、そいつの野太い声。かろうじて残る人としての輪郭。どれも美雪のものではありえなかった。

 その怪物をじっと見つめ、そのことを確認して、それだけは間違いないことを確信して、恋歌はまずは小さく安堵する。


 小さく。

 あくまで小さく、だ。

 長い間安堵してはいられない。

 そんな余裕はない。


 そいつの長い腕は、自らの腕が濡れた血で障子を濡らし、その枠組みごと引きずってゆく。細い格子をへし折り、枠組みをひっかけて敷居から引きはがた障子を引きずりながら、それは再び旋回する。

 晋輔は躱した。

 速度こそ遅いがやたらと長いその腕を、高村晋輔は躱した。


 鬼が吠える。


 水面に見える魚を逃した釣り人が釣竿を罵るように、長すぎる自らの腕に吠える。

 獲物のすぐそばまで自分の武器を運んでも思うように獲物を捕らえられぬもどかしさに苛立ち、小癪な獲物に腹を立てる。

 だが、その腕に握るのは釣竿ではない。

 自ら銜えなければ害がないちっぽけな針とは違う。

 それは明確な悪意を持って高村晋輔を狙う刃だった。


 晋輔はかわす。


 長すぎる腕は簡単には止まらない。

「主」の意識はどこまで通じているのだろう。長い二の腕の先にある指の先端にまで感覚があるだろうか。

 刀は握られている。

 だから、感覚はあるのだろう。

 握る。

 振るう。

 それらの動きは確かにできている。だが、それでもその長い腕の動きは遅れがちではあった。長い釣竿の先端を操ろうとしているように、とまでは言えないものの、そいつが自分の腕の長さを上手に操れていないことは間違いなかった。


 だから、晋輔の動きには、浅くとはいえ足を怪我したにもかかわらず、余裕が残っている。


 もちろん、遊んでいるわけにはいかない。

 相手は刀を振り回しているのだ。


 その刃は、鋭利とは言えない。

 まるでただの金棒のように刃が潰れた刀だった。


 その大刀を、恋歌は見たことがある。

 その大刀が、見たことのないはずの鬼の姿に隠れた「男」の姿を想起させた。


「……まさか」

 恋歌は呟いた。

 善次郎が嗤う意味を理解した。

「まさか……あいつなの……?」


 瞬間、呟いた恋歌を鬼の目が捉えた。


 真っ赤に充血した目が見開き、裂けた唇からは郭全体を震わせるような唸り声が迸った。


 鬼が大きく足を踏み出す。全身を翻す。

 もちろん、それは偶然ではなかった。

 鬼の気まぐれなどではなかった。


 そいつは渇きに苦しみ、飢えに狂いながらも、憎しみの対象を見つけたのだ。

 恋歌はそのことを悟った。

 この鬼が誰なのか。

 この鬼が誰を好いていて、誰を嫌っているのか。

 

 恋歌は知った。

 恋歌は知っていた。


 楓が話す噂話で、あの粗暴な男が度々春風を街に連れ出していたことを聞いていた。


 恋歌は知っていた。

 だから、恋歌は理解する。

 この鬼が好いていた女の敵として、恋歌には憎まれる理由があるのだ。

 

 長すぎる腕が鞭のようにしなり、高村晋輔を狙ったいた軌跡を強引に逆転させた。晋輔の頭上を掠めたばかりの腕が、今までの調子を崩して突然向きを変える。同時にそいつが踏み出した足が、太刀の旋回の中心をずらし、旋回範囲から逃れていたものを巻き込もうとする。

 

「待て……」


 高村晋輔は、鬼の腕をかいくぐったところだった。

 足の痛みがあるにせよ、彼は余裕を持って鬼の腕から逃れたところだった。


 だが、そいつの腕が自分とは異なる獲物を狙ったのに気づき、高村晋輔は強引に立ち上がった。

 恋歌の目から見て、その動きには無理があった。

 彼は鬼の腕をかいくぐるためにしゃがみこんでいたのだ。

 背中を丸め、膝を折り、腰を落として、重心を下げていた。その途中だったのだ。

 だが、まるでその部分だけ恋歌が見落としていたように、高村晋輔はしゃがみこむ姿勢から強引に立ち上がった。

 足の傷も痛んだのだろう。その顔に険しさが加わる。それでも彼は立ち上がった。


 鬼の腕が戻ってきていた。


 もちろん、高村晋輔はそれに気づいている。この小柄な若侍は、刀が相手である限り、ほとんど無謬の動きを見せ続ける。

 だから、それは不意打ちではなかった。

 彼にとって突発的なできごとではなかった。


 微かな。

 本当に微かな足の動き。


 彼は恋歌に向けて足を踏み出していた。

 そうするしかなかったのだ。

 しゃがみこんだまま鬼の腕をやり過ごしてしまったら、自分の前に刀を逃してしまったら、もう恋歌を狙う太刀を捉えることはできない。

 

 だから、高村晋輔は迫る太刀に向けて身を捻りながら、僅かでも恋歌の方へ足を踏み出した。

 それだけが迫る鬼の膂力を僅かでも殺す方法だったのだ。

 彼が自分の前に立てて構えた太刀。

 それだけが、せめて鬼の刀を受け止める唯一の方法だったのだ。


 晋輔の太刀に鬼の剛力が振るわれる。

 その長い腕が握る大刀が、太刀を構えた高村晋輔ごと吹き飛ばした。


 木偶のように呆然と見つめていた恋歌。

 本当は刹那のような一瞬、晋輔の動きを見つめて自分の動きを止めてしまった恋歌。


 高村晋輔の背中は砲弾のように飛んできて、恋歌の体を押し飛ばした。



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